8月15日は「第1の終戦の日」で,3月11日は「第2の敗戦の日」なのか?
※-1 今年も8月15日が来た。この日は「終戦の日」と表わすべきか,それとも「敗戦の日」と呼ぶべきか? 「3・11」(東電福島第1原発事故発生)のことを「第2の敗戦」と受けとめる人たちもいる。
本日,2024年8月15日の新聞朝刊は,岸田文雄が首相を9月で辞めるという記事が1面で大きく取り上げられていた。『毎日新聞』朝刊の画面を以下に紹介するが,『日本経済新聞』になると1面には取り上げず,社会面(34面)に下げていた。
a) 隣国の韓国では,8月15日のことを「光復節」と呼ぶが,その光を奪っていたのが旧大日本帝国であった事実は,あえて指摘するまでもあるまい。ある意味で彼ら被植民地の人びとは,この8月15日に「勝利した」といえる。誰に勝利したかといえば,その旧日帝であった。
だが,こちら側の旧日帝(いまの日本国)にあっては,「敗戦の日」とこの8月15日を呼ぶ人は,ごくまれに例外的に存在するだけである。
補注)ここまで書いたところで,『産経新聞』に掲載されていたつぎの寄稿をみつけた。
防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛 「〈正論・戦後72年に思う〉昭和20年8月15日が,どうして『敗戦』ではなく『終戦』」なのか」『産経新聞』2017年8月10日 09:00,https://www.sankei.com/article/20170810-7PJST6MLL5I2NFZW5B5K65V7MI/4/ という文章をみつけた。
佐瀬昌盛の言及は日独の違いにまで触れていたが,ここに引用の範囲内では紹介できないので,興味ある人は上のリンク先住所から,全文を読んでもらえれば幸いである。
この佐瀬昌盛の「敗戦感」は正直であった。そうとしか受けとれない「敗戦体験」を,わざわざ「終戦」にいいかえることはできないという意見であった。
b) つまり「紛れもない敗戦」だったあの8月15日の出来事が,どうしたら敗戦ではなく終戦と表現できるのか,佐瀬は肌感覚として絶対に理解できないと語っていた。
佐瀬昌盛の「敗戦感」は正直にそう語っていた。そうとしか受けとれなかったはずの「敗戦体験」であったから,それを「終戦」とは受けとれないという,自然な思いにしたがう意見であった。
つまり,「紛れもない敗戦」だったあの8月15日の出来事であったのに,どうしたら敗戦ではなく終戦と表現できるのかと,真っ向から疑念を突きつけていた。しかも佐瀬は,そもそもの肌感覚からして正直に,そのように語ってもいた。
c) 話は,前段で触れた「前者の日付け,敗戦した8月15日」のことに戻る。
まず,8月6日と9日とはそれぞれ「広島と長崎に原爆投下をされた日付け」であった。旧大日本帝国の戦争史のなかで起きた大事件(核兵器による民間人への無差別攻撃)が起こされた日付けであった。敗戦がより決定づけられた日付けでもあった。
また,後者の日付け3月11日は,深刻かつ重大な原発事故を起こした東電〔など〕および,これに蝟集して形成されていた原子力村の「勢力体制」があっての,これまた大事件が発生したそれであった。
敗戦してからのこの国は,その実において,戦後体制のなにも変えられないまま「いまだに日本総督府に支配・統治されつづけていながら,それでも米帝国の属国たる地位に甘んじてきた状況を保持している」と定義したうえで,本日のこの記述を「21世紀日本の国情」として議論していきたい。
※-2 笠井 潔『8・15と3・11 戦後史の死角』NHK出版,2012年9月
a) 笠井のこの本『8・15と3・11 戦後史の死角』2012年は「3・11」の1年と半年後に公刊されていたが,つぎのように日本の原発体制を説明していた。
「原子力の平和利用を名分として原子力発電の導入を推進したのは,中曽根康弘や小山倉之助など改進党の改憲再軍備派は,のちの自民党右派である。日本の原子力利用は,軍事利用の可能性を担保するものとして再出発している」
