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幸福感についての見解 ~ 幸福な状態の基盤となる内外的環境の構築とブラッシュアップ ~

<はじめに>

自らの幸福についての見解を示す。
また幸福の見解、および幸福の実感を元に、自らの諸活動の取り組み方についても示す。
他者においても何かしらプラスになる点があるかもしれないと思われるので、示していく。



【①】


★★★

「内容を示すにあたっての前置き」


シェアする際の取り組み意識としては、以下の記事内容を元に行う。
また以下の内容も加味して行う。

※参考記事:
気付きやアイデア、アプローチ等を提供やシェアする際の取り組み意識  ~ネガティブベースのものにおける、リアリティのあるおとぎ話としての提供やシェア~

自分のシェアする内容に関して、○○するとこうした望ましくないことが起こるので、○○した方が良いというような論調で話す場合がある。
しかし、それはある方向性から見た時、感じた時の視点のものである。
人によっては、該当する状態状況でも感知の仕方や内面で生じる作用が異なるなどで影響しない場合もあると思われる。
特にすでにその時点での幸福を体感している人である場合、○○するとこうした望ましくないことが起こるので、○○した方が良いというような論調のものに関しては、体感している幸福の状態状況(また望んでいる方向性、目的等)を意図的、もしくは無意識的に崩して、内容を理解する、共感する、共鳴するということが生じる場合もある。
○○するとこうした望ましくないことが起こるので、○○した方が良いというような論調に、無意識の内に引っ張られてしまう場合もある。(本来的には、特定の幸福な状態にある人にとっては、こうした情報は必要ない場合もあるということ。逆に触れたり接することで、ある特定の幸福を体感できている状態が特定の論調や指し示す内容に引っ張られて崩れてしまうということもあるということ。)
ご自身の判断(内容が感性や直観的にフィットするかどうか、自分自身の反応はどうかなどを考慮した判断)で、参考や材料にできる部分を取り入れたり活用してもらえたらと思う。

また、今回示す内容に該当する状態状況(望ましくないとされる状態状況)だとしても、そのまま進む方が望ましい場合もあると思われる。
私が示した内容に当てはまる望ましくないとした状態状況だからこそできること、担えることを意識的、もしくは無意識的に行っている場合もあると思われる。
それぞれがこの内容を読む時点での望む方向性、境地、役割によっては、今回示す内容とは別方向を望む場合もあると思われる。
その場合のアプローチとしては、今回示すものと逆もまた成り立つ。
同じ方向性であったとしても、様々な別視点的なアプローチも成り立つ。
方向性が違えば、その価値(意味意義)は変わる。反転しうる。
そうした観点も踏まえた上で、参考や材料にできる部分を活用してもらえたらと思う。

また、参考にできる部分だけ参考にして欲しいと言葉で言えども、実際に内容を読んでしまったことによって、どうしても心身に影響が生じたり、その影響が後を引くという場合もあると思われる。
なので、読んだことによって生じた心身への影響、意識や潜在意識、エネルギー的な影響に関して、イメージング等によるバリアや浄化等を活用できる方であれば、そうしたものの活用も加味して読んでもらえたらと思う。
読んだことによる影響を、イメージング等を駆使して部分的にでもカットしたり、ご自身にフィットするエネルギー感に変換したりするなど、そうしたアプローチを活用していただき、より有効な形で受け取ってもらえたらと思う。

このスタンスを示すこともまた重要と思ったため、前置きが長くなってしまったが、示させてもらった。


★★★

「自分がまずやりたいこと、その上でのアイデアの具現化等の活動の本格的な始動や展開」


個人的に見出されたアイデア等を実際に形にすること、提供することも行いたいが、一番快となるもの、心が求めるもの、しっくりくるものとして、まずは以下を行いたい。行えるようにしたい。

自らの納得できるもの(アイデアや見解、何かしらの表現形式のもの)を創ること。
納得できる表現の型を創ること。
実行において、その過程も結果も、自分にとってこれだ!という、快となる納得感や満足感、幸福感等を実感しながら、恒常的に創っていける流れ(モデル)を創ること。
創った表現の型や流れ、モデルを駆使して、アイデアや見解等をドンドン創っていくこと。表現していくこと。
そうした流れを身体化すること(実際にできるようにすること)。

