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閲覧録20230816-20230915

【閲覧録20230816-20230915】利尻島帰省滞在後、札幌に帰ってきたかと思ったら、同じく道北の天塩町に二泊三日の学術調査だ。どちらも、色々な意味で、見るところ考えるところの多い旅となった。大学院ラスト半年の開始。

利尻島行20230811-0819:16日(水)。雨になった。実家の向かいには、廃屋化しつつある田原家のクラ(漁師の作業場兼倉庫)。1955年竣工らしい。田原家の福井県からの本籍移転が1905年。移住50周年記念だったのか?なにしろ、北海道西海岸の下見板張り建築様式受容の極北。

20230816
前田愛『都市空間のなかの文学』(ちくま学芸文庫 1992/原本 筑摩書房 1982)了。p621、柳田国男『小さき者の声』に触れ、「柳田はまず「かごめかごめ」が、「籠の中の鳥」の文句から連想される「籠目」ではなく、「屈め」の意味だという。この言葉によって指示される低い姿勢、目をつぶるしぐさ、円陣をつくっている子どもたちから投げかけられる問いの型などを手がかりに、この遊びが古い信仰行事の模倣であることが導きだされる。(中略)円陣は人間の身体をひしひしと寄せ合い、霊力を内側の空間にこもらせることで、神がかりの入眠状態をつくりだす伝統的な習俗のひとつであった。」とな。

利尻島行20230811-0819:17日(木)。11:16、利尻町の高齢者共同生活施設にて。入居中の母親の月例検診に同行したあと、居室で介護ヘルパーさんに撮影してもらう。母は12月で満93歳。午後からは台風7号崩れの温帯低気圧の影響で大嵐。家が揺れたぜ。

20230817
『漱石全集 第十一巻』(岩波書店 1994)了。「明暗」(1917)。今回は再読で、初読時巻末(未完なので実は中盤だったりするのかも)の温泉場のうねうね建築感が印象に残っていたのだけれど、その普請は相変わらずうねうねしていた。すでに軽不倫なのだが、本不倫まで行く予定だったのかしら。ねえ。

利尻島行20230811-0819:18日(金)。色んな人と会って、直接会わない人も含め、色んな話をした一日。14:36、姫沼湖畔で、姫沼の村上さんに撮ってもらった写真。温帯低気圧一過、利尻も暑い。ありえねえ。

20230818
『柳田國男全集 第五巻』(筑摩書房 1998)。「蝸牛考」。p260「トゼンナ 是は新語の流通が、存外に足の早いものであつたことを示す例である。トゼンといふ語は徒然の音といふより外に、別の起源を想像し得ないのだが、」云々。『徒然草』は「つれづれ」。「「使ふによい」言葉でもあつた」ものか。

利尻島行20230811-0819:19日(金)。08:30、島を発つ。稚内から北海道日本海側を車で走って札幌に無事帰着。その途中、帰路は一人で運転なので、旧花田家番屋@道の駅おびら鰊番屋を、久々内部観覧。帰宅後はよれよれで、やはり年齢的に、300超キロを一人で走るのはきつくなっている感。

20230820
『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集Ⅰ-12』(河出書房新社 2008)。『アルトゥーロの島』。p62「仕事は役にも立たなければ、想像力を枯渇させる。いずれにせよ、もしも金が足りなくなってなにかの仕事をせざるを得ない場合には、できるだけ想像力を豊かにする職業を薦めるよ、たとえば運送屋とかな。」

20230821
『寺田寅彦全集 第九巻 随筆九 ローマ字の巻』(岩波書店 1997)了。関東大震災発生の翌月書かれた「事変の記憶」1923より、p246「著しい事変のある度に、それが、人間の風儀の悪くなったための天罰だと言って、自分ひとりが道徳家ででもあるような顔をしたがる人がある。これも昔から今まで変りはい。昔のそういう人の書いたものをよく見ると、人間というものは昔から全く同じことばかり繰り返しているものだという気がする。どうしてこういつまでも進歩しないものであろう。つまりは、”経験の記憶”というものが弱いためではあるまいか。言いかえれば広い意味での”学問”が足りないためではあるまいか。あるいは、それを知っていても、その日暮らしの料簡で、それに気を掛けないためだろうか。/いくら跳ね飛ばしても弾き飛ばしてもランプの灯に寄って来るカナブンブンと我々人間との違いは、ただ”記憶の時間の長さ”の違いに過ぎないのではないかという気もする。」。百年前の文章なのに。

