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【掌編】好きっていう気持ち

 幸雄は誰かと親密になれなかった。
 例えばクラスでたまたま席が隣になったり、同じバイトに勤めていたり等のきっかけがあってその人と話してみる。最初は共通の話題で共に笑ったり愚痴を言い合ったりして愉快になるのだが、しばらく付き合いを続けていると、その人物の嫌な部分が目立って見えてくるようになる。今の発言は本当に面白いと思っての表現なんだろうか、その考えは物事の向き合い方として怠慢なんじゃないだろうかと内なる声が次々に浮かび上がってくる。そのときにその人物とは一旦距離を取り、自分に合った完璧な相手などいないと自分自身に言い聞かせればいいものの、内なる声はさらに叫び続ける。
「好きで知ろうとすればするほどに嫌な部分が見えてくるのは当然だ。それこそが好きであることの証じゃないか」
 そうなったが最後、相手に対して厳しく意見したり、本人も気にしているであろうコンプレックスや傷口を抉り、自分こそがあなたの良き理解者であると言わんばかりに自分の理想像を押し付け矯正しようとするのだ。
 当たり前だがそんなコミュニケーションしか取れない幸雄の周りには次第に誰もいなくなり、これまでに親友や恋人と呼べるものはできたためしはない。さらに誰かとコミュニケーションをする機会を失うことで、自分との対話だけが異常に深まり凝り固まっていき、いつしか幸雄は世の中で一番正しいのは自分であるという間違った価値観で形成された人物になってしまったのだった。
 幸雄は今日もどうしてそうなんだと誰かを嘆く。世の中で唯一正しいのは自分であるのに、どうして誰も見向きしないんだ。こんなにも誰かを愛そうと生きているのに自分を受け入れようとしない社会を嘆く。
 眠れないほど悩んでいる自分よりも周りの人間の方が遥かに楽をして生きているようでそれにも無性に腹が立つ。適当なコミュニケーションの積み重ねなんて、その場しのぎで本当はその人のためになってないじゃないか。愛していればこそ言いたいことをちゃんと言っていかないと人間が腐っていく。
 愛されたいともがけばもがくほどに愛されないのは何故なんだ。

 一方その頃、とあるコンサート会場で世界的に有名なアーティストのライブを観ている女性がいた。
 京子という名のその女性は大きな会場に響き渡る美しい歌声に酔いしれながらも、心の何処かでは楽しめていない自分の存在を感じていた。
 今こうして人気のあのヒット曲のサビの部分を迎え、自分は盛り上がって両手を挙げている最中なのだが、ギタリストの尋常ではない汗の量に「干からびてミイラにでもなるんじゃね?」と思ったり、隣の女性ファンが何が演奏されても「ビジュが神! ビジュが神!」と喚いていてそれが不快だったりと、音楽に陶酔して清らかになるはず想いの中に様々な雑音が混じってきていた。
 しかし京子は純粋に楽しめないことを残念とは思わなかった。なんならピラミッドの奥深くに眠るミイラ化したビジュ神を思い浮かべてほくそ笑んでいた。
 京子はそんなものだと思っていた。なぜなら隣のファンのように、自己を失うほどに何かに依存してしまうことの危うさを知っていたからだ。何かを崇めるほどに心酔すると見えていたものも見えなくなる。常に相反駁する想いが湧き上がって来るのは、自分が自分を見失わないために大事なことなのだ。
 確かに何かに夢中になれない自分に悩んだ時期もあったけれど、今はそれで良かったと思う。楽しいってなんなんだろう。好きってどうゆうことか。しんどいときにちゃんと自分を見つめる作業を怠らなかったから、今の自分がここにいると京子は胸を張って言えた。
 そんなこの世に燦然と確立しきった私を愛して、怖気付かずにしっかりと地に足つけた誰かが現れたときは、お前結構見る目あるじゃんって少しは褒めてやろうと思っていた。
「愛してやるかどうかは分かんないけど。だって大体がしょうもない奴じゃん? あなたもそう思わない?」
 京子の問いかけに全ての内なる声が雄叫びをあげて激しく賛同していた。

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