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故安倍晋三が悪徳の死物化為政を蓄積した時期は同時に明仁天皇が「絆の旅」的な治世を試みた時期にも連なっていたなかで「元号」が平成から令和に変更された問題をからめて吟味する「日本政治社会の混沌ぶり」

 ※-0 この記述はなにを論じるのか

 本記述は,安倍晋三「第2次政権」時にきわだった私物化(死物化)為政と,対するに,明仁天皇の「絆の旅」的治世(天皇一族の弥栄問題)との深い関係史的考察をおこなってみたい。それも「元号」の問題を背景に置いての議論となる。

 付記)冒頭の画像の出所は後段に出ている。

 前提1 「元号」の古代性を歴史の伝統や格式だと勘違いして喜ぶことは,封建思想への郷愁にはなりえても,近代民主主義国家体制を十全に尊重する政治精神とは「無縁の意識」でしかなかった

 前提2 初めから終わりまでが大失策の連続であった「アべノミクスとアベノポリティックス」(別名では『アホノミクス』と蔑称されたそれ)を,平成天皇の基本思考において独自であったはずの「絆」精神,あるいは皇室神道的な気分の発揚で穴埋めできたか

 なお本稿が初めて公表されたのは,2019年1月6日であったが,それ以前にもブログサイトをなんどか移動していた過程において,更新のための書きなおしもなされていた。本日は2024年2月28日であるが,この期日になったなりに,内容の補筆がなされたことはもちろんである。

 

 ※-1 『日本経済新聞』による「改元は祝賀だ」(!?)という報道

 a) 2019年1月1日元旦の『日本経済新聞』朝刊に設けられた特集面のうち,11面の「2019 ニュース羅針盤 改元へ 高まる祝賀ムード 平成から新時代へ」は,天皇の退位は200年ぶりの出来事であり,いまの時期,「元号の絞りこみ」が本格化していると強調していた。

改元すると祝賀ムードが期待できるのか?

 天皇の代替わりに関するこのような「マスコミ大手各紙のはしゃぎぶり」は,これをあえて極論的に理解するとしたら,国民たちなど全員は必らず,この「祝賀ムード」に参与し,浸っているはずとなる。もしかすると多分,そうしないと “非国民呼ばわり” (?!)されかねない,そのような圧倒するがごとき報道体制が敷かれてきた。

 「平成の30年」「明仁天皇の御代」・・・。ともかく無条件に尊い元号の区切りにもとづく時代が,そろそろ終わりの時期を迎えるにあたり,この30年間の流れになんらかの確定的な実体を把握するのが当然であるかのように,たとえていえば皇室翼賛的な報道一辺倒が続いている。

 ともかく,平成のその30年じたいにもとより意義があって,これに異議を感じたり申し立てるのは,そもそもが「ケシカラヌ」のだと非難されるまでもなく,ほとんど出現していなかった事実が興味深かった。

 b)『日本経済新聞』2019年元旦朝刊のその11面に登場し,解説をくわえていた社会学者鈴木洋仁(事業構想大学大学准教授,専攻は歴史社会学)は,一聴してよく分かったようであるが,けれどもまだ,もうひとつ分かりにくい「つぎのような所見」を提示していた。ここでは,その後半の段落だけを引用する。

『現代ビジネス』から

 明治以降は,天皇一代につき元号をひとつとする「一世一元」が原則となった。明治には日清・日露戦争,昭和には太平洋戦争というように,国民の記憶に深く刻まれるような戦争が断続的にあったため,人びとの記憶は元号と強く結びつき,天皇の在位を物差しにして時代をとらえるようになっていったと考えられる。

 補注)つまり1868年から1945年の77年間は,日本帝国主義が米欧帝国主義路線のマネをしながら,アジア近隣諸国に対する侵略戦争を断続的,継起的におこなってきた歴史であった。

日露戦争で日本はよく戦い勝ったという映画

 敗戦後になってから制作された作品だが,1957年4月29日に『明治天皇と日露大戦争』という映画が封切られた。この映画の粗筋を初めのほうに関してのみ紹介するが,こうであった。

 明治37〔1904〕年,ロシヤの極東侵略政策に脅威を感じた日本は,日露交渉によって事態を収めようとしたが,

 ロシヤ側の誠意のない態度に国内は,自衛のためロシヤを討つべしとの声が高まり,それまで開戦の国民生活に与える影響を考え慎重だった明治天皇もついに開戦のご英断を下された。

