最近の記事

一方その頃(もう一つのストーリー)6

二回目に入所した施設で、 私は10年暮らす事になります。 私の部屋は、 小学低学年の子どもたちばかりの8人部屋でした。 広さは8畳程度。 夜になると、 ひしめきあうかのように布団を敷いて眠っていたのですが、 見回りの先生が廊下を通り過ぎると、 私以外の7人の子どもたちが、 毎夜私の背中の上で、 キャッキャ声を上げて、飛んだり跳ねたりしていました。 私はその時のイジメの対象でした。 イジメはリーダー格の指示により、都度ターゲットが変わります。 それはとても日常的な事であり

    • 一方その頃(もう一つのストーリー)番外編

      少し母の事を書きたくなったので書こうと思います。 *** 母は、昭和30年に鹿児島県の練兵町というところで生まれました。 母の母、つまり私からして祖母は、 三味線のおしょさん(師匠)で、とても美しい方だったそうです。 写真はたったの1枚しか残っていませんが、確かにとてもお綺麗でお上品そうな方です。 母の父、つまり私からして祖父は、 祖母よりもかなり年上の、いわゆるお爺ちゃんという雰囲気の方です。 こちらも1枚だけ写真が残っています。 この二人の馴れ初めまでは

      • 一方その頃(もう一つのストーリー)5

        しばらくして、母が入院する事になりました。 病名は肺結核。 サイコロの5の様な形で、右肺に穴が5つあいていたそうです。 家族感染の疑いがあったため、私たちも検査を受ける事になりました。 私たちを見てくれた医者は、さぞかし驚いた事でしょう。 その頃の兄と私の体は、 全身紫色に腫れあがり、無数の火傷やロープ跡などが見られたからです。 そして小児結核を患っていたので治療をして、 その後私たちは、一時保護所と呼ばれる場所でしばらく生活をしていたと思います。 母と『化

        • 一方その頃(もう一つのストーリー)4

          兄のnoteを読んで、あまりに知らない事が多かったので、 興味本位で私もnoteを作成してみる事にしましたが、 正直、たくさんの誤解を発見したので驚いています。 *** 私は妹が生まれた数か月後に、なんと、兄が出来たんです。 その時の衝撃は、なんとも言葉にできません。 妹が生まれるまで私は、一人っ子だと思っていましたので、 まさかのまさかです。 テレビアニメなどの影響を受けて、お兄ちゃんには猛烈に憧れていたので、すごく嬉しかったです! とにかくずっと引っ付い

        一方その頃(もう一つのストーリー)6

          一方その頃(もう一つのストーリー)3

          人の記憶というのは、いい加減なものだなぁと改めて思います。 これまでに幾度かAC克服などを目的として、過去を思い出すワークをしたことがありますが、思いだす記憶はその度に微妙に異なっていたりもします。*AC=アダルトチルドレン 母と映画に行っていた記憶など、すっかり忘れていました。 現在の私は、とても愛のパワーの強い方たちに囲まれているためか、 とても幸せな日々を過ごしています。 だからかなぁ、母と映画を観た事を思い出せたのは。 今回noteをやってみて嬉しかった事

          一方その頃(もう一つのストーリー)3

          一方その頃(もう一つのストーリー)2

          「あんたパーマ屋の子と仲良かったやんか。」 大人になってから母によく言われたんですが、全く覚えていません。 私の記憶では、 私はあまり人と話さず、 本を読んだり、原始人のぬりえを淡々とやっているような子でした。 母は当時、二十歳ぐらいでしたが、 昼間はデパートでレジ打ちをして、夜はラウンジ?で働いていました。 何度か『お父さん』という名前の人がいたり、 住む家が変わったりしましたが、 そんなに辛い思いをした記憶はありません。 ただ、その後起こった恐ろしい出

          一方その頃(もう一つのストーリー)2

          一方その頃(もう一つのストーリー)

          私が生まれた時、父親はいませんでした。 なんでも、 「ポコポコ子供ばかり生みやがって、ましてや女なんか可愛くもない」 そう言って、兄だけを連れてどこかへ行ってしまったんだとか。 あんたの父親は、最低な男だ! 母はいつもそう言っていました。 必死で兄を探して、 必死で働いて私を一人で育ててくれていました。 私はほとんどの時間、保育園で生きていました。 保育園が終わったら、次の保育園に行って、 夜遅くに、 「お母さん来たよ」と起こされて、家に帰る時もあれば、

          一方その頃(もう一つのストーリー)