自分が納得できる表現の型を見出し、その型を活用して、恒常的にアイデア等を見出し表現や創造していけるようにすること。
またその過程の瞬間瞬間において、自らが求める快や幸福感(表面的な体感としては充実感、没入感、喜び等)を、気軽に実感できるようにすること。

これらを主として行っていけるライフスタイルを見出すこと、身体化すること。

これら自らのアイデアや見解を表現化していくという在り方、環境等を土台として、アイデア等を実際的に具現化したり、運営していく在り方、環境に進んで行きたい。
(上記を構築しつつ、何かしらのアイデア等の具現化を自分のペースで進めていく可能性はある。)


私の個人としての幸せ、やりたいことについて少し言い換える。

アイデア、見解等を出し続けたい。
納得できる独自の形態を見出して、出し続けたい。
更に、その独自の形態から、具現化や社会的形式(事業計画書など)に納得いく形で変換できる型を創りたい。
その型でアイデア等を出し続けたい。
その型で社会的ジョイント性を持つものを創りたい。
そして、形にし、提供していきたい。

これらを直観的に求めているし、イメージしたりすることで、ワクワクしたり、身体がポジティブに反応する。


★★★

「ある段階の幸福感をベースとした上での更なる幸福感の探求と統合」


アイデア等の具現化や実際化、また経営や運営等を実際に行っていくにあたって、上記に示した行いたいこと等の内容を満たさないで進むことや、達成させる際に上記を土台化しない場合、表面上の何かしらのアイデア等が実際に形になったとしても、自らの魂が深いところで満たされない。
実行の結果や過程において、望んでいる幸福感や満足感が得られない形になりやすい。

(望んでいるものとは別視点での幸福感や満足感は生じうるが、それは個として満たしておきたい幸福感等が欠けた状態として体感されやすく、しっくりくる満足には至らない。
これは深いところの自己の求めているニーズ、欲求、志向性が何なのかを教えてくれている現象ともいえる。)

なので、しっかりと自らの魂がどの段階であっても、個としてしっくりくる幸福感を得られる在り方や環境を構築、実行し、その過程や結果での自らにフィットした幸福感、快感を体感でき、味わえるようにしておく。

これ自体が個としての真の望みであり、幸福(体感される幸福感)である。
(幸福感を体感できている状態で在れる在り方、幸福感が常時生じる在り方、環境である)。

この幸福(体感される幸福感)をベースとした上で、それをさらに高めるものとして、アイデア等の具現化の喜び、アイデア等の具現化等による全体への自ら視点からのより良くなる影響を与えるということへの喜び、アイデアの受け手や集団の喜びや幸せのエネルギーを体感すること自体への喜び等、これらを得られるような表現、発揮の形態、在り方、内外的環境を構築していく。

これは幸福感の質を高めていくということに繋がる。


★★★

「幸福な状態や在り方をベースとした上での、自分のアイデア等の具現化や、活動の主としての始動や展開」


自らが納得や満足できる表現やその過程での味わい(表層上においては充実感や没頭感等といった形で体感される幸福感を実感すること)を満足できる質で得られない状態(または得られるが恒常的にえら得るような状態になっていないと感じられている状態などの場合も含む)で、アイデア等の具現化だったり、それによる全体へのポジティブな影響を与えたことだったり、他者や皆(集団に流れるエネルギーの感じ)が自らのアイデア等により、より良くなったと感じられる影響を与え、そうしたエネルギー的な変化を体感したとする。
その場合、それらが満たされたことによる幸福感等を実感できるものの、自らの個として満たしたい幸福感が欠けた状態として感じられやすくなる。

それによって、幸福感を感じながらも、その幸福感を多視点的、多層的、立体的な構造として捉えた際、個としてのレイヤーの幸福感、身近で個的存在として重要な意味(実感、内的感覚)を持つ幸福感が、満たされていない状態になる。

それだと、欠乏的な感覚になりやすく、やりたいこと、成したいと思ったことを成したとしても、それによる満足感はありつつも、何か足りない、何かこれじゃない、という感覚が付いて回ることになりやすい。
この状態だと、アイデア等の具現化(何かしらの外的な目的、目標等)について、実際に動いて行った場合、途中で実行の過程における充実感や幸福感、やる気や熱意が枯渇したりして、動きが止まってしまう場合がある。
または、自らの幸福感(充実感ややりがい等の実感)という点から、やりたいこと、願いや望み自体に対して、疑問が生じたりし、止まってしまう場合がある。