20230822
永井荷風『荷風全集 第七巻 冷笑 紅茶の後』(岩波書店 1992)。「「冷笑」につきて」1910、p319「自分は日本の為政者が維新以来急進に新しい泰西の文明を輸入しながら、事実は果してかの米国の良民の如くに、能く個人の権能を尊び、神聖なる自治自由の精神を赤心から喜び迎ふるものなるや否やにつきても、多少の疑ひを持たざるを得ない場合すらある。(中略)日本は特別の日本であつて、米国ではない。正義でも不正義でも、そは論ずる処にあらず。唯だ従へ、唯だ伏せと云ふこの一語が、日本に生活する限り最も吾々の生命財産を安全ならしむる格言ではなからうか。」、一面の真実をつく荷風。

20230823
中岡哲郎他編『新 体系日本史 11 産業技術史』(山川出版社 2001)始。「総論 産業技術とその歴史」、p28「敗戦は第二の開国であったとよくいわれるが、産業と技術についてもあてはまる。江戸時代に準備された産業基盤と社会が、西からの工業化の波の刺激を受けて開始したのと同じ型の発展が、敗戦とアメリカを主体とする連合軍の占領の衝撃を受けてもう一度起きたのである。技術変化の基調は幕末と同じく、学習、移転、吸収である。ただ異なるのは変化を起こした産業基盤と社会が、幕末のそれではなく、昭和十年代に日本が到達し、二つの弱点をかかえたまま戦時生産を経験したあとの、産業基盤と社会であったことである。」。この本の刊行からすでに22年経っている。2001から2023、この間の産業技術の革新・伝播は質量ともに恐ろしい速度で進んでいて、さらには「日本史」の領域ですらなくなっていると思われる。産業技術史的なものが、歴史研究の世界でさらに重要になっているのかもしれない。

20230824
『志賀直哉全集 第四巻 暗夜行路』(岩波書店 1999)。「後篇 第三」からは京都が舞台。「京都滞在中の時任謙作はある日博物館に出向く 「観覧者としては謙作以外に一人の姿も見られなかった。」って それが国立博物館なら 今じゃそれはあり得ないよね」田原 20230824。往年の京都、見てみたいものだ。

20230828
『谷崎潤一郎全集 第10巻』(中央公論新社 2016)始。「アヹ・マリア」1923(震災前)、始。谷崎の映画論風、p40「私はいつもさう思つてゐる、映画と云ふものは人間が機械の力で作るやうになつた精巧な夢だと。人は最初に酒を作り、音楽を作り、詩を作り、そして最後に夢を作ることに成功したのだ。その機械が出来るまでは我々はただめいめいが、自分一人の夢を持つに過ぎなかつた。それが今では、その機械のおかげで多勢が一つ所に集まつて一つの夢を持つことが出来る。そこにあるものは此の世のものの影に過ぎず、さてその無数の影どもはそのまま見る人の頭に巣喰つて、そこで再び他のいろいろな影どもと交錯し、妄想の中で又新たなる夢を育む。何処までが映画の中の夢であり、何処までが自分自身の夢であるやら、その境界は遂にボンヤリしてわからなくなつてしまふ。」。からの米帝論風、p41「私はあれらの映画を見ると、つくづく亜米利加と云ふ国は現代の羅馬帝国だと思ふ。その国民は今や有頂天になつて歓楽の限りを尽してゐる。そしてあれらの眼の眩むやうな絢爛なフィルムは、その帝国の富の力が作り出す偉大な夢だ。」。からの(でもないか)女性論風、p78「ああ「女」!――それは私が生れた時から今日が日まで片時も止まず私を導いて来たところの、――いや恐らくは最後の息を引き取る日まで導いて行くであらうところの、たつた一つの光なのだ。」。開高1990『珠玉』の「だけど、この、セックスというやつ。こればかりは誰にでもある。いつもある。どこにもある。だから生きのびられたんじゃないか。」を思い返すなど。もうじき65歳の自分も、導かれ生きのびて「いく」のさ。