「中曽根や正力〔松太郎〕のバックにいたのが自民党右派総帥の岸 信介だが」,「最高権力の座に着〔就〕くと,対米従属の必然性に足をさらわれ,建前と本音に引き裂かれることになる」
「岸時代の秘められた野心を実効化したのは,実弟の佐藤栄作であった」
「核武装カードを使った佐藤外交によって沖縄返還を実現されるが,有事の核持ちこみを容認するとの密約で,非核三原則は最初から空文化していた。また米軍基地撤去という沖縄民衆の切実な要求も,返還の時点から裏切られる運命にあった」
「佐藤の政治目的は,日本国家の領土回復だったに過ぎない。それを達成するため,沖縄民衆に過重な負担を強いることは計算のうちだった返還後の沖縄には本土基地の移転が進められ,県民の基地負担は耐えがたいまでに増大していく」
「自民党右派の改憲再軍備派が,対米戦争で国内地上戦の犠牲を沖縄だけに押しつけ,自己保身のため本土決戦を回避して延命した,無節操な戦争指導者の末裔だという事実がある」
「沖縄を戦争の生贄として利用し,戦争を終結させるためアメリカに売り渡し,本土復帰後も日米安保体制の矛盾をしわ寄せする。自民党の対沖縄政策は一貫しているし,こうした事態を黙認してきた日本国民にも回避できない責任がある」(以上,笠井,前掲書,147-149頁から)
b) 自民党の政治。この政権がつづくあいだこの国は,以上のごとき「対米服属関係路線」を基本的に方向転換できないまま,アメリカ政府が東京都に置いてある日本総督府(別名はアメリカ合衆国大使館)による「実質的な支配・統治」をズルズルベッタリに,いいかえるとまた,旧日帝時代に中国東北地域にあった「満洲(帝)国」という「日本の属国」との関係にも酷似した「それ」を甘んじて受けつづけてきた。
旧大日本帝国時代の旧「満洲国」に対しては,このカイライ国に派遣されていた日本人高級官僚たち(岸 信介はその代表的な人物であり,実質その最高指導者の地位に就いてもいた)が統治・運営していたが,その舞台そのものを提供していた帝国陸軍「出先機関による」この「カイライ国の政府」の操作方法としては,「現地軍部からの〈内面指導〉」という「実質的な指令」が,具体的に発せられていた。
満洲国の誕生:「建国」は1932〔昭和7年〕3月1日であった。しかし,第2次大戦の終結=敗戦によって,この新生国家「キメラ」は一瞬にして解消,蒸発した。
満洲国で岸 信介はどのような存在,つまり重鎮であったか。
岸は1936年,日本国内での商工省工務局長から満洲国の国務院実業部総務司長に移動したのち,1937年7月産業部次長になり,そして1939年3月総務庁次長を務めたあと,1939年10月日本に帰国すると,商工次官を経て商工大臣になった。
当時すでに日中戦争開始にともなって戦時体制に突入していて,国家総動員体制が1938年4月1日に公布されていた国内事情に即して,この岸がいわば,「軍需生産体制としての日本経済」の運営を指揮するための実質的な総責任者になっていた。
もっとも,敗戦後においてA級戦犯に指定されていたこの岸 信介が,東條英機らのA級戦犯が東京裁判(極東国際軍事裁判)によって裁かれ,絞首刑に処された1948年12月23日(当時皇太子だった明仁の15歳誕生日)の直後,ただちに無罪放免となり釈放されたのは,敗戦後史のその後を見越したアメリカ側が,この男を生かして有効に使役する(使いまわす)ことをもくろんだからであった。
c) 前段で笠井 潔『8・15と3・11 戦後史の死角』2012年が言及したとおり,この岸 信介は実弟の佐藤栄作とともに,「対米服属関係路線」を歩みながら〈自国のありよう〉を決めてきた。
もっとも「60年安保」を機に岸は首相の座を去るが,のちに首相となった佐藤栄作,そして外孫の安倍晋三に対して,アメリカへのそうした実質的な従属を伝授する「要の人物」であった。