 かくて連合艦隊に護送されたわが陸軍は仁川に上陸を敢行し,一路満洲へと進撃を開始した。一方海軍は,旅順港にある敵艦隊を封鎖し日本海の制海権を・・・。

 註記)「明治天皇と日露大戦争」『映画.com』https://eiga.com/movie/39684/

『明治天皇と日露大戦争』


 ということで,大日本帝国の側にはまったく悪い点はなく,あくまで「自衛のためロシヤを討たねばならなくなった」という大前提が断わられていた。そのさい,「国民生活に与える影響」を憂慮していた明治天皇が「開戦のご英断」をしたのだとも説明されていた。

 c) だが,こうした「坂の上の雲」的に観察しておきたかった日本側の歴史・戦争「観」は,単に短見そのものであり,かつ一方的な主張でしかありえなかった。

 日露戦争の前段階において日本は,日清戦争(1894〔明治27〕年7月から1895〔明治28〕年4月)に勝利していたが,その間における経緯として,1910年8月29日,朝鮮(大韓帝国)を植民地にしていた。

 このさい,朝鮮(韓国)に関する政治問題として,こちらの国民生活に意識して関心が向けられることも議論されることもなかった。この指摘はもちろん,当時における「明治天皇の立場」に対して向けられるものである。

 朝鮮(韓国)側から観た19世紀後半における日本の「極東侵略政策」の脅威は,自国が現実に植民地にされる関係なかで顕現していた。露国が脅威だという日本であったが,朝鮮(韓国)に対しては,その〈大日本帝国〉が最大の脅威になっていた。

 しかも,日本は裏では大英帝国の国際政治面からなされる側面援助を受けており,アメリカが大所・高所から監視する基本姿勢にあった点も十分気にしていた。裏舞台における英米の国際政治的な諒解が,帝国主義国家をめざしていた日本を間接的に支援した。

 d) ちなみに,1919年3月1日,朝鮮全土で無抵抗・非暴力主義を基本とする独立運動が発生していた。だが,日本側はこれを武力で徹底的に鎮圧した。そのさい明治天皇が,自国帝国が「朝鮮の国民生活に与える自国帝国の影響」をどのように考えていたかも,よく分かりえない事情である。

 もっとも,それよりもだいぶ以前の出来事であったが,日清戦争が終わった年の1895年10月8日, 朝鮮駐在の日本公使三浦梧楼が総指揮を執った(預かった)かたちで,朝鮮王朝の閔妃(日本でいえば皇后)を景福宮に襲い,暗殺し,屍体を陵辱した大事件に関して,明治天皇がその報告を受けたときどのような反応を示したかについては,特定の指摘もあるが,あまりにも衝撃的な内容なので,ここでは具体的には表現しないでおく。

 それはともかく,「日清戦争 ⇒ 日露戦争 ⇒ 第1次大戦 ⇒ シベリア干渉出兵 ⇒「満洲事変」⇒ 日中戦争 ⇒ 大東亜・太平洋戦争」と連続した戦史の結果,大日本帝国は1945年8月,連合国軍に完敗させられた。それまでの戦績において大日本帝国は,近隣アジア諸国に対してどのように「侵略戦争」ならびに「植民地・地域支配」をおこなってきたのかを忘れたら,日本という国の近現代史はなにも語れない。

 そうした明治時代から昭和20年までの日本の歴史,いいかえれば「明治:睦仁」→「大正:嘉仁」→「昭和:裕仁」(ただしひとまずは敗戦まで)という『元号の時代』の各名称が,それまでにおいては定められたことなどなかった「一世一元」制のものであったがゆえ,大日本帝国時代を通貫する帝国主義精神のもとでなりに,その元号ごとにそれぞれなにかの深い意味がありえたかのように理解されてきたはずである。

 e) とはいっても,この元号の制度として「一世一元」がわざわざ選択・使用されてきた時代は,19世紀も終わりのころから20世紀を経て21世紀の今日までであり,全体の歴史の長さで観ればそれほど長い時間ではなかった。古代史的な「時間の観念」である「元号」が,近現代史のど真ん中を大手を振って歩くさい,それも「一世一元」に揃えられて再登場させられていた。

 ある意味でいえば,元号制そのものに即していえば,「一世一元」に依った明治中期からの日本近現代史の展開は,かえって不可避になっていた「特定の〈不便さ〉〈不都合さ〉」をきわだたせていた。