こうした観点からも、個的存在としての幸福感、それを生み出すこと、表現発揮、それを恒常的に生じさせる在り方は、非常に大切と感じている。

※参考記事:
①物事への取り組み方、②物事の習得や成長の仕方、③アイデア等の具現化や展開に関しての各有識者や実務者等との関わり方について

街型のプラットフォーム、革命を超えた革命と、その後の世界の流れ、内外的な新しい質の世界の完成



【②】


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「執着(こだわり)の肯定について」


※メモ的内容

執着、こだわり等といったもの、それらが満たされたり、満たすことが出来る環境、在り方を構築できた時、これだ!という強い幸福感、満足感等が生じる場合がある。
こうした観点もあることを示す。

これは執着やこだわりを手放す等のアプローチを否定するものではない。
ここで示す、執着やこだわりを肯定して満たすアプローチと、執着等を手放す系のアプローチの立ち位置をフラット化させ、内外的な状況、段階により、使い分けられる状態にできるように、執着関連に付着する善悪や優劣的な想念(人々の心の領域で作用し、行動等を規定しやすくする要素、承認欲求等に影響するようなもの)を取り払うことを意図して示す。

執着を手放すアプローチに特化した方向性や境地に行く場合、執着を満たすことを肯定するようなアプローチは、その方向性や境地の妨げた要素となりうる。
そのため、執着を手放すアプローチに特化した方向性や境地を担う役割の人々やグループにとっては、望ましくないもの、悪(二元的な尺度における陰的な要素のもの)となりやすい。
体感的に抵抗感や拒絶感等が生じうる場合もあると思われる。

悪等の陰的なものとして捉えられやすい、というかそのように捉えること(心身的な反応として感知されること)で、望む方向性や境地への道を自然と明確化し照らしている。
心身の感覚への二元的な解釈や、それにより形成された二元的認識は、こうした特定の方向性や境地を照らし出し導く機能も持つ。
執着を手放すアプローチに特化した方向性や境地は、全体性の視点から、一つの方向性、役割を担ってくれていると認める。
その上で、それとは違う方向性とそれが持つある種のポジティブ的と感じられる作用、およびその可能性について示す。



執着は、満たしたり、満たされる在り方をすることで、逆に執着に付随するネガティブな感覚、感情、エネルギー等が消えやすい。
執着(ある特定のニーズ、こだわり的なもの)を満たすことで、逆に執着から解放される場合もある。
(ポジティブな形での解放、心残りが無い。)

あるニーズやそれに付随する心の反応は、満たすまでの過程が集団およびある時点での自己からすると、陰的感覚や感情、体験等が生じやすい。
そのため、平穏さや静寂さ、快適さ等を尊ぶ方向性の感性や内的ニーズにおいて、満たす過程で陰的感覚や感情、体験等(また自分自身の内面の中での葛藤や躊躇、自己批判、嫌悪等の発生のしやすいものも含む)が生じやすい傾向のあるニーズ(欲求、こだわり等)や心の反応、構造に対し、「執着」と名付け、望ましくないものという二元的情報を付加された形で概念化し提唱された。

それが人類集団において、一部共通認識化され、個々人や集団の人類活動に影響を与えたり、意図的に活用されてきたと感じられる。
(ある段階において、人類の在り方のセーフティーネットとなっていた。
またある段階における人類集団での欲求等の充足のための行動やアプローチ、その結果等に関する納得を提供する認識群の形成、また内的なアプローチの形成、それらに基づく快適な在り方、体験の基盤の構築(実際的なシステム、場、環境等)を助けていたと捉えられる。)

過去の時代においては、満たすことが厳しく、手放すことで解放された執着やそうした類のニーズが、今は満たされることで解放されるパターンが全体として増えていると感じられる。
無自覚で満たされているため、気付きにくいと思うが、執着の程度は全体としては減ってきていると思われる。
逆に個々人が執着するもの、こだわりのようなものが、個としてまた集団、全体としても、幸福感を生じさせる、増大させる価値が秘められたものとなり得る。