20230829
ハンナ・アレント/牧野雅彦訳『人間の条件』(講談社学術文庫 2023)。p165「記憶されなければ、そして実際に記憶するために必要な物への転化がなければ、生きた活動としての行為、言論、そして思考は、その過程が終わるとリアリティを失い、はじめから存在しなかったかのように消滅してしまうだろう。だから、ギリシア人は記憶にとどめることを、あらゆる芸術の母だと考えたのである。この世界にとどまり続けるために、これらの生きた活動は物化の過程をくぐり抜けなければならない。(中略)物化するには、他の人工の事物を建設するのと同じ仕事の技能が必要になるのである。」。現実的だ。

20230830
『家政論 今和次郎集 第6巻』(ドメス出版 1971)。「家政学への提言」1947、p92「余裕ある労力、あるいは整備して作り得る余剰労力を、昔の陰さんな内職意識ではなしに、堂々と明朗な心と態度で、やり得るかぎりの家庭生産を営むように計画づけなければと」。ハンナ・アレントと地続きな気もする。

20230831
『柳宗悦全集 第九巻 工藝文化』(筑摩書房 1980)。「どうしたら美しさが分るか」1937、p88「求める心が肝心であつて、凡てを素直に受け容れる用意をすれば、美しさの方から囁いてくれるでせう。ですから美しさへの最初の理解は受取状であつていいので、決して判決状のやうなものであつてはならないのです。」、p90「「美しさ」は知るよりも前に見ねばならないのです。知つて見るのは直観ではなく概念です。見る前に知らうとしたり、又知れば見えると思ふのは、そもそもの間違いなのです。」、p94「ものの美しさは見方の美しさの反映なのです。かかる意味で鑑賞は常に創作なのであります。」。

20230901
モンテーニュ・関根秀雄訳『随想録(二)』(新潮文庫 1954)了。「第二巻第六章 鍛錬について」、p597「わたしは絶えず自ら装う。絶えず自ら描くから。習慣は自己について語ることを悪いとする。そして執拗にこれを禁止する。自己を引合に出す場合につねにこれに伴いがちな自慢を忌み嫌つて。」、p598「わたしの職業(しょうばい)わたしの技術(せんもん)は生きることである。それをわたしが理解し・経験し・慣行する・ままに語ることを禁ずる者は、宜しく建築師に向つても、自己によらず隣人により、自己の研究によらず他人のそれによつて、建物について語るべく命ずるがよい。」。強烈だね。

20230902
『勝海舟(上) 子母澤寛全集 六』(講談社 1973)。「第二巻 咸臨丸渡米」、p314・315にはパンデミック源としてのコレラ病蔓延の叙述、「お寺の混雑も大変で、何処へ行っても山のように棺を積んで、野辺の送りをする群が殆ど昼夜のわかちがなく、今迄のところ死者凡そ二万八千人と云われている。」。

