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学校を休んだ先生が休みの間に読んだ本の話・後編

こんにちは、ミウラです。
先日お伝えしたように潰瘍性大腸炎という病気になった私は、2ヶ月ほど仕事をお休みしておりました。

その他にも、いろいろな事情が重なり、しばらくPodcatの更新は止まりそうです。
ですので、今回は、そんな私が休み中に読んでみた本を記事にまとめてみます。

他にも読んだ本はあるのですが、こんな方の役に立つような本をご紹介します。
・学校の先生でモヤモヤしている人
・休職中の教員
・仕事や人とのコミュニケーションに疲れている人
・言語教育に関わる人
ちょっとでも参考にしていただけると嬉しいです。

前編はこちら。

探究を学びたい『子どもの誇りに灯をともす』

皆さんは、ハイテク・ハイ(High Tech High)をご存知だろうか?

近年、日本でも注目が集まっている課題解決型学習(Project Based Learning、以下PBL)。その先駆者として、世界中から見学者が押し寄せるのが、カリフォルニア州サンディエゴにある「High Tech High」(ハイテク・ハイ、以下HTH)である。
https://globe.asahi.com/article/12076800

この課題解決型学習を根幹に置いた学校の教育思想に影響を与えたのが、ロン・バーガー氏による『子どもの誇りに灯をともす』だ。原題は『An  Ethic of Excellence』
ただ作品を作るのではなく、「美しい作品」を、「エクセレンス」を求める学びのあり方、学校文化のあり方が語られる。子どもたちは、作品を作る過程を通して、自分の可能性を感じ、自尊心を得ていくのだ。
この本では、大工としても働いているバーガー氏による田舎町の公立学校での実践、アドバイザーとして関わった都市部の学校、学会での話し合い、ありとあらゆる経験がまとめられている。
生徒達の批評の文化についても触れられている。(以前このPodcastでは、『ピア・フィードバック』を紹介した。よろしければ、こちらも聴いていただきたい。)

果たして、この実践が学校でできるのか? 生徒達が小屋を作ったり、それぞれの作品を大人にプレゼンしたりなんて、「うちの学校でもできるの?」という問いが教員なら浮かぶかもしれない。
しかし、忘れてはならないのは、教員の深刻な成り手不足にあえぎ、市場経済の論理に巻き込まれたアメリカの教育現場の厳しい現実から、バーガー氏の「エクセレンスの文化に根ざした教育」は生まれたこと。
世界的に注目されている実践に影響を与えた実践をしているのだから、さぞかしキラキラしているだろうという予想は裏切られる。
筆者の誠実で謙虚な姿勢が、この本全体にも流れているのだ。

私の考えが他の人の声を代弁しているというつもりはなく、本書のアイデアはあくまで個人的な視点です。でも、私の視点が建築事務所ではなく、建築現場からの声であることは確かです。(略)教師であれば誰でも知っていることですが、テストや学習基準やカリキュラムを義務付けても、子どもたちから学びたいという気持ちを引き出すことができなければ、それらは何の意味も持たないのです。
「はじめに」より

この本のもう一つの側面は、バーガー氏の教員としての「働き方」も描かれていることだ。
これだけの情熱を持ったバーガー氏も、休職したことが2度あるという。大工の仕事に専念した1年と、大学院に行ったときだ。
伝説的な教師といえども、教員の厳しい労働環境の中で疲弊してしまったことをバーガー氏は認める。(作中では、20年前の話にはなってしまうが、日本の教員文化とアメリカの教員文化の違いも語られ、バーガー氏は日本の教員育成文化、教員が尊敬されている社会を誉めている。)
その中でも、大工の仕事をフルタイムでした1年を通してこのように思ったという。

その年、私は「教えるというのは大変なことなのだ」と思いました。説明し尽くせないくらい大変なことなのです。継続して成果を出し続けるためには、独特の体力を必要とします。休職して一息ついてみると、自分がそれまでどれだけ速く走っていたのかということに初めて気がつきました。(略)つまり、教えることが天職だと感じていなければ、続けるのは難しい仕事だと思います。教えることが自分の使命であり、自分の力が最大限に発揮され、世界に貢献できる方法だと感じている必要があります。
第4章より(太字:筆者)