【③】


★★★

「幸福という感覚(感情)そのものと、集団における慣習や認識として幸福を示すものとの関係性について」


幸福感は外側の対象や形態ではなく、内側で生じ体感されるものと個人的に認識している。
○○だから幸せ、○○したから幸せ、というのは認識上において、幸せという感覚とイコール化されている認識である。これはある集団、もしくはある感性や性質の人々、グループにおいて、幸せという感覚が生じやすくなる傾向、パターンを切り取り共通認識化したもの(自然と共通認識化されたもの)。
故に必ずしも認識的に幸せという感覚を生じさせるとされる認識や形態であるから、またそうした状態に至ったからと言って内的に幸せという感覚を体感できるという訳ではない。
またその状態や状況、形態であるということが幸せそのものを指しているものでもない。

しかし、集団において、ある程度多数派とされる性質や感性の人々における幸せに基づき形成された認識である場合、その幸せを生み出しうる形態や事象、対象に至ったり、得たりすると同時に、幸せを体感できる個人が多数存在するため、その認識と内的に体感される幸せという感覚が一体的なものとして、実感を持つ形で認識され(無意識的に認識され)やすくなる。

それにより、○○だと幸せといった認識が、単なる認識、パターン、傾向としての意味や作用だけではなく、ある性質や感性の人々において実感が伴い、リアリティーを持つことになる。
それ故に集団においての力を持ち、影響力を持つ認識、慣習として根ずくということがある。
こうした認識と感覚(感情や体感)との集団における癒着、一体化が、様々な事象や体験のパターンを生んでいる面がある。
特定の体験世界を構成する内的要素の一つとして生じている現象として捉えられるということ。
(良い悪いといった二元的な判断ではなく現象としての認識)

例、○○だと幸せ、○○を得たら幸せ、○○になったら幸せ、こうしたものを求めて至ったが、実際には幸せを体感できなかった、そもそも幸せという感覚、状態自体を知らなかった、分かっていなかった、など。
逆に○○だと幸せという価値観に沿って動いて、実際に幸せの感覚や状態を体験したり、それらを得たりするということもしっかりと生じうる。

こうした集団において形成された幸福に関する認識を参考にした上で、自己との対話や体験の中で、そうした既存の幸福に関する認識、在り方、形式に囚われずに、それぞれ独自の幸福という感覚そのものを生み出しやすい認識、傾向、パターン、方向性を見出し、それに向かっていく。

これは能動的に幸福を創造していく(幸福という感覚、状態が生じやすい内外的環境を構築、創造する)ということ。
(現象として生じうる、集団圧力、集団のバイアス、既存の幸福感の認識に基づき構築された価値観やシステム、環境などの影響を様々なアプローチを駆使してカットし、それぞれ独自の幸福感という感覚を羅針盤に、道なき道を開拓するということ。)


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「幸福感に関する外側の対象や事象との関連性について」


改めてだが、幸福感は外側の対象や形態ではなく、内側で生じ体感されるものと個人的に捉えている。
その際、外側の対象は内側で生じ体感される幸福感のトリガーとなるものとして捉えている。

また、外側の対象の質感(生じている前提や作用などを感知や認識される元になるもの)により、内側で生じる幸福感の質が変わる。
幸福感の質の傾向や生じうる幸福感の可能性群が外側の対象の質感により変わる。
そのため、幸福感の実感、幸福を味わうことにおいて、内側も大切だが、外側(システム、モノ、身体等)も大切だ。

新しいシステム、モノ、文化等を発明したり、創造することで、外側の対象の質感(生じている前提や作用などを感知や認識される元になるもの)を
変えることができ、それが内側で生じるあらゆる感覚感情等(幸福感も含む)を、新しい質で発生させることが可能となる。(認識や思考等もしかり)


★★★

「幸福感(また感覚感情等も)の質の違いについて」


幸福感には質がある。
幸福感だけではなく、感情や感覚等も含めての例だが、以下のようなものが見受けられる。

好みの映画のワンシーンにクマに追いかけられる場面があったとする。
その際、「恐怖」という感情が生じる場合があると思われる。
その生じた恐怖という感情(感覚)のより深いところを感じてみると、「幸福感」という感覚(感情)が生じている場合がある。
好みの映画を観ることにより、「幸福感」という感覚(感情)が生じている状態で、その感覚の表層上に生じる感覚や感情等として、「恐怖」が生じているということだ。

