【読書】日本純文学リベンジその17夏目漱石『門』
『門』は20代では難しい
『門』を初めて読んだ理由は、『それから』にどっぷり浸かったために『それから』の「それから」を知りたくなったからでした。
燃え上がった街へ代助が飛び込んでいく様を『それから』でみて、三部作として続きが読みたくなったわけです。
20代で読んだ時に感じたイメージだけは仄かに残っていますが、『三四郎』のエネルギッシュな若さや『それから』の知性的な趣きとは異なり、くたびれた物悲しい雰囲気という印象でした。
ひっそりと生活を育む宗助とお米の姿は、僕にとっては悪くない夫婦像で、貧しくても子供がいなくても、あんな風に仲睦まじく過ごすのも悪くないな、と思っていました。さらに宗助が代助と異なって凡人感を持っているのも好感を持ちやすくなった一要因かもしれません。
ただこの作品は、大きな事件もおきず、見えない敵に怯えて最後は「門」を叩いてしまうので、ストーリーを20代の頃に楽しめたかと言うとそうではなかったように思います。
本当の金銭的な苦しみ
この作品を読んだ学生時代は、私自身お金がなかったのですが、物語にあるような本当のお金の苦しみは理解できていませんでした。
また伯父さんのお金の使い方の理不尽さや家族や社会から疎外されて過ごすことの困難さは、当然ながら学生時分にはわかりませんでした。
曲がりなりにも歳を重ねて、素敵な奥さんと多額の借金を抱えた今なら、理由もなく降りかかる社会の理不尽さはいやがおうにも学んできました。そのため今となっては共感を沢山得られるようになり、歳を重ねるのも悪くないな、と感じたりもします。
そんな風にお金の問題を考えると、夏目漱石は沢山の作品でこうした問題を描いているということが思い出されます。例えば『道草』では自伝的に金をせびる養父を漱石は描きました。
新潮文庫版の夏目漱石の全作品に柄谷行人氏が解説を書いており、現在手元には電子版しかないので細かくは覚えていませんが、資本主義の問題やマルクスに結びつけて鮮やかに説明していたような記憶があります。
近代化における知識人の苦しみ、が夏目漱石の代表的なテーマと言われている中で、どうしてお金の問題ばかり解説で論じるのだろうか、と当時感じていたと思います。
しかし今となってはむしろこの切り口の方がアクチュアルな問いとして浮かび上がるようにも思えました。
宗教の扉は開けることができるのか
そしてこの作品の一番の問題は、鎌倉での坐禅体験に向かう宗介です。
結局苦しんだ挙句に向かったのが宗教なのですが、この点不満を感じる人も多いのかな、思います。
ただあえて肯定的に読むのであれば、日本人が困った時に宗教に走ることもできる、しかし結局そこには安易に解決してくれる神様は存在しない、問いのみが残る、そんなこと描いているようにも思えます。
ドストエフスキーのカラマーゾフでは神の描き方は異なるでしょう。しかし日本の八百万の神や仏教の仏様はら結局のところ宗助のようになんらヒントも解決も与えてはくれません。
凡人宗助が主人公のため、他の作品の主人公よりも考察的な記述に深みがなかったのかもしれません。
しかし凡人が追体験するには十分なようにも思います。
僕はこの作品のおかげで、今後病院の薬に頼るかもしれませんが、仏「門」を叩くことはないだろうと感じています。
漱石の描くお金の問題が気になったので、また『道草』も折を見て読み返せればと思っています。
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