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あの日見つけた始まりの理由を見失って、また見つけた物書きの話

振り返るとわたしの人生の大半は、絵や文章で自分の頭の中を表現することとともにあった。と思う。

もともと本や漫画、アニメや映画が好きだったので、気づいたら自然と自分でもお話を考えるようになっていた。
自分で作ったお話でひとり人形遊びをするところから始まって、
休み時間に漫画を描いて同級生に見せたり、セリフばかりの小話を連載形式で少しずつインターネットの掲示板に投稿したり。
色々やるうちに、わたしにとっては自分の頭の中をダイレクトに書き出せるという点で、漫画や絵より文章での表現を魅力的に感じるようになった。
同年代の中では語彙やストーリーの引き出しも多かったこともあって、ショートショートくらいであれば大した苦も無くいろいろ書けて楽しかったというのもある。
そんなわけで、今から十年前はショートショートを中心に書いていた。
しかしあるときから、小説を書きたいという欲求が日に日に大きくなり始めた。
自分に生きる力をくれた、これまでの人生で出会ってきた物語のように、誰かの励みになるような物語を自分の手で書き上げたい。そんな想いが脹らみ始めていたのだ。
できるだろうかと一抹の不安もあったけれど、その頃には三、四千字程度の文章を週に何本かのペースで書くようになっていたし、
数人だけれど読者がつき始めていて、時折感想をもらえるくらいにはなっていたので、自分なら時間さえかければどうにかなるだろうと調子よく結論付けた。

それがまさか、実際始めてみたら、ほとんど書き進められないなんて。
大体のストーリーの構成はできている。登場人物のイメージもある。なのに書き進められない。
これ、面白いんだろうか。
自分が書いた小説なんてだれか読んでくれるのだろうか。
自分がこれを書く意味はどこにあるんだろうか。
書き始めると、そんな声が頭の中で響く。
振り切ろうともがけばもがくほど、書きたかったものから離れていくようで恐ろしい。
小説の書き方についての本に助けを求めても、文字としては理解できるものの、いかすことができない。
小説が書けない。
書きたいのに書けない。書けると思ったのに書けない。自分が書く意味がわからない。
こまごま書き込んだネタ帳と、ほとんど真っ白なテキストエディタを前に、毎日のように頭を抱える時間があまりにも苦しくて、苦しくて。
ショートショートで育てた自惚れは、小説という壁の前に木っ端みじんに砕け散り、もらった応援の言葉は吹き飛び、そうこうしている間に始めた理由も見失った。
人間、どうにもならなくなるほど苦しくなると、喉の奥からつぶれた音が出るんだということを、わたしはあの時はじめて知った。

「書けないのは、自分に特別な才能がないからだ」
苦しむことに疲れたわたしは、やがてそう思い至った。
別に、小説で食っていこうなんて考えていないからいいじゃないか。
別に、書けなくたって死にはしないからいいじゃないか。
別に、こんな苦しい思いをしなくたって楽しめる趣味はほかにもあるじゃないか。
書く意味は一向に見つからないのに、書かなくてもいい理由はイージーにいくらでも思いついたので、言い訳には苦労しなかった。
もうわたしの脳みそには、そのしわの溝一本一本にまで「特別じゃないから仕方がない」という言葉が刻まれていた。
そうして、小説からはもちろん、ショートショートを書くことから距離を置くことにした。

はずなのに。
今もまだ、物語のアイデアができればあちこちに書きつけているし、
時折自分の内側からくる衝動のままにテキストエディタに向き合ってしまう。
一文字一文字歯を食いしばりながら打ち込んで、
一文書き進めるごとに「いったい何のために書いているのだろう」と迷って、
一段落読み返すごとに「こんなに苦しいことをして何になるんだろう」と疑って。
それでも、なぜだかやめられない。
わたしが書いたものが、世の中に何か影響を及ぼすことはきっとない。
わたしの書いたものを、心待ちにしている人がいるわけでもない。
わたしの書いたものに、対価もらえるわけではない。
苦しくて苦しくてしょうがないのに、どうしてやめられないのだろう。
なぜ書くのだろう、なんのために書くのだろう。
そんな疑問を抱えたまま、ぐずぐず人生を過ごして早十年。
あの時の自分の願いが「誰かの励みになるような物語を書きたい」だったのを思い出したときに、ようやく、あの時探しても目に入らなかった「わたしが書く意味」が見えてき始めた。

わたしが書かなければいけない必然性なんて、この世界のどこにもない。
だけど、わたしが書く意味は、「自分がそう願っているから」それだけで十分なんじゃないだろうか。
自分の考える話が、本当に自分にしか書けないものなのかなんてわからない。
自分に物書きの才能がないことなんてとっくにわかっている。
自分が書こうとしなくても、世の中には素晴らしい物語がたくさんあることなんてわかっている。
それでもわたしは、書きたいと願ったし、今もそう願っている。
誰かの励みになれるかは相手の都合なのでわからないけれど、でもなりたいという願いは自分の中にある。
その願いに応えたい。書きたい、書けるようになりたい。
そうやって書かれたものの中にこそ、わたしが書く必然が宿っているのではないだろうか。
だったら、「特別な才能」なんてものは必要ない。
わたしに必要なのは自分の願いに向かい合う覚悟と、それに応えようとする努力だけだ。

「自分にしか書けないものって何だろう」と、創作活動をしたことがある人ならきっと誰しも考えたことがあるだろう。
今は自分で創作したものを公開するのがすごく身近になって創作人口はものすごく増えたし、なんならそこにAIも参戦してくるようになった時代だ。
中には本当に珍しいことを経験したという人もいるだろうし、たぐいまれなる文章力でユニークな表現ができる人もいるだろうが、
残念ながら大半の人はそうではないし、ご多分に漏れずわたし自身も、それらを持ち合わせているとは言い難い。
でも少なくとも、創作活動を始めた理由は人それぞれなんだから、たったそれだけでその人が書く意味というのは満たされるんじゃないかと、わたしは思う。
すごく特別じゃなくても、みんながそれぞれ特別だから、その人が書く意味なんてそれだけで十分なんではないかと思う。
もちろんプロの世界だったら希少性とか優劣とか、そういうのが大きく関わってくるんだろうけども、そもそもどのプロだって最初はアマチュアなんだから、同じような悩みを持つこともあったはずだ。
きっとみんな同じことを不安に思っている。大事なのは、そこからどうするかだ。
恥ずかしながらこの歳になってようやく、壁にぶち当たったとき「才能がないから」と言い訳しても何にもならないことが骨身にしみた。
でもそれは裏を返せば、適切な努力を積み重ねれば少しずつでも進歩していけるということなのだ。
いつか自分の満足いくものが書き上げられるかどうかはまだ正直わからないけれど、
ただ自分の人生の中で、自分の願いに応える努力からは逃げ出さずにいよう、遅ればせながらそう決めた。
前途は多難だし、人より遅いスタートかもしれないが、幸い人生100年時代。やれることを、少しずつやっていこう。
そうやってもがいてもがいて書き上げたわたしの物語が、
いつか誰かの生きる力の、ほんの少しの足しにでもなればいいなと、そんな夢を見ながら。

始めの理由を思い出すきっかけをくれた、Pokémon Special Music Video 「GOTCHA!」の制作陣に感謝をこめて。


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