【掌編】おはよう
目が覚めてもまだ心の中に昨日の鬱屈した靄を引きずっていることに気づき、清美はそんな自分に腹が立った。一晩眠れば大抵のことは何も気にならなくなる性質なのに。昨日の出来事が自分にとってそれだけ最悪だったんだな、と第三者目線で俯瞰にしてイライラを矮小化しようとしたが、次々と自分に投げかけられた言葉や振る舞いを思い出してしまって上手くいかなかった。
どうして直属の上司でもないアイツにあんなこと言われなきゃいけなんだよ。ただ相手が歳下の女ってだけで横柄な態度取りやがって。絶対家庭でも嫌われてるわ、ていうか結婚できてることが信じられんわ。
大事な取引先って聞いてるから目を見て「お世話になります」って丁寧に挨拶してやってんのに、スマホ操作しながら「うぃーっす」だってよ。なんだそれ。手とスマホ溶接してやろうか。あ、そろそろ準備しなきゃ。
スマホのアラームを止めて、どんなメンタリティの日でも必ず朝はやって来て会社に行かねばならない残酷さを呪いながら、清美は出社の準備をする。今日は人間として生活する精神性を持ち合わせていないので休みますとか言ってみたいな、言えるわけないけど。でも言ったらどんな顔をするか気になるから言うとしたら電話じゃなくてZoomだな。背景はアフリカでライオンがシマウマを捕食する画像がいい。出社途中の電車の中で検索して探してみよう。人間放棄への第一歩。
急いで準備を済ませて、いつものように定位置の皿の中を見ると、そこに家の鍵がないことに気づく。失くさないように必ずここに置くと決めているのに。皿の周りや近くのテーブルの下を確認しても鍵はなく、周辺を探している内に毎日出社している時刻が過ぎてイライラしてくる。
「えー、鍵開けたまま出るかー? いやそれはない。あー、イライラする。もういっそのこと本当に休んでやろうかな」と思いながら何気なく玄関を見ると、入り口近くの廊下に無造作に鍵が落ちていることに気づいた。
そうだ。昨日イライラしながら帰ってきて、そのまますぐに持っている物と鍵を投げ捨てたんだった。じゃあこれも全部昨日のアイツのせいじゃんか。ふざけんなよ。
以前に打ち合わせをした担当者が不在だったから「担当者さんは?」ってわざわざ聞いてやったら「すぐ来る」だって。こっちはお前はお飾り上司で一人では何もできないって分かってるから聞いてんのよ。部下が遅れてすみません、ぐらい言えねぇのかよ。
家から最寄り駅までの道をイライラしながら急いで歩く。一足ごとに「私、怒ってます」と世界に表明するようにパンプスでアスファルトを踏み鳴らす音がいつも以上に近所に鳴り響いていた。
そのとき、清美の背後から「おはようございます!」という無邪気な声が聞こえた後、清美以上のスピードで小学生男子が走り抜けて行った。
あぁ、驚いた、小学生か。挨拶をされて我に返った清美が辺りを見回すと、登校する小中学生の姿が目に入ってきた。
「普段と十分ぐらい出発時間が遅れただけなのに」と清美はいつもの朝とは違った風景を眺めていると不思議と感慨深くなってきた。
昨日のことなんかに影響されてたまるもんか。向こうが挨拶もできない失礼な奴でもこっちは負けずに挨拶し続けてやるんだ。私はまだ人間を放棄しない。
心に火が灯って前を向いて力強く歩いていると、目の前に清美を追い抜いて行った小学生が信号待ちをしていた。
追い付いたら後ろから元気に「おはよう! 今朝は寒いね!」って大きな声で彼を驚かせてやるんだ。企んでいたら笑みが溢れてしょうがなかった。
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