 どういうことかというと,旧大日本帝国が敗戦するに至るまで,ひた走ってきた「侵略主義国家体制の制度的な汚物」が,この元号制の本体のみならず周囲にあっては,まだたっぷり散らされてこびりついたままであるからである。

 昭和天皇に関する敗戦以前の生涯は,その以後と切り離して論じることなどできない。ところが,一般的にはそのように別個に論じうるかのような「昭和天皇論」がしばしば披露されてきた。

 敗戦を境に天皇裕仁氏は神様(生き神様)ではなく,ふつうの人間になりかわったのだという,おとぎ話のような言説が流布されたさい,当時においてその宣伝(国民の理解を洗脳するためのそれ)に必死になって協賛・邁進していた新聞記者たちがいた。『毎日新聞』の藤樫準二はその代表的な記者の1人であった。藤樫は晩年,勲章を授賞されていた。

〔ここで補注の記述途中ではあるが,鈴木洋仁の記述に戻る ↓ 〕 
 f) 一方で,戦後は平和が長くつづき,西暦の使用も普及。元号によって時代を認識することは困難になった。たとえば「平成7年になにがあったか」と聞かれ,いったん西暦に換算してから考える人も多いはずだ。最近は「昭和っぽい」という言葉が単に「古い」という意味で使われている。年月を経ていくうち「平成」も同様に古さを表わす記号に変わるだろう。

 必要性という意味では元号の存在感は薄れている。だが,1300年以上続く元号を,積極的に廃止すべき理由も見当たらない。中国で発祥した元号は日本のほか,ベトナムなどにも伝わったが,現在でも一世一元の制度として使っているのは日本だけだ。長い歴史を積み重ねてきた日本の元号には,時代区分というだけでなく,伝統や文化という側面もある。日本人は今後も元号を使っていくのではないか。

 補注)この種のいいぶんは,社会学者であれ,あるいはほかのどの分野の研究者であれ,自閉的な論理構成に終始している事実を教えている。どういうことか?

 つまり「社会意識」(主体側)の問題を「社会状況」(制度側)の問題にすり替えた,全面的にゆずりわたした論法だからである。すなわち,状況を変えていく力を有する意識は,故意に真正面から言及されずにあとまわしにされるかっこうで,結局放置されている。

 とりわけ,一方では「必要性」の薄れているのが「元号」だと指摘しながらも,他方では,明治になってわざわざ「一世一元」制に決めた(変更してみた)この元号というものは,もとは「1300年以上続く」ものだったから,現時点においては「積極的に廃止すべき理由も見当たらない」などと主張するのは,

 それら双方の論理の並べ方・運び方に関する,不自然ないしは不均衡というか,無理やりにくわえた奇妙な説明になっており,論理の整合性がついていない。というか政治・社会思想的に中身が混乱した発言が,意図的どうか判断しづらいが,飛び出ていた。

 g) つまり,本来から密接な脈絡を有する論点同士であるにもかかわらず,あえて意図的にそれらを分離・別置しておくための話法が工夫されていた。だから,その解説は,なんとはなしにでも,もとからよく身に着いていなかった点(「居心地の悪さ」とも表現できようか)を,みずから自白したかのような,つまり “いちじるしい不自然さ” や “意図的だと受けとられるほかない不均等” を湛えていた。

 なかんずく「1300年以上続く元号」を,それでは学術的に討究したうえで解釈をくわえる立場からして,本当に「消極的に廃止すべき理由」がなにも「見当たらない」と言明できるのか?

 歴史的に古いものであるからといって,なんでもかんでも “おとり置きしておいた” ほうが適切である,などとはいえまい。学究の立場から発言すべき提言とは思えないほど,ある意味「雑」な見解が披露されていた。

 参考にまで触れておくと,21世紀になっても天皇陵(平成天皇夫婦用)を造営する計画がすでに準備されている。21世紀のいまどきにあっても,天皇夫婦のための「古代古墳のような陵墓」を建造する工事が,どうしても必要だとはいえない。しかも,その2人の墓はメオト茶碗のように “「夫=大き目」「妻=小さ目」の組みあわせの造り” で設計されている。

夫の墓のほうが妻の墓よりも大きい
夫婦茶碗の要領を真似たのか?