以上の記述について,なるべく耳障りのないかたちで解説でするとしたら,つぎのように解釈することもできよう。
あの「満洲国」において1937年ころから「満洲産業開発五カ年計画」が発動するが,その時期に前後して,星野直樹および東條英機,鮎川義介,松岡洋右,岸 信介ら「二キ・三スケ」と呼ばれた実力者が存在感を現わしはじめた。
そのなかで岸 信介は,経済産業政策を中心的に担った。岸は当時なりの革新官僚の理念でもって「満洲国」に渡り,統制経済の「各種実験」をおこなった。
当時における「満洲経営」が,戦時統制経済をはじめ,第2次世界大戦後に世界に類例をみない日本の高度経済成長や戦後日本経済のグランドデザインをつくったと指摘されることもあった。
確かに,「戦前と戦後の連続性」を議論するさい,岸が「満洲経営」で果たした役割と,この戦後経済成長との関連性いかんが話題のひとつになりえた。
とはいえ,戦時期における「革新官僚〔だとみなされた〕」岸 信介による「満洲経営」の,敗戦後史における国家経済的な意義の解明にさいしては,異様に,過分な評価を与える研究者がいたとしても不思議はない。けれども,岸に対するその「功罪両面の客観的な評価」に関して,あまりに鈍感だったという以前に,その種の問題意識を欠いていた。
その付近の論点をめぐっては,前段でもちだした文献,笠井 潔『8・15と3・11 戦後史の死角』2012年が真正面から斬りこみ,的確に批判したところであった。
d) 最近,岸 信介の戦時中著作『日本戦時経済の進む途』が2022年5月6日,「複製」版となって販売されていた。このたぐいの復刻版にはもちろん,歴史的な意味がありそうだが,その内容じたいは今日的に読み直すとしたら,それなりに突き放して「読み下す用意」が必要であった。
すなわち,野口悠紀雄が書いた『1940年体制 さらば「戦時経済」』東洋経済新報社,1995年は,満洲国体験をめぐって「誤解的に再解釈された」「戦時体制の〈思い出〉」は,もともと変造されてきた性格のそれなのだから,その「戦時総力戦の遺物」となったその「官僚統制と日本型経営〔の解釈論は〕を終える時」だ,という点を強調していた。
ところが,この日本の政治・経済はその後,21世紀にかけてとなったが,すでに「失われた10年」を3周期目までも経てきた。それだけでなく,現在進行中でもあるその4周回目にまで立ちいたっている。
安倍晋三の第2次政権時は,その3周回目に当たる時期に存在していたわけで,この周回の速度に拍車をかけるごとき為政しかできなかった,いわばボンクラ政権であった。その事実は,彼が首相の座を退いてから,とりわけ「プーチンのロシア」によるウクライナ侵略戦争の開始以後になると,よりいっそう明確に実証された。
例の,あのアホノミクス(戸籍上の本名はアベノミクス)によって,森嶋道夫が『なぜ日本は没落するのか』岩波書店,1999年で危惧したその閉路へと着実に歩を進めるほかなかった経済政策を,それも強権・専制の政治体制をかまえたうえで,
そしてまた,安倍晋三への迎合「方針」一本槍であった日銀総裁黒田東彦との,この両名になる迷ゾンビ・コンビによってだったが,この国の政治も経済も社会も文化もすべてを,溶融させてしまったがごときに「国家体制」の瓦解現象がもたらされた。
e) 日本が「JAPAN as No.1」だと,社会学者エズラ・ヴォーゲルが1979年の著書をもって大いに称賛してから10年ほど時が経るころにはすでに,この国に勢いは頂点に到達していた。そこまでの「成功物語」は難なく描きえたにしても,その後におけるこの国の衰退ぶりと来たら,目も当てられない状況・水準にまで落ちていた。
岸 信介のごとき「過去の人物」が満洲国に対して与えた貢献度が,敗戦後史の日本においていかほどの影響に与えたにせよ,野口悠紀雄の『1940年体制 さらば「戦時経済」』1995年が懸念して指摘したその点,「さらば戦時体制」という肝心な問題は,実質的になにも実現されないまま,