これに対して、実際の山の中でクマに遭遇し追いかけられ、「恐怖」という感情が生じたとする。
この場合に生じた恐怖という感情は、映画を観た際に生じた恐怖とは、質が異なるものとして、感覚的に捉えられる場合が多いと思われる。
山でクマに追いかけられた際に生じた恐怖という感情について、後日(または恐怖という感情を体感している際)、より深いところを探ってみた時に、幸福感が生じていると感じられる場合は、人によってはあるかもしれないが、あまり多くはないのではないかと思われる。
(生死をかけて、心身を動かすことや判断することによって、自己の奥深くで、生命的な躍動感等が生じ、それに快感や幸福感等を感じる場合はあるかもしれない。
ただこれは、映画を観た際の幸福感等とは、質が異なる場合が多いと思われる。)

こうした例のように、感覚や感情等は、「同じ」と感知されたり、識別されるものでも、質の違いがあると感じられる。



また、好みの映画を観た際、より深いところの自己の感覚として、映画を観ることではなく、別のことをしたかった場合(その別のことが自覚できない場合も含む)には以下のような感覚感情等の動きが生じると思われる。

例に出したクマに追いかけられるシーンでは、表面的には「恐怖」の感情が生じ、そのより深くでは通常時と程度は下がるかもしれないが、好きな映画(個人としての趣向の層でのニーズを満たす映画)を観ているために「幸福感」等の感覚(感情)が生じる。
そのさらに深くでは、別の何かしらを行いたかったがそうではないことをしたために、「これじゃない感、抵抗感、不満足感」等といったものが生じると思われる。
それらが合わさり、「まぁ面白いんだけど、何だか違うんだよなぁ、満たされないんだよなぁ」、といったような感覚、思い等が内側で生じる可能性がある。

これがそのタイミングで観たいとか、直観的にこれだ!と思ったり、感じられた際に、同じ映画を観た場合には、好みの映画だから生じる幸福感だけではなく、自らの深いところのニーズに合致したことで生じた、ドンピシャな感じ(これ自体も質(属性)が違うが、幸福と呼べる感覚の範囲はいる感じのもの)も合わさり、より質が高いような幸福感を体感できると思われる。

その上で、クマに追いかけられるシーンでは、これだ!というタイミングで映画を観ることにて生じる、より高い質の幸福感をベースに、表層上の感覚や感情の変化の一つとして、恐怖という感情が生じる。
その際、恐怖という感情が、ベースとなっているより高い質の幸福感と合わさったことにより、質の違いを持った形で体感されると思われる。



自らの内に生じるニーズも、その感覚の違いから、階層(または方向性)というようなものを感じ取れる(感覚を階層的に認識するということが自然と生じたり、またこのような認識を用いて感知したものを捉えることで、より捉えやすくなる)場合があると思われる。
それぞれの層におけるニーズを満たした際に生じる、幸福感にも質の違い(属性の違い)のようなものが体感される。
その階層の違うニーズにより生じた、質(属性)の違う幸福感を合わせた幸福感を実感、体感できるような形に、自らのニーズの充足を持って行くことで(複数のニーズを満たすアプローチ、在り方、環境等を見出すことで)、深い満足感と、より高い質の幸福感を体感することが出来る。


★★★

「幸福感の質と深い領域でのニーズにより形成される体験世界、環境、場との関係性について」


上記では、階層の違うニーズにより生じた、質(属性)の違う幸福感を合わせた幸福感を実感、体感できるような形に、自らのニーズの充足を持って行くことで(複数のニーズを満たすアプローチ、在り方、環境等を見出すことで)、深い満足感と、より高い質の幸福感を体感することが出来ると示した。

これをより深くとらえると、そもそもその時点で望んでいる在り方や環境、自己自身の状態、体験したい世界等からズレていると、その体験している世界(場)、またその中での環境、在り方等でいる限り、表層上のニーズ(個としての好みや趣向のニーズ、生存に関するニーズなど)を満たし、それによる喜び(幸福感)等は得られたとしても、何かこれじゃない感、ここじゃない感が付着しているため、心からの満足は得ずらくなる。
(より本質的には、ある範囲内での幸福感であり、欠けているという訳ではないと捉えられる。)