 現皇后〔ここでは「平成天皇の配偶者」〕が自分の陵について「自分の部分は」ぜひとも辞退したい,なしにしてほしい旨を告白していたが,いっさい聞き入れられておらず,いてみれば一蹴されていた。美智子のその希望はいたって健全な感覚にもとづいていたはずだが,いとも簡単に拒否されるだけであった。

 h) 要は,元号は廃止してもなにも困ることはない。ただし,それは困ると感じる「特定の社会集団」ならば,一定の政治勢力として存在する。元号法は奇妙な法律である。『元号法』(法律第四十三号)(昭54・6・12)の条文はきわめて簡素である。

 1 元号は,政令で定める。
 2 元号は,皇位の継承があつた場合に限り改める。

  附則
   1 この法律は,公布の日から施行する。
   2 昭和の元号は,本則第一項の規定に基づき定められたものとする。

『元号法』1979年

 なにか,おかしい点はないのか。そう感じるところはないのか? 元号を定める理由・根拠がなにも記述されていない。旧・皇室典範にあった元号関係の規定を,この元号法で回復させたせいで,これじたいとしては素性の不詳な条文に受けとれる。

 とはいえ,この法律じたいはとくに関連する歴史的な事情を語ってはいない。けれども,敗戦後になっても実質的に,同じ中身のまま残された「新・皇室典範」の欠損部分(元号制に関するそれ)は,この元号法をもって手当できることになった,というわけである。

 さらに関連する議論は,次項の※-2でおこなうことにする。

〔ここではひとまず再度,鈴木洋仁の記述に戻る ↓ 〕 
 i) 外国人労働者の受け入れが今後拡大する。日本にはさまざまな背景や考え方をもった人たちが集まり,国のかたちは大きく変わる。つぎの時代は,新たな「日本らしさ」を模索する時代といえるかもしれない。その時に日本の文化でもある元号のあり方を考えることは,意義のあることだと思う。

 補注)鈴木洋仁のこの文章もなにをいいたいのか理解しづらく,こんにゃく問答にも聞こえる。

 もっとも,元号制の有無に関する問題議論も配慮に入れたうえで,「つぎの時代」である「新たな『日本らしさ』を模索する時代」に関して,「日本の文化でもある元号のあり方を考える」という意向だと理解してみたい。

 だが,まだまだ,どういう心づもりで議論しているのか,いいたい核心になにが控えているのかが不明瞭であった。「一定のなにか」については発言してはいるのだが,それ以上に具体性ある見解は述べようとはせず,当たりさわりない口調に寸止めされている。

 要は,実質的に「ああだ・こうだ」と,いろいろ議論する内容ではあっても,結局「二階の窓から目薬」という印象を回避できない。ただし,鈴木洋仁の表現のなかには別に「皇室や元号の “カジュアル化” 進んでいる」という表現もあって,これじたいは興味深い指摘である。

 明治帝政時代であったならば,けっしてカジュアル化などしたらいけないはずだった天皇・天皇制であって,もともとは大日本帝国憲法と旧・皇室典範との組みでもって構築されてきた「神聖ニシテ侵スヘカラス」の天皇観であった。

 ところが,敗戦を経てから,20世紀末葉から21世紀初頭において,平成天皇「夫婦」が意識的に実行してきた「皇室戦略の実行」は,明治帝政時代の「聖帝観念」を,もはや過去「化」したも同然にであった。だから,カジュアル化と呼べるのかもしれない。

こういう図柄・構図は珍しい

 『日本経済新聞』2019年1月1日朝刊39面「特集」のなかにかかげられていたこの画像は,「2000年のオランダ訪問」時の「平成天皇夫婦」がオランダ人女性3人を少し見上げる角度の構図になっていた。

 明治天皇の場合はむろんのこと,昭和天皇〔夫婦〕の場合であっても,想像すらできないカメラのアングル(視角)であった。ただし,相手がオランダ人であったという事実は,軽視できない関連の要因,そして背景事情であった。

 

 ※-2「『元号に法的根拠はない』とかつて内閣法制局は明言していました・・・」『UGUG/GGIのかしこばか日記』2018-01-18 01:15:25, https://blog.goo.ne.jp/ugugggi/e/0f6ac6bba0ead36f36580415331fa7e3

 この※-2の記述のなかから,関連する論点を拾いだし,さらに吟味することにしたい。

 敗戦後,1970年代終わりまで元号に法的根拠は不在であった。元号のその法的根拠は,戦前は大日本帝国憲法ではなくて「旧・皇室典範」に規定が設けられていた。しかし,敗戦を契機にその旧・皇室典範は廃止され,現・皇室典範にあらためられたとき元号に関する条文は消失してした。このため,1979年に国会で「元号法」が定められるまで明文化された法的規定は存在していなかった。