21世紀に現段階になってみればそれこそ,1990年ころのバブル経済の破綻を境に,この国が「衰退途上国」化するほかない「経済体制弱体化の過程」を,ひたすらたどるほかないハメとなった経過は,いいまさらとはいえ,瞭然と回顧できるはずである。
f) 結局,いまの日本に残されたものは「日本総督府」による実質,占領体制の持続であった。その付近に関連する事情についてはたとえば,創元社の戦後再発見双書のうちから,とくにつぎの2冊をひもとけば,容易に理解できる「米日国際関係論」の実態が構築されていった。
吉田敏浩『「日米合同委員会」の研究 謎の権力構造の正体に迫る』 (「戦後再発見」双書5),創元社,2016年12月( ↓ )。
前泊博盛編著・明田川融・石山永一郎・矢部宏治『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(戦後再発見」双書2),創元社,2013年2月( ↓ )。
※-3 旧満洲国と大日本帝国の国際政治的な関係史は,敗戦を機に雲散霧消したけれども,大日本帝国から日本国になったこの国とアメリカ合衆国との「上下になる服属関係」は,実質なにも変わらなかったかのように,21世紀の現在もなお持続させられている。
a) アメリカは日本に原発を与え,これによってさらに「両国間の服属関係」を徹底化させる手段に利用した。
しかも,日本で原発という装置・機械を製品・商品としてあつかいうる大企業は,東芝・日立製作所・三菱重工業の3社しかなく,そのなかでも,とくに東芝に目をつけてアメリカ企業の原発事業部門を,いってみれば「ババ抜きの要領」で,この日本側企業に押しつけることに成功した。
アメリカはいまでは細々としか原発の新増設を試みていないのは,スリーマイル島原発事故(1979年3月28日)を起こしたさい,相当に重大な衝撃を受けていたせいである。
日本における「3・11」で受けた災害の中身をめぐっては,いまだに脳天気だったとみなしてよいくらい,平然と無視してきた。逆にいえば,けっして逃げおおせない「原発事故の災害(公害的な損失)」が,広域にわたり各種多様に振りかかかっていたにもかかわらず,現在もなお,異様なまでそれを軽視して済ませておき始末できたつもりでいる。
だが,なぜ,「原子力非常事態宣言」が「3・11に発令されて以来」,本日の2024年8月15日になっても解除されないのか?
日本が核保有国に準じる国家たりうる理由は,核兵器の原料となるプルトニウムを大量に保有しているからで,潜在的な核保有国たりうるこの国は,それでも対米従属を基(もとい)としてきただけに,その保有を認めてくれるアメリカにはそれこそ,絶対に頭が上がらないでいる。
日本のプルトニウム保有総量は47トンであるが,これは数千発(人によって異なるが3千発分あるいは6千発分ともいわれている)の原爆を製造できる分量である。
という事実があった日米関係であるゆえ,このまま時間がいくら経過していっても,ほぼ半永久的になにも変わらないのかと展望せざるをえない。
b) 沖縄返還問題にかかわった当時の首相佐藤栄作は,その後,ノーベル平和賞を授賞されていたが,ノーベル委員会はこの平和賞の対象者の選定では大きな間違いを犯したことが,だいぶあとになってみれば,否応なしに認識せざるをえなかった。
基本的には被爆国だと訴える日本である。だが,政府の「本当の方針」(外務省が中心になっている)は,核保有国にいつでもなれる準備だけはしておけというのが事実であり,本心である。
唯一に被爆国だと強調してきた日本だが,核兵器はいまでは通常兵器と同様の感覚でもって,いざというときはその保有と使用をすぐに実現できるように備えていたいのである。
だから,その原爆(核兵器)の「唯一の被爆国」という決まり文句は,ほどほどに抑えて主張しないことには,そのうちやぶ蛇になる時期が来ないとはかぎらない。
