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【読書雑記】久しぶりに哲学に関する本(「現代思想入門」千葉雅也)を読んでみた。

社会人になると哲学はできない

SFに手を出してみたのだが、やはりあまり肌合わないらしく、面白くない。

そこで気晴らしにいくつか新書に手を出してみた。

学校で哲学を専攻していたこともあり、なんとなくその分野の本を眺めることがある。

しかし社会人になると社会との馴れ合いを許容しなくてはならず、あまりこういった分野を志向していると精神的な蕁麻疹が起きてしまう。

社会と馴れ合うことは没入することである。
俯瞰したメタの視点は持ってはいけない。
問いは持ってはいけない。
大体において、意味であったり、正しさなどはそこにはなくて、会社の短期的な資本主義的視点があるのみである。

経営者だったから分かるのだが、綺麗事は会社にも必要だ。

いかに社会へ還元するか。
いかに社会に貢献するか。
いかに社員を幸せにするか。

しかし根本を覗けば、なんの難しいこともない。
ただお金を稼いで、楽しくやっていこう、そんな程度なのである。

こんな感覚の中で哲学的なことを考えていたら何もかもやってられなくなってしまう。

しかし僕は経営者を辞めて、貧困にあえでいる。
ならば哲学してもいいではないか。

そんなことで少しライトな新書でかつ新しい作品で千葉さんのものを手にした。

時代性、語られることの違い

始まりの方で、尾崎豊の「15の夜」の詞が引用されている。

「盗んだバイクで走り出す」

この詞は今となってはギャグに近くても、千葉さんが書いている通り、当時はまだ学校=体制がそこには存在していて、解放されるようなニュアンスがそこにはあった。

今の人が聴くと、どうして人に迷惑をかけてこんなことするんだ、というコンプライアンス的な発想の声が出る、とのことだった。

世の中のメッセージは、当時の状況に対して、その人が考えることや感じていることの表明だったりするが、尾崎豊は当時の息苦しさを解放するヒーローとして賞賛されたはずだ。

今はどうだろう。
千葉さんは相対主義の問題に触れている。

以前は、様々な権力構造や大きな物語が存在し、相対主義は非常に解放的だった。
しかし今また二項対立的な風潮が高まっている。

かの御大浅田彰氏との対談でも触れている。

ここでの浅田彰さんの言葉が返しが的確で心に響く。

(中略)相対的な価値を通約するものは価格しかない、つまり多文化主義という表層の背後のグローバル資本主義がすべてを支配する状況になり、儲かるかどうか、役に立つかどうかのプラグマティックな〇×式思考が広まってしまった。それに対し、現実はもっと複雑なんだから複雑に考えようよ、と。
https://bungeishunju.com/n/ne7977cc36be8

まさに企業戦士のフリをして経営していた頃に、自分の判断基準はこれしかなかった。
しかしずっと思っていた。複雑なんだから複雑でいいじゃないか、と。

現代思想を読む必要はあるのか

小説も哲学も、動物的に物理的に生きるために必要かどうかと言われれば、不要なものだろう。

人間とは不思議なもので、つまらない感情の浮き沈みが常につきまっとてくる。

これを無駄と考えるか、素晴らしいもの考えるかは、人の価値観によるだろうが、多くの人が疑問に持たなかったり、受け入れられるものに対して、何か違和感を抱えて生きる人もいなくはない。

ルールに従ってさえいればうまくいくことや機械のように反復すれば終わることも多い。
クリエイティブな作業もその作業の繰り返しはルーチンに陥ることもある。

そんな時に、その規範やルールの中にある何か過剰なものや喉に突っかかるような異物感を拭えず、逸脱して外へ飛び出すことも人間らしさなのではないか、などと感じることもある。

現代思想は特に「差異」を強調するが、生きる中でそのような逸脱から逃れられないマイノリティ用の嗜好品、美術品のようなものだと感じている。

だからおすすめはしない。
万人に必要なものでないからだ。
でも何か拭いきれない違和感を抱えて生きているなら、手に取ってみるのもいいだろう。
棘だった神経を優しく撫でるようにならしてくれるかもしれない。

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