【脳死は人の死ではない#12】魂は心臓に宿る(2)
この記事は次の記事の続きです。できれば、次の記事を読んでからお読みください。
私たちの本質的なものを「魂」として、話を進めていきます。
その“魂”がどこにあるかというのが、今回のテーマでは当然大きな問題となりますが、脳にあるとした場合と心臓にあるとした場合で考えてみましょう。意識が脳にあると考えるのは、現代の西洋医学の一般的傾向なので、この設定は間違いではないでしょう。
まず、脳に魂があると仮定しましょう。
すると、心臓移植の場合は、脳にあるレシピエントの意識が、心臓のドナーの記憶を読み取っていることになります。さて、心臓の記憶とはどのようなものなのでしょうか。
DNAだとしたなら、すべての細胞に存在するので心臓移植だけに起きることの説明ができません。たとえ心臓に独自の神経系があり、そこで特殊な細胞記憶がなされていたとしても、先に挙げた殺人事件の犯行を正確に証言したり、知らない言葉の特殊な合言葉を話したりするような詳細な記憶までがそこでなされるものでしょうか。非常に疑問です。
また、脳に魂があった場合は、移植された心臓内の人格と二つの人格が併存するはずで、人格が入れ替わることは考えられません。
やはり、脳に魂があるという考えで、心臓移植の現象を説明することは難しいのです。大体において、記憶を蓄える臓器として心臓をとらえなければならないところに、根本的に無理があるのではないでしょうか。
それでは次に、心臓に魂があると仮定しましょう。
すると、心臓移植の場合は、心臓にあるドナーの意識が、脳にあるレシピエントの記憶を読み取っていることになります。確かに、脳は記憶を蓄える器官なので、そこにレシピエントの大量の記憶があってもおかしくありません。
また、人格は魂と関連するので、心臓が移植されることによって、レシピエントがドナーの好み・性格などへと変化することは容易に理解できます。
ここで、前回の記事で挙げた「心臓移植後に見られた大きな特徴」について見ていきましょう。
1.心臓移植を受けた者は、好み・性格・趣味・行動・体質・夢などがドナーのものへと変化する。
2.それは心臓が移植されたときに起きるのであって、他の臓器移植では起きない。
3.そうした変化は、好みや性格等が新たに付け加わるのではなく、ドナーのものと入れ替わってしまう。
当然、心臓にある魂が入れ替わったわけですから、人格は併存するのではなく、上記3で挙げたように入れ替わることになります。また、上記2の説明も簡単で、心臓に魂が宿り、他の臓器には魂は宿っていないのですから、心臓移植にだけこの現象が起きると説明できるのです。
やはりどう考えても、「魂が心臓に宿る」と考えた方が自然だと思えてしまいます。「魂が心臓に宿る」という視点で考えるならば、先に挙げた様々な体験談の謎はするするっと解き明かされていきます。クレアが抱いた違和感も理解できてしまうのです。
果たしてこれは我田引水の論理なのでしょうか。そこで思い起こされるのは、カナダの神経外科医ワイルダー・ペンフィールドです。
ペンフィールドは、心を脳の働きのみに基づいて説明しようと長年研究してきましたが、そこでわかったことは「脳の神経作用によって心を説明するのは、絶対に不可能だ」ということでした。
また、脳死が人の死にはなり得ず、脳が絶対的なものでないことは、このnoteのいろいろな記事で見てきたことです。やはり、ここは唯脳的視点を改め、もっと心臓に注目していった方がいいように思えるのです。
このように魂が心臓に宿り、新たな魂がレシピエントの中で活動していると考えると、すんなりと心臓移植の現象は説明できます。しかし、そうすると魂が入れ替わっていることにならないでしょうか。
つまり、本当のクレア・シルヴィアは実は死んでいて、心臓に存在するティムが新たな体を得て、クレアの脳に宿る記憶とともに生きているということです。
これが事実だとすると、心臓移植の倫理が問われなければならないでしょう。
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