ある体験している世界、場、環境において、自らの深い領域からのニーズに従い、体験している世界等を変えていければ、そのニーズは充足し治まるが、充足されていない場合、徐々にニーズへの引力が強くなっていき(潜在意識が顕在意識に知らせるため)、その時点での体験している世界等をベースとしての表層上の幸福感では、満たされない、これじゃない感が生じるようになっていってしまいやすく、体感される幸福感の質が低下しやすくなる。
(これも潜在意識が顕在意識に知らせるための現象と言える。)


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「幸福感という感覚や状態の階層性について」


上記でも示していたが、ここでいう幸福感は、表面的には充実感、没頭感、喜び等で体感され、その背後において幸福感が生じているのを体感されるという感じ、前面に幸福感が出ている時だけが幸福なのではなく、何かに集中したり、ぼーっとしたり、ある種ネガティブとされるもの(恐怖や身体的な負荷等)を心身で体感されている時であっても、自らの望む幸福感をベースとしている時であれば、それは幸福の上での感情や身体的な現象としての体感となるので、感じられるもの自体の質が全く異なる。

外部からは苦労とか負担とか、大変そうと思えたり、思われても、自分自身の中では、充実感や没頭感など快となる感覚(その背後で幸福感が生じている状態)が生じていたりし、幸福感という視点からは負担や望ましくないものなどではないというということ。

このベース部分での自分が望む幸福感の状態から外れてしまったり、その状態に至っていないと感じる場合、表層上で生じる心身の負担はダイレクトで負担(ネガティブ、望ましくないもの、望んでいないもの)と
して実感される。
また一般的にはポジティブとされる感覚や感情、身体刺激等であっても、望んでいるような幸福感を得られていない、何か足りない、何か欠けている、楽しいけどつまらない、表面的な喜びや快楽に過ぎない等と感じられてしまう。


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「幸福感の質の向上の一環としての、幸福な状態の基盤となる内外的環境の構築とブラッシュアップ」


ある種、本質的には、結果というよりも過程での幸福感、瞬間における幸福感こそが大切と感じる。
その過程、瞬間における幸福感を生み出すトリガーとして、目的や結果がある。
結果の幸福感(達成感などとして体感されるもの)をトリガーとして、その過程における工程や作業、瞬間瞬間における在り方、状態において体感されるものの質を高める。
(背後で幸福感が生じてる状態にするし、更にその質も高めるということ)

結果に依存しない形での幸福感、その行為そのものにおける幸福感を重視する。
その行為そのものにおける幸福感をより高めるものとして、結果における幸福感(達成感、また得た結果により別の何かしらのニーズを満たすこと、その条件を得ること(金銭等)等)は、その過程の行為そのものにおける幸福感を高めるものとして副次的に活用する。

それが幸福感のベースを揺るがせない在り方、ある種結果や周囲に影響を受けずに、常にある一定の幸福感が供給され続ける在り方に至れる。
その在り方であることにより、無意識レベルでの幸福への安心感、充足感が生じ、常に幸福の状態が背後で生じている感覚になりやすい。
その状態の質も、自らを知り、その自ら独自の幸福感に根ざして内外的環境を構築していくことで高めて(深めて)いける。


<幸福な状態の基盤となる内外的環境の構築とブラッシュアップ>

自らが望む幸福感をベースとした内外的環境の構築(およびブラッシュアップ)と発揮について示す。

自らが望む幸福感をベースとした内外的環境の構築を行おうとした時点における自らを知り、自ら独自のこれだという幸福感(表面上においては充実感や喜び、集中、熱意、没頭など様々な形として体感されるもの)を捉える。
そして、それを生み出すトリガーとなる、自らの発揮の仕方、表現の仕方、動き方、関わり方等を捉える。
達成時というよりも、行為そのものに対して、幸福感が生じるもの、そうした行為、表現、型、在り方を主軸に見出す。

またこれだという幸福感を生み出すための外側の型(文化、役割、システム、モノ等)も見出す。
こうした幸福感を生み出す内側の要素(表現や発揮の仕方、動き方等)や、外側の要素(文化、役割、システム、モノ等)が無ければ独自に生み出す。

