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とりとめのないこと2021/10/31

あらすじ

選挙のついでに本屋へ寄ったときのことと、Instagramでフォローさせて頂いている、そめかわさん( @some_acoustic_1729 )からハーディ=ラマヌジャン数1729のインスピレーションを貰ったときのことをセントオブウーマンを観ながら散文にしました💫

テーマ


ラマヌジャン
カフカ 審判
サルトル
フォークナー アブサロムアブサロム
セントオブウーマン

縦書き版


カクヨムにて。


横書き版

拘束帯
気付いたら世界が白かった。
手足をベッドに縛られて身動きが取れない。
けれども、音楽は許されていた。
激しく身悶えて、愛するひとの温もりを探した。
そんなものは、どこにもなく、眠る老婆のいびきが4人部屋に響き渡る。
オリオン座が頭上に輝く夜、中庭の老木に歩んできた軌跡を見る。
ーソルボンス大学名誉教授妄想&日記文学者 エーリッヒ・ひろムの日記より引用
彼の有名なこの詩『拘束帯』は、ひろムが夜中にメーカーズマークをひと瓶空けて酔った時に、思春期外来へ連れて行かれた17歳の神戸の夜を思い出して、書かれたものらしい。翌日の彼の日記「とりとめもないこと20XX/11/05」に、そう書き残されている。

今や妄想学の重鎮とも言われるひろム教授はポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアの真似をしていくつかのペンネームを使い分けていたようだ。
もっとも、ひろム教授の場合の使い分けは、ペソアのように明確な方針などなく、気分によるほとんど思いつきのようなものだった。
翻訳者 卍丸
発行2021/10/31初刷
ガリマーロ出版

エーリッヒ・ひろムの詩集を適当にパラパラとめくり、訳者のあとがきを読みながら、「何これ…あほらし…」と気付いたら俺は独り言を言っていた。

妻のシモーヌ仮称と下院選の投票をし終えて、シモーヌが駅前の東急で果物を少し買ったり、歯磨き粉を買いたいと言った為、俺は彼女が用事を済ませる間、駅前の東急近くの本屋で時間を潰すことにした。
平積みされたエーリッヒ・ひろムの最新刊をギター弾きが手に取るところをぼんやりと眺めていたら、俺の視線に気付き、「この本、1729円(税込)なんです。一見すると意味のない数ですね」と不思議なことを言い残し、本を元の位置に戻して立ち去った。どこかで見たことのある顔立ちだったが思い出せずにいた。G SHOCKに目をやると偶然にも時刻は17時29分だった。
1729、どことなく宇宙的な広がりを予感させる数字だ。

20世紀初頭、英国ケンブリッジ大学のハーディが支援していたのちに天才数学者と言われる若くして亡くなったラマヌジャンを見舞いに行った際、「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない数字だったよ」と、言った。
すると、ラマヌジャンは
「2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です」
と答えた。

1729 = 1^3+12^3=10^3+9^3

2つの正の立方数の和2通りで表せる最小の数(ハーディ=ラマヌジャン数)である。

ひろムの本の価格と時間が偶然にも一致していた。何となく気になった。こうして、俺はうっかりエーリッヒ・ひろムの詩集を手に取ってしまったのだった。

「ごめん、サルトル仮称、お待たせ。何読んでたの?」不意にシモーヌの声がした。
「そんな待っとらんけど、今何時やろ」とG-SHOCKを見ると18時10分04秒となっている。
17時29分の41分04秒後だ。ハーディ=ラマヌジャン数の1729の次の数は4104だ。
偶然にしては出来すぎた状況に俺は眩暈を覚え、気が動転してしまった。
「シモーヌちゃん、ほんまにヤバいんかもしれん。今こそ英雄が求められとるんかも」
「大丈夫?とりあえず遅くなるとフィリピンママもリサ仮称の面倒見てくれてて大変だし、本もういい?」
「いや、俺、ひろムの詩集買うからちょっと待っとって」
「その人のへんちくりんな本、また買うの?」とシモーヌは、かなり不満そうなトーンで本の表紙を見つめながら聞いてきた。俺は何とか買う正当な理由を見つけるために、軽い偏頭痛を覚えながらも、シモーヌに真剣な表情でこう言った。
「いいか、わがシモーヌよ、よく聞いて欲しい。人々はこの沈黙を愚かな饒舌で満たしているのだ。指導者たちはきっとこう考えているに違いない、《要するに、イデオロギーはどうでもいいではないか。われわれの古い唯物論は今まで証明されてきたし、必ずやわれわれを勝利にまで導くにちがいない。われわれの闘争は観念の上の争いではない。それは政治的社会的な闘争、人間対人間の闘争なのだ》と。今のところ、近い将来のところは、彼らは正しいにちがいない。しかし将来彼らはいかなる人間を作るであろうか。彼らは誤謬の成功を教えて次の世代を形成することによって罰を受けずにはいないであろう。もしも唯物論が革命的企図を圧し潰すならば、どうなるであろうか※1」
「どうなるであろうかって、どうもならないから、大体、政治的な話をしないのが社会人のマナーみたいな風潮なのに、大声でそんな話しないで。まあ、はやくレジ終わらせて帰ろうよ」
シモーヌのつやつやした透明な灰緑の瞳の中の俺に向かって、かなり、きっぱりと、こう続けた。
「どうにもならないってのは、傍観者の言い訳でしかないわけよ。ひろムの詩集は確かに論理的に破綻しているし、文体も何もかもがおかしいかもしれない。けれども、彼は散文家としての自分の思想と主義に忠実で、社会に対して積極的に参加し、小さな彼なりの責務を果たそうとしてもがいたひとでもあったんよね。けっして傍観者ではなかったひと、ということ。だからこそ彼の詩集を買おうとしとるわけやけども。今日の下院選挙で、結局はまた一党独裁が続くかもしれん。1955年から長期にわたり一党独裁のような政権を維持するこの国の政権に傍観して従順であるように躾けられた俺ら市民。この国の市民たちの選ぶ指導者たちは1946年のサルトルの指摘にある指導者らと変わらないということなのだろうか?あるいは、市民たち自ら、選ぶ自由の責任をいつの頃からか放棄しはじめたのだろうか?よく躾けられた犬のように?」
「ええ、犬のように」

夢は記憶の残骸でしかないって誰かが言ってたのを思い出した。

「That is the substance of remembering—sense, sight, smell: the muscles with which we see and hear and feel—not mind, not thought: there is no such thing as memory: the brain recalls just what the muscles grope for: no more, no less: and its resultant sum is usually incorrect and false and worthy only of the name of dream.—」

—『Absalom, Absalom!』William Faulkner

こうして、俺とシモーヌは少し冷たい10月最後の日、ポル・ウナ・カベサを口ずさんでタンゴを踊り狂いながら獅子座へと帰るのであった。

※1 『唯物論と革命』J.P.サルトル

セントオブウーマンの名場面

映画セントオブウーマン最後の有名なアルパチーノ扮するフランクの名演説

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