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ケーブル・チェスト・フライの煩悩

LE MONDE EST FAIT POUR ABOUTIR A UN BEAU LIVRE.
世界は一冊の美しい書物に近付くべく出来ている
マラルメ

腐りかけたような茶色と薄紅色の花びらをわざと踏みながら久しぶりにジムへと歩いていた。

邪念やとるにたらぬことで頭を膨らませ胸を暗くする───トレーニングをするひとがすべてポジティブなわけではない。僕はとても悲観的な人間である。

ジムまではわざと遠回りして路地裏を歩く。観光客たちに遭遇することも少ない。悲観的な僕は観光客が苦手なのだ。歩きながら僕は前回の散文でも触れたgenderジェンダーという言葉について考えていた。

gender
社会や文化によって作られる性差、男らしさや女らしさのことである。
たとえば、家事育児は女性が中心になって行うものであり、家計の主なる財政は男性が中心となって稼ぐもの……など。
これに対して、生物学的性差がsexにあたる。
諸外国では家事や子どもを産み育てるのが女性の役割で読み書きは後回し、学校に行く必要はない、児童婚やFGM女性性器切除など社会的に権利を抑圧されたり奪われたりしてもいる。
こうした女性に対する差別を無くそうというのがSDGsのジェンダー平等の目指すものでもあるだろう。

こうした流れは生物学的性差によらずひととして当たり前に尊重されるべきことでもある。
差別に繋がる「らしさ」というのが生物学的性差のsexに一枚ラップした形で生まれた比較的新しい言葉がgenderなのだろうか。
wikipediaでは、20世紀初頭にラテン語とフランス語のミックスで使われるようになり、1970年代に入って社会科学分野で使われるようになり始めたようだ。しかしながら現代におけるまで時代によってその意味が変わっているのは周知のとおりだろう。

社会風潮が変われば社会科学的分野から本格的活用スタートしたこのgenderの意味が変化するのは何となくわかる気がする。

何かと個人主義であったり個性が主張される割に均一化したがる風潮がこうした言葉の背景に透けて見えてくる気がするのは、僕が捻くれているのだろうか?

とりとめもなく考えながら20分前後、駅と自宅とをぐるぐると回っているだけのようなコースで歩いていた。歩くのに飽きて、国道側に面した二階建ての灰色のコンクリート造の建物に入る。

ダンベルやベンチなど場所を取らない器具は既に友人と折半して自宅の作業場にある。けれど、僕らはまだケーブル・マシンを導入していなかった。

これを購入したい。作業場には流石に置けないから自宅に入れるしかないし、これを置いたらおそらく妻の逆鱗に触れるのは間違いない。
だからたまにケーブルフライ系をラストに入れたいとき、ジムに行く。

ダンベルでいいじゃないかと思われるだろうしその通りなのかもしれないけれど、器具を変えて気分転換も必要なのだ。

久しぶりに淡々とメニューをこなしているとgenderについて考えていたことすら忘れた。

ラストにケーブルチェストフライ。
ワンセット15reps 20kgを3セット。胸をぐわあああああっと張ってしっかりと大胸筋のラインを丁寧に作り込んでいく。

終わって、そろそろ帰るか、と思いながら少し更衣室でぼんやりしていた。誰もいない空間で鏡に向かって、いつも通り自撮りをするために、最高の笑顔のつもりでにやにやしながらポージングする。すると、どこからかメロディーが流れてきた。誰もいないというのはただの思い違いで、別のトレーニーがエンリケ・イグレシアスのSubeme la radioを鼻歌混じりにこちらに向いてポージングしていた。

あまりジロジロ見ては失礼だと思いながらも癖で見てしまう。とくに大胸筋周りに目が行くのだ。
しかも懐かしいスペイン語で鼻歌とあれば見ない理由がない。
僕よりひとまわりくらい向こうのほうが小さいのを確認して内心、ドヤ顔しながら、胸をわざわざ張って、軽く会釈した。