様々な自己の幸福感を生じさせる内側の要素(表現や発揮の仕方、動き方、在り方等)を発見し、これだ!という感覚的な水準に至るまで合わせたり、独自の行為や型を見出す。
それを、形態的、もしくは活用や応用における自由度が高いような外側の要素(文化、役割、システム、モノ等)を活用し、落とし込む。
内側の要素(表現や発揮の仕方、動き方、在り方等)を外側の要素(文化、役割、システム、モノ等)にて具体的な形として表現化、具現化する。そうした形で創る。
こうした自らが幸福の状態で在れる、体感し続けられる在り方、内外的環境を創る。

こうした在り方、内外的環境を構築していく際、現時点での人類集団における社会システム、お金、モノを材料、トリガーとして活用する。
このお金自体はシステムとしてありがたいが、幸福感という視点においては、それら自体が目的ではない。

これは、モノ、お金等を否定しているものではない。
暫定的なシステムや形態として、お金(経済システム)、モノ、社会システム等を認め、自己における感覚的、抽象的なもの、幸福感等を構成、生成させるためのツール、トリガーとして、活用させてもらっているということ。
既存のシステムや形態を固定的に捉えることから、変化変容は可能だという認識に転換し捉え、その上で活用させてもらう。

また、ビジネス等をするとしても、そのやり方や提供も同様である。
自己の幸福感に根ざしたやり方(独自の価値観、倫理観等)で行うことを、理想とする。
(暫定的に、あえてそうでないものを段階的にやったり、理想への過程として、取り入れたり、行ったりすることはあれど、基本は自己の価値観や倫理観に基づく形での、やり方や提供を指針とする。
これも個としての幸福感(ある種の個としての役割、立ち位置を知らせる反応)が生じる形で行うということ。)

これからズレれば、幸福感を重視するという観点において、本末転倒になってしまいやすい。

このようにして構築した自らにとってのこれだ!という幸福感を生み出す型(内外的な要素を活用して構成した独自の型、在り方)を土台として、自らを表現発揮していく。
自らにとってこれだという幸福感を実感できる在り方ができるし、更にその質を高めていける。
それに至ったこと、それに至ってきたことに対し、自然に自信と誇り、喜びや満足を得られる。
(幸福に至ってきたことに対して幸福を得られる)。


また、行為そのものや過程、瞬間における幸福感を味わうにおいて(より味わい続けられる状態に至るにおいて)、それらの幸福感をより強く生じさせるトリガーとして、目的、理想、世界観、価値観、結果、認識、より深い自らの状態(魂が望む状態)等が位置付けられる。

これらも上記で示したような、内側の要素(表現や発揮の仕方、動き方、在り方等)を外側の要素(文化、役割、システム、モノ等)にて具体的な形として表現化、具現化するという形で、自らの幸福感を供給する在り方、内外的環境をベースとして、そこに加えていったり、または目的や理想等によってベースとなっている内外的環境を再構成していったりする。

それにより、より自らの幸福感の質が高まる在り方、内外的環境を創る。
自己のニーズの階層性において、表層上のニーズも満たしつつ、より深いところでのニーズも充足され、幸福感の質がより高まった、複合化され体感されるような在り方、環境を構築することが出来る。

その在り方や環境を土台として、表現発揮を行っていく。

自己の在り方、内外的環境は、常にレベルアップさせていく
(そうした意識でいる、内外的な変化は常に起こり続けるため)。

また自己の可能性の追求は好奇心等により常に解放させておき、その際に生じた変化によって、自己の在り方、内外的環境をブラッシュアップしていく。
(ブラッシュアップできるようにもしておく。)


★★★

「幸福感の質の向上を求めることによる、自己発見、変化変容、成長、拡張深化」


幸福感には質がある。
この質を自らの奥深くが望んでいるものにする(表層のニーズも内包させておいた上で)。

それをベースとし、さらに高め深めていくこともできる。
それが結果として、自己の再発見、自己の拡張深化、自己成長を目指すことになる。
その過程で得たものを幸福感を生み出す表現発揮、それらの基盤となる在り方、環境に組み込んでいき構築することで、更なる質の幸福感、自分の中でさらに満たされる幸福な状態、在り方に至れる。

