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「国語」の授業で教えること @ 其の壱

 以前の記事で、「言葉」について、少し触れました。

それに合わせて、ここでは私たちが「国語」の授業を通して教えたいことを書きます。

 私たちが最も大切にしていることは、「『言葉』がどういうものか?」を伝えることです。子供でも、母語であれば「言葉」の本質を理解する前に、何となく使えるようになってしまうものです。しかし、それは家族を中心とした、限られた社会の中での「言葉」です。その子が成長して、社会を広げれば広げるほど「言葉」にも広がりが生まれてきます。そして、「言葉」は共有する範囲が広がれば広がる程、適切に使うこと自体が難しくなるものです。そうなると、より本質的な「言葉」の理解が重要になってきます。

 「言葉」とは、その社会の中で概念を共有するための記号に過ぎません。
故に、「言葉」とは絶対的なものではなく、恣意的なものになります。
たとえば、私たちの社会で「犬」と表現しているものも、社会が変われば "dog" と表現します。これは、「犬」と "dog" のどちらの方が正しいのかと問いを立てても、答えが出るものではありません。これが「言葉は恣意的である」ということの意味です。

 また、同じ社会の中で、ある範囲において一定レベルの概念を共有できたとしても、個人の認識が他者との間で完全に一致することは、絶対にありません。同じ「言葉」を使っていたとしても、その「言葉」への認識は個人的なものになってしまうからです。たとえば、誰かの死に対して「悲しい」という感情を多くの人が抱いたとしても、その悲しみは一つの言葉で表せるほど単純なものではない筈です。人と人との関係は、一つにまとめられるようなものではないからです。

 「言葉」とは、そのような記号に過ぎません。それが、コミュニケーションというものの難しさの根底にあります。他者とのコミュニケーションの中で多くの誤解が生じてしまうのは、そのような「言葉」というものの本質が原因です。

 当然ながら子供は、そのような「言葉」の本質を理解はしていません。他者が持つ認識と自分の認識に違いが生じることを理解せず、あくまで自己中心的に物事を捉えています。それが自然な姿で、まだ他者が自分とは異なる認識を持っていることを知らないのが「子供」です。

 そのために、「言葉」というものの本質的なあり方を理解させることが大切になるのです。自分の「言葉」に対する認識を客観的に理解した上で、他者の認識の可能性を客観的に考え、双方の認識を近づけていく姿勢を育てるのが「国語」という教科の重要な役割になります。物事には、絶対的な認識が存在しません。それ故に「言葉」の解釈と誠実に向き合うことが大切になります。それが「大人」に成長していくということだと、私たちは考えています。私たちは、子供たちの論理的思考力を育てるために、国語を通して「言葉」との向き合い方を育てていきます。


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