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アウステルリッツ

ベルギー、イギリス、チェコ、フランスへと旅をしながら思索的に蜃気楼のような個の記憶の断片を少しだけ古い建築様式にしたがって紡いでゆく。
それはゆるやかな歴史へのアプローチ。

ゼーバルトとタブッキは思索的な蜃気楼の中の記憶の断片の旅という点で共通する。

ゼーバルトはノーベル文学賞候補にも上がっていたかも知れないが、2001年に自動車事故にてアウステルリッツを刊行した年に59歳で亡くなった。

生涯一貫して、ユダヤ人へのジェノサイドを加害者と被害者の視点で押し付けがましくなく描き出そうとした姿勢が伺える。

忘却の闇に消えてゆく大半の人の心の移ろいや存在。

それらを忘れることなく残しておくべきであるとゼーバルトは批判しているかのようにも思えた。

今くっきりと脳裡に灼きついているのは、一匹の洗い熊の姿だけだ。私はその洗い熊を長いあいだ見つめていた。真剣な面持ちで小さな川のほとりにうずくまり、くり返しくり返し一切れの林檎を洗う。そうやって常軌を逸して一心に洗いつづけることで、いわばおのれの意志とは無関係に引きずりこまれた、このファルシュ(まやかしの間違った世界)から逃げ出せるとでも思っているかのようだった。
『アウステルリッツ』G.W.ゼーバルト 鈴木仁子訳 白水社 p4


アウステルリッツの思索的な忘れられた記憶の建築を眺めるような語りによって深い没入感を得る寸前に、語り手の「私」が現実に引き寄せようとする。その断片の連続。

ゼーバルトは敬愛するベルンハルトの文体にならって書いているらしい。
しかし、「〜と、アウステルリッツは語る」と記憶を辿り続ける「私」に対するゼーバルトのエクリチュールに、僕はタブッキの「供述によるとペレイラは……」を想い起こされた。

ゼーバルトにはガルシアマルケスやタブッキに出会ったときの感覚に近いものを受ける。

サティのサラバンドを聴きながら記憶の海へ旅し、遠くの──今も極めて残酷な不条理に抗う人びとのことを思い、胸が苦しい。

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