幸福感を求めることによって、上記のようなプロセスから、新しい在り方、方向性を見出したり、目指すようになり、新しい世界に進むようになる(望むようになる)。
それが絶えず繰り返され、構築された自らの在り方により、内側で体感される幸福感の質を高めていくことが出来る。
存在しているだけで感じられる幸福感の質を高められるし、また構築した自らの在り方を表現発揮する際に、その結果はもちろん、その過程においても幸福感を深く実感できるようになる。



私は快楽主義者であり、幸福主義者である。幸福を追求する。
幸福を統合させていき、まだ見ぬ、しかし深いところで可能性として存在し、また魂の志向性(欲求、ニーズ)として求めるものを探求し体験する。


【④】


★★★

「幸福感という観点からの、全体における理想の内外的環境と、その補足」


上記を踏まえた上で、幸福感という観点から全体における理想的な内外的環境として以下を示す。

個々の幸福感に根ざした独自の型を生み出し表現発揮できる。
またそうした在り方を行うことを奨励しサポートする。
独自の型を持つ個々が有機的に繋がり合え、影響し合える。
結果、集にとっても、全体にとっても、有益となり、更なる幸福や喜びを生む。
質的な向上を成す流れが絶えず生み出され続け変化変容し続けることが出来る。

という内外的環境を幸福感という観点から理想とする。


個々の幸福感に根ざした独自の型についてだが、誰かの模倣であっても、そうした模倣を行うことがその魂としての深い段階での表現形態であり、深い幸福感を生むのであれば、それは独自の型、在り方である。
ここで言う独自の型とは、表面的に唯一無二とみられるようなもののみを指すのではなく、深いレベルでの独自性を指す。
個々の存在としての独自性に根ざしたものを指し、その上での表層のバリエーションの一つとして、唯一無二のような表現形態を成す型もあるということ。

さらに深い領域においては、それぞれの体験世界がそれぞれの役割や管轄を担う形で対等な形で存在し、優劣や望ましい、望ましくない等も無い。
ただ、今回の私という個として着目している方向性としては、個々が深い領域での幸福感に根ざした独自の型、在り方を構築し、それで有機的に繋がり合え、全体にも望ましい影響を与えていくという方向性を指し示しているため、その方向性ゆえに、望ましい望ましくないという二元的な方向性が副次的に生じる。
それは体感的、感覚的にも生じ、それを認識化して、示しているということ。

方向性(欲求、ニーズ、志向性、意識が指し示すもの)が生じることで、照らし出される二元的な対象や事象(ある方向性において見出される望ましい望ましくないなどの感覚感情、身体反応、それに基づく認識等)が生じる。
その対象や事象は、主体側の認識上において付加されたメタ的な認識(主となる対象事象に関連して紐づけられた抽象的情報)である。
(感覚感情、身体反応等も同時に生じるためリアリティ(実際感、現実感)が生じる。)

その対象や事象自体に良い悪いなどの二元的な性質が付加されているわけではない。
存在としてはニュートラルである。

また、より深く言えば、対象に対する基礎的な認識自体も抽象的なもの(人間の認識の中に存在するもの)であり、それ自体が存在しているわけではないと言える。
方向性を見出した時に、二元的な意味合いが付加されうる対象や事象自体の存在も、絶対的なものとして存在しているわけではないということ。

これは物質的なものや自然現象的なものであってもしかり、そのように「存在している」として人間という器が感知している、リアリティ感を持つ形で切り取られ認識されているということ。
その本質は、それ自体が深い意味で存在するという訳ではないということ。

※話がそれたと思われるが重要な点、幸福感に関してはもちろん、個人的に掲げる新しい質の世界、人類の器自体の革新等とも繋がってくる部分。


※参考記事:
地の時代→風の時代など、エネルギー的な変化の周期における、人類の内外的な変化や移行の既存パターンを刷新する、3層(4層)の土台とその完了

街型のプラットフォーム、革命を超えた革命と、その後の世界の流れ、内外的な新しい質の世界の完成

科学と本質との関係性、人類という心身の器の変化変容による科学の質の変化可能性

①言霊による身体等への働きかけ、②言霊による一般的に意識的に動かせないとされる身体領域への働きかけの可能化、③イメージングや状態の再生、言霊等を適用した行為活動モデルの形成と実行、④言葉による状態のトレーシング、⑤状態の合成、など


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