世界に注目されるような実践も、魔法ではない。そこには、人生に悩む一個人がいる。それは、生徒も教師も含まれている。
厳しい現実の中の実践と、その教育を支える倫理。具体と抽象を行き来しながら、前に進むことへの希望を抱かせてくれる一冊だ。

言葉について考えたい『校正のこころ』

さて、こうやって書いているうちに長くなってしまった。
今や、誰でも文章を発信できる時代になった。
そんな時代だからこそ、「言葉」のことを誰しもが向き合わなくてはいけない時代かもしれない。

1月、NHKのプロフェッショナルを観た。
校正者・大西寿男さんが取り上げられていた。
原稿に書かれた言葉に真剣に向き合う姿は、まさに「エクセレンスの倫理」を持った態度であろう。
自宅兼職場で、黙々と作業するそのプロフェッショナルの姿は、私の心に刻まれた。
そこで読み始めたのが、著書のひとつ、『校正のこころ』だった。

言葉と本をめぐる世界が大きく変化しています。
二〇世紀のおわりからわずか四半世紀のうちに、私たちの読む・書くは、紙をめくったり、ペンを走らせたりすることから、画面をスクロールさせたり、キーをタッチしたりすることに変わりました。(略)
この間、私たちはまた大きな真実にも気づきました。それは、言葉は人を救うこともできるけれど、ときに命を奪う暴力にもなりうるという真実です。本やメディアの大きな声だけではなく、私たち一人ひとり、個人の言葉もそこから逃れることはできません。
「はじめに」より(太字:筆者)

簡単に傷つけてしまう言葉があふれ、一方で、ありとあらゆる人が手を差し伸べるために言葉を生み出すことができるようになった時代。
本の校正という文脈におさまらない「言葉」の世界の変化が、この本では語られている。時にはメディア論のような視点から、スピリチュアルとも言われるような達観した視点まで。
そのような中で、大西氏は、校正者が取る態度が副題にも入っている「積極的受け身」だと語る。

校正者が受け身の立ち場に徹するとは、このように編集者を介して、ゲラの言葉と一対一の信頼関係を築くのに不可欠な条件を指しているのです。単なる受動ではなく、校正者が積極的に主体をもって受け身となって言葉に寄り添い(ゲラの言葉にとってどうなのかということだけをつきつめ、言葉の自律性を尊重し、支え、援助する)、受け身であることを言葉の理解のために、よろこびとも武器ともする、という意味で、私はこれを「積極的受け身」(active passive)の態度と呼びたいと思います。
第5章より(太字:筆者)

誰かに何かを伝えたいという飛び出しそうな言葉を見守り、支える。言葉に対する傾聴。そして、発信する主体である筆者、編集者の思いが、受け手である読者の元にようやく届けられる。その時にどんな言葉が差し出されるべきなのか、考え尽くすのが、校正者の役割なのだろう。

言葉にすることは、他者に伝えようとする思いを常にはらんでいる。
それを伝えるための手段として、その言葉は本当に「正しい」のだろうか。
言葉を伝える力も失うほど不安に襲われたとき、人はどう回復すべきなのだろうか。
言葉に向き合うほどに恐ろしくなる。
それでも、言葉にするのはやめられない。言葉は常に「成就しよう」としている。

病気の症状が重かった時、あるいは疲れ切ってしまった時、言葉が空っぽになるような感覚に襲われる。
ああ、もう二度と書けないかもしれない。
もう二度と言葉はあふれないかもしれない。
そんな不安の中にいた私も、気づけば、こうやって言葉の世界に戻って来れている。
それはまさしく「成就したい」という言葉の力が、私の内側から、語り手から受け手の元へ、飛び出そうとしているからだ。

そう考えると、たった一人で言葉を紡ぐことを考えるより、誰かに頼りながら(本の著者の場合は、編集者や校正者の力を借りながら)、自分の言葉を選んでいくことも必要な言葉のあり方だ。
当事者研究、オープン・ダイアログなどもそのような取り組みかもしれない。(当事者研究については、以前本を紹介している。)


そうすれば、私たちの思いはより世界に開かれたものになるだろう。
世界と和解するための言葉が紡がれるかもしれない。

終わりに

ということで、以上4冊を紹介しました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
ぜひ皆さんのお休みのお供の本を教えていただけますと幸いです。
コメントでも、お便りフォームからでも構いません。

では、また。

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