20230903
小川剛生『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017)了。四度目の読了で、やっとその内容を多少は理解できた気がしている。画期的な一冊であることを確信できた。「第六章 破天荒な家集、晩年の妄執」、p173「どうして和歌はこのような束縛を課したのか。前近代は異なる階層・地域の人とは絶望的にコミュニケーションが取れない社会であったことに答えがある。つまり個人的な経験や感動がそのまま理解評価されることはなかったということである。そもそも言語でさえ違い過ぎた。そこで古典文学の出番となる。江戸城で行き会った津軽侯と薩摩侯は、謡曲の言葉を借りて辛うじて会話できたとする俗説があるが、和歌に限らず文学の役割は、このような共有圏を創り出すことであろう。題材が定まり「本意」がある程度決まっている和歌だからこそ、より深く表現する面白さを体験でき、読者も作者の感動を理解できるし、第三者も巧拙を論ずることもできる。」。p185「こうした最低限の統一もとらず、明確な編纂の方針は何もないはずなのに、この家集を精読した人は、兼好の個性が一貫していることを感じ取り、排列上の変化の妙を述べることも事実である。これは徒然草の章段の排列方法とも重なることろである。方針は立てない、という宣言は実は逆説であって、周到な配慮のもと和歌が並べられているらしい(草稿本なので並べようとした、というべきか)。「兼好が優れたエディターであったことが痛感されてくる」(稲田利徳「「兼好自撰家集」覚え書」)とは至言である。」。「第七章 徒然草と「吉田兼好」」、p220‐221「本書で述べたことが認められるとすれば、兼好その人の生涯も十分に興味深いものであり、持てる能力を活かして、多方面に活動した人物であったと言える。/「遁世」もそのための方便に過ぎない。「遁世」とは、都市に住んで、十分な経済的基盤を確保し、戦争などの不測の事態にも生活は損なわれず、公武僧に幅広く交際し、新旧の権力者にも対応できる人脈を持つからこそ可能な生き方であった(持たないのは出自、帰属、肩書だけである)。それゆえの自省の言を徒然草に聞くべきである。(中略)新しいタイプの人間によって初めて生まれ出た文学であった。徒然草は「遁世」や「尚古思想」の実態に立脚して、新しい読み方を始めてよいのではないか。」

20230904
原武史『「線」の思考 鉄道と宗教と天皇と』(新潮文庫 2023 原本:新潮社 2020)了。あまりの面白さにほぼ一気読み。これからの自分の旅のお供にしたい本。いろいろ書きたい気もするが、そこは抑えて、また出たよ感の強い梅棹忠夫に関する記述を引用するにとりあえず留めておこう。「はじめに」8p「先行研究に当たるものはない。常に意識していたのは、民族学者の梅棹忠夫(一九二〇~二〇一〇)が一九五〇年代から六〇年代にかけて、やはり北海道から九州までの全国各地を訪ねながら書いた『日本探検』(講談社学術文庫、二〇一四年)の一節である。//なんにもしらないことはよいことだ。自分の足であるき、自分の目でみて、その経験から、自由にかんがえを発展させることができるからだ。知識は、あるきながらえられる。あるきながら本をよみ、よみながらかんがえ、かんがえながらあるく。これは、いちばんよい勉強の方法だと、わたしはかんがえている。//東大系の学者であればまず書けないこの一節は、道案内に当たるものがなく、行く手がどうなるかわからない暗闇を灯す一条の光となった。ただし本書の場合は、「あるきながら」というよりはむしろ「乗りながら」なのかもしれない。」。『日本探検』何度も読むもその一節覚えなし(泣)。「北海道独立論」強烈過ぎて、と言い訳。

20230905
『旧約聖書 Ⅶ イザヤ書』関根清三訳(岩波書店 1997)。とりあえず、巻末「解説」を先に読んでからの方が、本文も理解しやすいのかなあと今思っていますが、本文もすでに過半に目を通してしまっております。どうしたものか。梅棹さんならここで「なんにもしらないことはよいことだ」と言うのかもね。

20230906
『高倉新一郎著作集 第3巻 移民と拓殖[一]』(北海道出版企画センター、1996)。「北海道拓殖史」1947、途中。「第6章 北海道庁の拓殖」p198「従来最も人口の多かった日本海沿岸南部の人口は、沿岸漁業の不振に加うるに交通に見放されて、若干の背後地に恵まれた地点、小樽・岩内・留萌等が都市化した外は人口減少すら示し、ためにこれまで西南部に多かった人口増加は反対に東北部に著しく是を見るに至った。」。岩内はともかく、小樽や留萌は「日本海沿岸南部」に位置しないと思うが。内陸の交通が発展したのは間違いなかろうが、この時期海上交通が「見放され」たとも思えない。モヤるよね。