c) ところで昨日(2024年8月14日),2021年10月4日以来,実に締まりのない日本国総理大臣に就任していた岸田文雄が,9月に実施される自民党内の総裁選を区切りに,首相の座から降りると表明した。
自民党内での〈おちょこのなかの嵐〉には興味がもてないけれでも,この「世襲3代目の政治屋」であった人材はすでに,岸田文雄は2022年8月下旬の段階で「原発の再稼働と新増設」をすると,まるで経産省の官僚のいい方をオウム返しにしたかのように,決めていた。
原発の再稼働からして不要で済む電力生産体制の構築は,再生可能エネルギーとスマートグリッドによる電力運営体制の積極的な導入・利用をしていけば,大きな難もなく可能であるにもかかわらず,
それでも問答無用的に原発を新増設までして「地震大国である日本」の国土の上に原発を多基配置したかたちにしたら,もしも近い将来に大地震に襲来されたら,この日本国は本当にお陀仏である。
この国の各地はすでに原発だらけになっている地域がいくつも存在する。その所在地の近くに暮らす住民たちは,仮にでも大事故が発生したら,一挙に自分たちの生活空間が奪われることになる。それを思えばもう不安だらけで夜によく眠れないような風土環境は,早急になくしくておかねばならないはずだが,岸田文雄は「原発の再稼働どころか新増設までする」と,勝手に決めていた。
d) 原発を新増設するのであればたとえば,まず広島市の目と鼻の間にある江田島市に立地させたり,また広瀬 隆が昔唱えたように東京都内のどこかに建造させたらよい。「安全・安心・安価」の原発標語はダテや酔狂のものでなかったかぎり,ぜひともそういう場所を選んで配置するのも上策たりうるのではないか。
広瀬 隆の本に『東京に原発を!』集英社,昭和61年(初版はJICC出版局,昭和56年だが大幅に加筆・修正)310頁でこう述べていた。
「今日にも地震とともに原子炉大爆発の瞬間が訪れる」「その可能性はすでに明らかにされ,1986年現在の貨幣価値で損害100兆円,という数字も一応の計算を終えている」
2011年3月11日に発生した東日本大震災によって惹起した東電福島第1原発事故は,総額で具体的に計算することはできない相談であったかのように思えたが,おそらく前段の損害額「1986年段階で100兆円」などは,現在価値になおして考えるとしたら,それはさらに大きく膨らみものすごい金額になる。
つぎに挙げるが,アマゾン通販を借りて文献を紹介するこの実例は,そのほんの一部を表示しえたに過ぎない「原発事故関連の裁判一例」を示していた。
この記述中に登場させた岸田文雄はそもそもの話,原発問題のイロハからしてなにも理解していなかった。その種の「世襲3代目の政治屋」としての岸田文雄であったからこそ,きわめて無謀でしかありえない「原発の再稼働と新増設」を唱えることができていた。
岸田が首相になって間違いを犯した諸件のうち,そのもっとも罪深い意思決定は,原発体制そのものの安請け合いでもって,その「再稼働と新増設」の拡充を決めた点に求められる。
最後に断わっておくが,いま世界中で原発の建設をおこなおうとする諸国が何カ国もある。けれども,日本は本来「原発などは立地させてはいけない国土」,つまり,世界中で起きる地震の2割近くがこの日本の国土であるという条件にありながら,それでも原発をどこかに造るといったごとき,まさに「気違い沙汰型の正気ではない原発利用の方途」は,原発との無理心中を覚悟でなければいえない蛮勇である。
日本が核兵器をいずれ,しかるべき時期を俟ってだが「もちたいという願望」を,プルトニウムの大量保有を当然の理由に立てながら,いまも抱きつづけている。だが,この事実は国民たちのあいだに周知せしめ,もっと公論として議論を尽くすべき問題である。
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