「まだ初めて間もないんです?」と僕がいやらしい質問をする。
「ええ、まあ、そうですね。半年くらいです」と男は答えた。
ガラス窓の向こう側に七里ヶ浜の海が広がっている。
「失礼ですが、スペイン出身ですか?」と僕が聞くと
「そうです。育ったのはバルセロナだし、今はポルトガルのリスボンに住んでます。でも生まれは日本ですよ」と男は答えた。
「R. Coelho da Rocha 18, 1250-088 に?」
「ええ、そうです。ここはペソア記念館です」と男は真面目な表情で答えた。
「じゃあ、あなたの名前はスズキヒロだ。ペソアとは似ても似つかないセンスですが、詩人になりたいと最近ずっと思ってませんか?僕もスズキヒロですけれど」
そう僕が言い切ると、男は線の細そうな目の奥をキラリとさせながらこう答えた。
「いいえ、僕はペソアなんて名前しか知らないし、詩だってロルカが好きなんです。あとはランボーとかマラルメとか、リルケとか」
「いや、あなたはペソアが好きなはずです。だってタブッキもお好きでしょう?」
「ええ、まあそうですが。細い道路を挟んで向かいの建物を窓から見ていると、今日も観光客しか歩いていない。タブッキだって、ここでは旅人に近かったでしょうに」
「観光客だらけなのはここも同じです。海がすぐそばにあるだけマシですが。彼らはこの隣の店でよく二千円から三千円ほどの朝食を食べていたりもします。朝食に三千円ですよ?信じられますか?」
「旅人というのは、そもそも日常という現実から逃避してきたひとたちですから、あり得るでしょうね。僕だって旅人になってそちらに行きたいですから。僕にとってもその金額が朝食にしては大金であることにかわりはありませんけれどね」

男の背後のガラス窓には青空が広がっていた。
僕は今の桜の散り方が早すぎること、ジェンダーという響きについて違和感があることを捲し立てた。そのあいだじゅう、男はつまらなそうな顔をしていた。28歳と20歳かそこらでは感覚がこうも違うのか、と内心不思議な感覚を覚えた。

「僕だって旅は好きですよ。できればリスボンにも行きたい。今すぐにでも行きたいくらいです。それに旅先での出逢いが僕は好きなんです。人生そのものを感じたりもできるでしょうし、特に偶然の連続を感じとりたい」
話題を変えるために僕は旅について語り始めた。すると男はより一層つまらなそうな表情を作りながら、少し考えているふうでもあった。
「のっぺりとした日常はリスボンだって同じですよ。ただ、今の時期でも既に日中の最高気温は24度くらいありますし、青が突き抜けてます」
「青が突き抜けるって空ですか?」
「ええ、そうです」
「僕は寒いのが苦手だから、とても魅力的に思えてなりませんね。妻がよく言うんです。真夏の南ヨーロッパかモロッコで干からびたミミズのようになりたい、と」
「はは。あなたの奥さんは詩的ですね」
「僕なんかより彼女は詩的センスがあるんです。あなたはまだあの女の子とは付き合ってるんですよね?」
僕は「もうすぐフラれるはずですが」と付け加えるのを我慢して聞いてみた。
「ええ。忙しくてあまり会っていませんけれどね」
「忙しいって理由は筋トレではないでしょう?」
「そんな勝手に決めつけないでくださいよ。僕はまだ筋トレを継続するべきかどうか迷っているんですから」
「いや、あなたが筋トレを継続していれば僕だって、今ごろもっと大胸筋がむちむちしていたはずなんです。筋トレこそ正しい。それにリスボンで筋トレなんて最高に決まってるじゃないですか」
「待ってください。最もひとが残酷になる瞬間ですよ、いまのあなたは」
と男は少し興奮気味に言い、左腕にグッと力を入れながら
「いいですか?《私が正しいと確信した瞬間》というのは、最もひとが残酷になっている瞬間であることを歴史が証明してるんです。ヒトラーだってムッソリーニだって、サラザールにしろフランコにしろ、あらゆるファシストたちが証明しているじゃないですか。だから僕が今筋トレを継続することが正しいかどうかなんてのは、あなたの勝手な願望でしかないかもしれないのに、決めつけてはいけません」
とピシャリと言ってきた。
僕はまるで銀河英雄伝説のヤン・ウェンリーだな、と思いながら、そろそろ帰ることを告げて、来週もまたこの時間に会うことを固く約束した。

今どき男らしくなんて流行らない。
第一に僕は男らしくなりたくて筋肉トレーニングをしているわけではないのだ。
八年ほど前に興味を持ったのは確かだ。
けれどすぐに辞めてしまった。
そのあと数年して、三、四年前から腰痛で悩んで、「体幹を鍛えると違う」だとか友人にそそのかされて始めたらどうにかこうにか続いてしまっている。
それに僕はトレーニングをすることで煩悩に陥りすぎたり悲観的になりすぎないように望み薄な期待もしている───スポーツ・タオルを肩に引っかけて、ドロドロの舞い落ちた花びらたちを来た時と同じように踏みしめながら、また路地裏を何周かして、家───あるいはペソア記念館に住む僕の世界───へと帰ったのであった。

ケーブル・チェスト・フライの煩悩、それはボルヘスたちへのオマージュ。

数ヶ月ぶりのジム。


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