20230907
『宮本常一著作集 8 日本の子供たち・海をひらいた人びと』(未来社 1969)。「日本の子供たち」(原本:岩崎書店 1957)了。1958年離島僻地の漁村寒村に漁師の家に生まれて、小学生の頃には親の手伝いを、家族全員が当たり前のこととして、していた人間には「染みる」内容。貴重な記録だと考える。

20230908
筒井清忠編『昭和史講義【戦後篇】下』(ちくま新書、2020)始。自分の生きて来た時代が、歴史学者の研究対象射程内に入ってきたということか。長生きしたもんだ。牧野邦昭「石橋湛山内閣」・五百旗頭薫「安保改定」・駄場裕司「安保闘争と新左翼運動の形成」・城下賢一「岸内閣の内政と外交」まで了。

20230909
『吉田健一著作集 第八巻 日本の現代文學 頭の洗濯』(集英社 1979)始。「日本の現代文學」「森鷗外」、p16「歴史がない国民は幸福であると言はれてゐるが、歴史があつて、その歴史には更に特筆すべき事件が見られない程、高度に発達した文化を有する国民が最も幸福なのではないだらうか。」。見識。

20230910
『梅棹忠夫著作集 第7巻 日本研究』(中央公論社 1990)。「日本探検」了。中央公論社刊『日本探検』に収録されていない、「名神高速道路」「出雲大社」「空からの日本探検」「『日本探検』始末記」の各章を初読。今は、講談社学術文庫(2014年刊)に、上記分が収録されている。買って身近に置こう。

20230911
責任編集 荒川正晴・冨谷至『岩波講座 世界歴史 7 東アジアの展開 8~14世紀』(岩波書店 2022)始。全24巻・月一ランダム配本の講座を配本順に読み、第7回配本。今のところアジアの配本比重が多い印象。読んでも内容がよくわからない。自分も間違いなくアジア人なのだが激しく理解の外なのはなぜか。

20230912
『鶴見俊輔集 6 限界芸術論』(筑摩書房 1991)了。30年近く前に読んだきりの「太夫才蔵伝」(平凡社 1979)を再読。生方敏郎『明治大正見聞史』・柳田国男『明治大正史 世相篇』・宮本常一『忘れられた日本人』・梅棹忠夫『日本探検』などと同レベルで読まれるべき本ではないか、と。どうでしょ?p358「(みずからのあおりたてた)戦時の気分の高揚にまきこまれない理性は、日露戦争終結後の日本の指導層にはその後あらわれることがなかった。」、「ある時代の文化の特徴が、天皇の即位と死によって突然にある日をさかいとして変わるということはあるまい。すでにできあがった大国の枠のなかで平和と安逸をたのしむという姿勢は、日露戦争終了後から十五年戦争開始まで、明治三十九年(一九〇六年)から昭和六年(一九三一年)までの四半世紀にわたる日本文化の特徴となった。普通に大正的と呼ばれる特徴は、明治三十九年から昭和六年までの日本文化にあてはまる。そしてそのおなじ期間に、万歳は漫才に脱皮した。」。p397「秋田実が漫才形式の読み物を雑誌に発表するようになったのは、東大新人会の先輩、服部之総、その服部に紹介されたおなじ新人会の先輩大宅壮一の二人の口ぞえによるものだという。昭和のはじめに世界史の抽象的な法則理解によってたった新人会の主流に対して、服部之総と大宅壮一は、その外縁にあり具体的な状況に活動する具体的な人物をとらえることに関心をもつ人びとだった。秋田は、歴史家服部之総から人物評伝に示した批評の力、大宅壮一が世相診断に示した直観をうけついでいる。」。当然、小沢昭一の仕事にも触れられている(第十三章 万歳の要素)。

20230913
司馬遼太郎『街道をゆく 8 熊野・古座街道、種子島みちほか』(2008 朝日文庫、原本1977)始。「熊野・古座街道」「豊後・日田街道」了。後者には中谷宇吉郎の甥中谷健太郎氏登場。司馬の宇吉郎論など期待するも特別な言及なし。こちらも初読時には宇吉郎ほぼ未読のため、今回初めて健太郎氏を認識。



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