『「いき」の構造』/九鬼周造
先日読書会で『「いき」の構造』を読みました。
持ち回りでレジュメ作成担当者が変わるのですが、
こちらの本は私の担当でした。
開いてみて一抹の不安。
「これ、まとめられんのか?」
一週間ほど熱烈な片思いよろしく九鬼周造のことを考え続けましたよね。
ギリギリ提出を終え、無事読書会を迎えることができホッと一息。
メンバーの読みや考えがとても面白く楽しかったので、拙考とともに、
上手ではないですがアウトプットを兼ねて書いてみます。
まず『「いき」の構造』の構成(目次)は次の通りです。
もうこの目次の美しさすらある字数合わせに九鬼さんの性格が読み取れるような気さえします。
多分何度も紙に書きつけては丸めて捨てているはずです。
彼はそもそもが確固たる美学を持った人なのでしょう。
正直本の中盤で本当に構造を図に起こしている様子にさしかかった時、
「わー変態だなぁ!」と思いました。
父は男爵、母は芸者。
まるで出来すぎた少女漫画のキャラような生い立ちです。
そんな家庭でたんまりと素晴らしい伝統や芸事に触れ、ヨーロッパに留学した九鬼は、
「ヨーロッパの女、粋じゃなくね?」
と考えるわけです。そらもうけしからんと。
直接的すぎる、あけすけな西洋女性の振る舞い、
そしてドストレートに愛を交わす男女関係に物申したのがこの本なのです。
(あくまで九鬼さんの感想です)
まず言語は、民族特有の文化やその民族としての生活の中で体験した様々なものをバックボーンに持つ、と言うところからスタートします。
そして「いき」と言うコトバの構造を分析していき、
「いき」は基礎となる「媚態」が「意気地」と「諦め」によって研磨されていったものとします。
(と定義することにしました。)
そして似た意味や違う意味を持つ言葉を集めてきて比べてみたり、
対応関係を考えてみたりした後、
「いき」を表現した振る舞い
「いき」を体現した芸術
をもって更に、社会の中において観測できる事象を通しての理解を試みます。
しかし本の冒頭で述べた通り、
「体験」を含んだものである以上実際に体験しなければ会得できないのだと
結論づけました。
「いき」についてのトリセツで理解のきっかけを作った自分の行いには意義があるとしますが、やはりそう簡単には「いき」は会得できないもののようです。
ここで九鬼の、失われつつある日本の"古き良き"文化(具体的には江戸化政文化を指しているようですが)の行く末についての懸念が見えてきます。
体験を通してしか会得できない感性は、その体験自体を失いつつある日本で
生き残っていけるのだろうか、と。
ここについて読書会で出た意見として面白かったのはコチラ。
・「そもそも一民族の範囲・定義とは。」
・「九鬼さんが「いき」とする文化が限定的すぎる。」
・「言葉もその時代時代に合わせて淘汰されていくものなのかもしれない」
なるほどなぁと思わされたのは、
「"売るため"と言う意図によって言葉と体験の関係が変わってしまっており、形骸化したいわゆる"体験の抜け落ちたコトバ"が多くある現状だと思う」と言うものでした。
確かに自らを振り返ってみても「ある言葉」を、理解を通した自分の言葉として使うって難しいです。
ただ「エモい」に関して言えば「いき」と同様、
言葉によってはっきりさせられる感情と感情の隙間、
匂いや体験を感じさせる感覚を顕著に表す言葉かもしれないなぁと思ったり。
とはいえ日本人として生まれ、日本に住む中で、
「お味噌汁が美味しい」
「やっぱり米がいい」
みたいにまさにDNAに刻まれたとしか言いようのない民族特有の感覚があることは、外界の状況や条件が変わっても否定できないところだと話し合ったのでした。
最後に稚拙ではありますが『「いき」の構造』を要約してみたものを貼っておきますので、もしご興味があればご覧ください〜(・∀・)
参考文献:『「いきの構造」を読む』(ちくま学芸文庫)、『九鬼周造』(講談社学術文庫)、松岡正剛の千夜千冊「689夜いきの構造」(webページ)
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