 なぜそうした経緯になっていたのか? 多分,日本はもう天皇制国家ではなく,民主主義国家を志向することになった,しかも天皇は「国・民を統合する象徴だ」されたのだから,「元号」について規定することまでしなかった,とでも表現したらいい事情があったと思われる。

 補注)もっともこのあたりの事情については,GHQの天皇・天皇制関連に対する占領政策のなかでは,そのうるさい・きびしい「指導からは洩れていた」という具合に解釈できる。敗戦後における日本の天皇制度に対するGHQの基本方針は,新憲法のなかで位置づけなおさせる点にあった。

 しかし,旧・皇室典範の抜本的な廃絶や改定までについては,それほど関心がなく強制的な指導もしなかった。結局,アメリカ側は,元号の問題を重要視していなかったと思われる。その付近の経緯・事情を説明する関連する文献・資料として,山極 晃・中村政則編,岡田良之助訳『資料 日本占領1 天皇制』大月書店,1990年を挙げておく。

〔記述本文に戻る→〕 敗戦を契機にして,もう天皇制国家体制のもと「元号は止める」とはっきり決めればよかったのだが,「まあ,元号制は長きにわたり続いてきたことだし,それに急に元号をやめて《昭和》がなくなってしまったらさびしいから,そうカタイことはいわずに,《昭和》の元号はとりあえずなんとなく残しておくことにしませう」というふうに,日本の政治風土に特有の曖昧結着が図られたのではなかったか。

 そのためともかく,敗戦の年1945年から1979年まで34年間,元号に法的根拠は存在してなかった。ほとんどの日本人にとって元号の存在はあたりまえであったものの,実はその法的根拠は,前述のように敗戦後,旧皇室典範の改定によって消えていた。

 1975年,内閣法制局第一部長角田礼次郎は「元号は慣習で法的根拠はなく,陛下に万一のことがあれば空白の時代が始まる」と答弁していた。

 という事情であったとすれば,そのときに「法的根拠のない慣習に過ぎない元号は止めにしておく」という選択肢もありえた。世界のなかで「元号」という奇妙なモノを使っているのは日本だけである。

 西暦と元号を併記したり,お役所に出す書類には元号を使えとかいって,強制してはいけないのにその使用を強制している。いちいち西暦を元号に換算したり,また逆に元号を西暦に換算したりといった面倒な具合にもなっていて,ただややこしいだけで無意味なことが,いまでもなお完全に終わりにできないでいる。

 前段で,「元号は慣習で法的根拠はなく,陛下に万一のことがあれば空白の時代が始まる」などと,内閣法制局の官僚が説明していたが,新憲法のもと「天皇は」「国・民を統合する象徴だ」された時代の基本的な変質を,まったく完全に無視した「天皇・天皇制」に対する謬見が,なんの羞恥心もなく告白されていた。

 昔,あの戦争の時代に関してであったが,大日本帝国陸海軍の負け戦が決定的になっていた段階になって天皇裕仁いわく,この大東亜戦争を本土決戦までさらに徹底的に抗戦していったら,自分の『依ってたつ帝国臣民=赤子じたいが根絶やし』になってしまう,

 そうなったら『自分がその赤子あっての天皇である意味・関係・立場が崩壊する』から,もう「戦争はいいかげんにして止めたほうがいい」などと正直にそのエゴ精神を語っていた。

 それは実に調子のいい,最終的には自分だけの生存しか考えていなかった彼の本心を表白していた。

 補注)あの戦争は,いかに馬鹿らしくかったか,それも人間の命を軽々しくあつかってきたか? いまの時期,この2024年2月も終わりになって,ロシアによるウクライナ侵略戦争は満2年を越えた。こちらの戦争はどのような実相になっているか?

 あのプーチンはウクライナ国民を,民間人まで平気で虫けら同然に殺しまくっている。それだけでなく,自国民たちでさえ戦場に送りこむに当たっては「人海戦術用の兵員」として送りこんだあげく,まさに消耗品も同然に犠牲に(戦死)させるやり方は,虫けらあつかいどころか,特異な「非人間観」がなければ「とてもなしえない」ような,きわめて残酷な戦争指揮が本当に継続されている。

 日本の戦争史に戻ると,赤子と呼ばれた臣民たちが,実際にはどれほどモノあつかいされ,戦場で無駄死にさせられてきたか,戦争を指導した者たちがいかに暗愚であったかなどについては,つぎの記述が12万字もの分量を充てて,たっぷり説明している。われわれが赤子だとみなされていた時代において,われわれが頂点に戴いていた人物は誰であったか?

