見出し画像

甘さと人類(雑記8 甘さの多様性2)

前回は甘さの多様性ということを書こうとしながら、全く甘さの多様性に辿り着けなかった。。。反省

それでも、甘さの多様性というお題で思考しながら、そもそも甘いものを甘いと表現しない人々がいる中で甘さの多様性と表現して良いのかわからないですが、人が甘いと感じるようなものについて触れていこうと思う。

甘いものというと何を浮かべるだろうか?
蜂蜜?サトウキビ由来の黒砂糖?甜菜由来の砂糖?ココナッツ?メープルシロップ?果物?果糖ブドウ糖液糖?0カロリーの人工甘味料?はたまた米?とうもろこし?さつま芋?
色々ありますが、そのなかでかいつまんでいくつか書いていこうと思う。

<蜂蜜>
蜂蜜は食物としてだけでなく、薬、軟膏、防腐剤、抗うつ剤の役割も果たしてきた。蜂蜜は昔から神話にも登場し宗教儀式でも大きな役割を担っている。神々の食べ物と考えられ、蜂蜜に関係した創造神話もあるほどである。エジプト文明では蜂が飼い慣らして蜂蜜を作っていた、非常に希少性は高く、市場に多く出回ることはなかったので高級品として扱われていた。その甘さは15世紀頃から恋愛と関係付けられ「ハニー」という言葉は愛情のこもった呼びかけによく使われている。
 その一方で蜂蜜は幼児などが食べると食中毒になるリスクがあり、また蜂が集めてくる花の蜜の種類によってはにもなりうる。 扱いに注意が必要な代物である。

文化人類学、科学人類学などでは、文化とはありのままに存在する自然と切り離されもの区別されることが多く、西欧発端の宗教は自然と人間文化を分断させてきた。この分断により、部族紛争が絶えず、中世の魔女狩りを引き起こし、自然なるものを野蛮な存在として劣るものとして植民地を拡大し続けてきた歴史がある。

蜂蜜の不思議さとは蜂が花の蜜を採集しただけのものであり、生で自然と呼べるような状態で食べることができるような極めて自然に近い食べ物である一方で、文化的で伝統的で民族的なものと結びついているのである。自然と文明(非自然なもの)とを分つ架け橋として存在しているのである。

15世紀以降のサトウキビプランテーションの誕生以降は砂糖が甘さの象徴に変わっていき、伝統や民族的なものに追いやられつつも市場商品というよりも希少価値のある魅力的なものとして扱われてきた。最近では花の種類から風味や味が変わることからテロワール(風土)を表現するものとしての価値も高まっている。

<サトウキビ>
サトウキビは熱帯のミネラル豊富な土地でしか生育することが出来ず、さらには土地のミネラル分を吸い取ってしまうため適切に土地を休めながら生産する必要がある。マケドニアの大王のアレクサンドリアがアジアに向かって遠征した際にサトウキビを知り欧州に持ち帰って広がったとも言われている。サトウキビからできる黒砂糖も神話や宗教儀式で使用されていたし、すぐ体調が回復することから薬としても扱われていた。そんなサトウキビは、商品価値が高くて生産量を増やすることが可能なため世界商品として各地に流通した。

そんなサトウキビは、アメリカ大陸が開拓されるて中米カリブ海の島々などが植民地としてプランテーションで大量生産されることになった。過酷な労働を伴うため、悪名高い三角同盟でアフリカから大量の黒人が船に乗せて中米に奴隷として連れてこられた。生産可能な砂糖により権力者は欲望のままに行動するようになり、自分の人間的道徳すら失い、奴隷として連れてこられて人々の家族の絆や地域の絆などの社会資本を粉々に破壊することまでしてまで、自分達の富を蓄積をしていった。大量生産と付加価値の高さが合わさると人は道徳を失うことが歴史からわかる。。  

砂糖の流通量が増えて、寒い土地でも生産可能な甜菜がドイツで発明されて甜菜による砂糖が流通すると、砂糖の価値は下がっていった。この時期付近で産業革命が起き、産業革命は多くの人を必要としたため雇用者は安価な労働力が必要となりそのために砂糖を労働されるツールとして使うようになっていた。そして現代では砂糖税を徴収されるほど罪悪感の象徴として扱われ場面もある。 依然として砂糖は魅力的なものでありながら、罪悪感の象徴に成り下がったのは興味深い流れである。

今日はここらへんで止めて続きのメープルシロップや工業糖、その他の甘さの話はまた次回にしようと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?