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たのしい川べ

『たのしい川べ』です。たのしい、はひらがな、川べ、も川辺じゃなくて川べ。多分、本屋さんで万が一目にしても、いい歳をした大人ならまず手に取らないでしょう。逆に、「あっ、『たのしい川べ』っていう本が売ってる。面白そうだぞ。買って読んでみるか!」なんていうアラフォーサラリーマンとかいたら、ちょっと怖いです。原題は頭韻が美しい、”The Wind in the Willows”。『柳に吹く風』といったところでしょうか。

が、これ、生涯ベスト級の名作なのです。読まないのは本当にもったいない。

あらすじは、『人里はなれた静かな川べで素朴な生活を楽しむネズミやモグラたち。わがままで好奇心旺盛なヒキガエル。小さな動物たちがくりひろげるほほえましい事件の数々を、詩情ゆたかに描いた田園ファンタジーの名作』と背表紙から。が、これを読んでもまだ、読みたいなと思う方は少ないのでは。

基本的には、動物たちが川遊びをしたり、ピクニックをしたり、ドライブに出掛けたりなんてエピソードがゆるく続いていくのですが、ちょくちょく挟み込まれる言葉が響く。

ほかのものたちがいそがしく働いているのに、じぶんだけ、のらくらしているのは、なんてたのしいことだろうと思われるばかりでした。けっきょく、わたしたちのお休みの、いちばんたのしいところは、じぶんが、ゆっくり休むということよりも、ほかのひとたちがみな、いそがしく働いているのを見ることなのかもしれません。

登場人物、というか、登場動物たちのキャラクターも深い。主人公のもぐらはピュアで優しい心の持ち主なのだけど、それを手放しに賞賛することはなく、むしろ無知さやナイーブさの裏返しであることが、ことある度に示唆される。しかも自分探しをしている人間特有の図々しさというか、弱さを肯定して他人を責めてしまうような場面もきっちり描いているからすごい。また『伝染るんです』のカッパ君的というか、何かにつけてイケメンで、やさしくかっこいいネズミ(暇な時間は短い詩を書いてます)も心の闇というか、ニヒリズム的な絶望を垣間見せる瞬間があるし、物知りで賢いアナグマも理想的なキャラにもできたはずなのに極端に厭世的で、色々面倒臭い。そして、ヒキガエルは大金持ちの三世目。とにかくうぬぼれが強く、わがままで、自慢屋なのだけど、同時にものすごく気が良いヤツで、情に厚く、利他的なところがあったりする。よくこういうボンボンっていますよね。

そもそも、この物語は作者のケネス・グレーアムが自身の子供のために即興で作ったベッドタイムストーリーが元になったもの。四歳で母を亡くしてから、まるでフィクションのように悲惨な人生を送ったグレーアムだからこそ生み出せたのであろう、ただかわいい動物たちが面白おかしく戯れるような物語とは一線を画した、人生を生き抜くための知恵や洞察力に満ちた物語がそこにある。が、それをまるで押し付けがましいこともなく、ただただ美しく楽しく展開するエピソードの中で表現しているからスゴイ。この作品には稀有な美しさがあるけれど、それはグレーアムのまばゆく輝くように美しい筆致だけではなく、親の愛(それは作中のパンの神が動物たちに与える愛と重なるような気がします)がやさしく満ち溢れているからかもしれません。

私の本書の楽しみ方は、とここまでああでもないこでもないと書いてアレですが、ひたすら美しい情景描写に没頭し、動物たちとのゆるい冒険に脳内トリップすること。

『日の出まえ一時間ばかり、水面にたちこめた霧もまだちりきらない、しずかにすみきった、あの夏の朝々のことを(中略)、朝早く、水にとびこんだときの、ぶるっとするあの感じ、川べの散歩。そして、日の出とともに、大地も空も水も、にわかにかがやきだすあの変化。灰色は金色に変わり、大地からはふたたび色がながれだすのです。暑いまひるには、下ばえの緑につつまれて、小さな金色のすじやまだらになってさしこむ日光をうけながら、よく、だるい昼寝をしたものでした。午後の舟あそびや水あび、ほこりっぽいうら道や黄いろく色づいたむぎ畑の散歩。そしてとうとう長い涼しい夜がくると、いろいろ一日のできごとを思いあわせたり、おおぜいの友達がつどいあったり、いろいろなあすの計画をたてたりしました。』

お子さんがいる方はいますぐ買って読んであげて欲しいし、いない方も、自分のために買って読んであげて欲しいです。忙しい毎日からは逃げ出せないけれど、心はいつだって私たちのもの。喜びを悩みに変えぬよう、本当に大切なものを見失わないでいられるように。

(文:今泉渚)

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