 以下に,住所:リンク先のみ指示しておく。


 さてここで,話は2010年代にまで飛ぶ。

 「戦後レジームからの脱却」をヒステリックに叫んだ政治家(安倍晋三のことであったが)のアタマのなかをのぞいてみると,敗戦以前における旧大日本帝国時代精神を郷愁してやまない “旧い時代好きオタクのおじさん・おばさん” たちに特有であった “古式ゆかしき脳細胞” が,彼ら・彼女らの頭蓋骨のなかにはパンパンになて破裂しそうなほど充満していた。

 それゆえ,ともかく,元号を正式に法律で決めて日常的に使用する生活でないと,日本人の生活様式にとって必要不可欠であるその「古代史的な時間の観念」が共有できないと妄想までされている。

 しかし,昭和天皇から平成天皇が代替わりしたとき(1989年)から,一番端的に現象した出来事としてたとえば,出版業界において制作・販売出版される本の奥付などに表記される〈発行年〉が,それまでは元号であったものを西暦に変更する出版社がめだった。

 平成天皇が生前退位の意向を表明しこれが認められたが,息子の徳仁が天皇になるとき(2019年5月1日),いかなる元号にするかを発表するのは,彼が即位する1カ月前(4月1日)であり,いまは「主権者である国民たち」が教えてもらえない状態が継続中である。

 補注)もちろん,この更新した本記述の期日は「2024年2月28日」であるから,「令和」の元号の時期になっている。

 以上のようななりゆきを受けて,2019年用のカレンダー製作業者は大いに困らされた。そのせいで当時,わが家にあったカレンダーの大部分に平成の表記はなかった。

 ただひとつ『ビックカメラ』の1枚仕立ての大きなカレンダーは,平成31年の文字も印刷・併記してあり,そして1月から4月までの部分は特別に青色が濃くをかけられていて,5月以降とは違うことになる点を意識させようとしていた。

 「カレンダー元号・関係表記の問題」だけでなく,いろいろと面倒を随伴させるほかない「天皇代替わり」の時期は,昭和から平成へと移るときは昭和天皇が闘病をしながら1989年1月7日に死んだために,また別様にめんどうな対応を迫られていた。

 つぎの画像資料は,本日 2024年2月28日にネット上から抽出してみたものである。5年前に戻っての話となる。

天皇家の時間軸が国民たちのそれになりうるのか?

 日本国とこの民を統合する象徴であるはずの天皇の存在が「国民生活」関連において,とくに〈象徴的には〉カレンダーを製作・販売する事業者に対してまで,その代替わりのつど〈悩みのたね〉を提供してきたとなれば,こうした事態の発生は正直いって,新憲法の本旨からは外れていた現象だと解釈されていい。

 なお,本ブログ内ではつぎの記述が元号問題については,詳細な議論をおこなっていた3編があった。本日の議論の前提になっているので,興味ある方はこちらも読んでほしいと希望する。

 本ブログ内には,「元号考:その1,その2,その3」という連続ものの記述が,2024年2月12日,13日,14日になされていた。とりあえず,「その1」の住所・リンク先を以下に付記しておく。

 

 ※-3 The Asahi Shinbun GLOBE 2019年1月6日,213号に登場し,天皇制と民主主義の関連問題にまつわる困難を指摘する研究者の意見

 『朝日新聞』が月初めの日曜日ごとに附録として配達する,この『The Asahi Shinbun GLOBE』2019年1月6日の本号が特集した題名は「王室 2019 君主たちのサバイバル」であった。そのなかで,日本の天皇・天皇制に対して,つぎの2名の学究が発言していた(5面と7面)。

 以下にその発言で画像資料で読めるようにし,紹介しておく。この2名とも「学問的な見地」から,かなり厳格な指摘や適格な批判をしていた。天皇・天皇制を無条件に支持し,奉る人びとに耳にはきっと痛く聞こえるはずである。

原武史と河西秀哉の見解

原は「いまでも天皇に対する批判はタブーだ」と指摘し,
河西は「天皇制は・・・矛盾」ありと明言している

こういった日本天皇にかかわる政治制度の問題をよく承知していながらも
けっして論及も批判もしない(できない?)政治学者たちが大勢いる事実は
注目する価値が十二分にあった

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