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自分の弱点について語りたい

自分の弱点は何か?という問いに対しては、そのときの年齢、状況、悩みなどの要素によって様々な答えを用意できるくらい弱点に満ち溢れた人間である。しかし、ひとつひとつ列挙していてはキリがないので、ここでは今の自分が強く認識している弱点について書きたい。

それは「恐怖の感情」である。そしてその感情を生み出しているのは自らの想像力だ。昔、村上春樹がどこかに書いていたように、想像力が生み出す恐怖ほど怖いものはないのだ。想像というくらいだから、そのほとんどがまだ起きていないことだ。だから本来は怖がるには早すぎるのだが、それでもその起きるかもしれない出来事は、想像力の力を借りてどんどん規模を増し、最後にはまるで現実に起きるに違いない、いやもう既に起きていることとして、精神にネガティブな圧力を過剰なくらい強い力でかけてくる。

被害妄想という言葉があるが、自分の場合はそれを表に出していないからそう言われていないだけで、実際にはそれと同じような状態ではないかと思う。そう診断されるような人たちはきっと気がふれるギリギリの日々を過ごしているのだろうと思うと、まるで自分のことのように胸が痛くなる。

さて、僕が想像力を駆使して自分を追い詰める恐怖の感情の中身とは何か?それは「喪失」である。もともと人間関係を数多く持っていないし、友人も少ない。要するに大事な人がこの世に少ないということだ。しかし言い換えるとそれは、失ったときの衝撃が大きいということに他ならない。特に多くの時間を一緒に歩んでいるような人が、ある日ふといなくなってしまったら…と想像するだけで結構苦しくなってしまう。

この傾向は幼い時からあったように記憶している。特に夜になると漠然とした恐怖に包まれてしまうことが多くて、理由を知る為に心理学を紐解いたことがあるのだが、そこには「幼少期に親とのアタッチメントが足りていないほど、安心感というものが枯渇してしまい、人への執着が強くなったり、それを失うことの恐怖が強くなったりする場合がある」との記述があった。僕の親は共働きで(母は夜の仕事だった)面倒が見られないからと、小さいころから祖母に預けられて育てられたのだが、その祖母もまた忙しい仕事を抱えている人だったので、小学校から帰って夜の10時11時くらいまで一人きりで家にいたことはざらだったし、寝る時も先に一人で寝ることを強いられていたので、その古い日本家屋の天井の板の模様が人の顔に見えてきては、恐怖のあまり夏でも布団の中に頭も入れ込んで汗だくで過ごしていた記憶がある。

ここまで書いていて気づいたのだが、もしかすると、僕が怖いのは喪失ではないのかもしれない。それよりも、その結果としてひとりになることが怖いのではないだろうか?孤独になるのが怖いのではないか?大切なのは自分なのかもしれない。そう考えると随分と身勝手だし、そうであるならこの苦しみも当然の報いかもしれないなと思う。

変な話かもしれないが、それが自分を鍛えようと思ったきっかけである。これも村上春樹が書いていたのだが「心と体は繋がっている。心はダイレクトに強くすることは難しいが、体を強くすることならできなくはない。その結果として心を強化することも可能なのではないか」原文はどうだったか忘れてしまったが、大体そのようなことだったと思う。そう。結局のところ弱さについて語れば、強さにあこがれを抱いてしまう。人間の仕組みはこんなとき良心的に働いてくれたりするから捨てたものでもない。

そんなわけで、自分本位な人生がこのまま終わる前に鍛えることにした。明日から。

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