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マンガ大賞受賞作『乙嫁語り』の舞台|中央アジア・キルギスの大草原で駿馬を駆る

書店員を中心にした各界のマンガ好きが選ぶ、その年いちばんの推しのマンガを選ぶのが、この「マンガ大賞」だ。過去歴代の受賞作や上位ランキング作品には、ずらりと注目作が並び、なにかオススメ漫画を探しているのなら、ぜひこうしたリストから選んでみてもよいだろう。


そんなマンガ大賞の2014年大賞受賞作が、森薫の『乙嫁語り』だ。ときは19世紀後半、場所は雄大な中央アジアの大平原。遊牧して暮らす人たちの日常を描いた、じつにユニークなこの一作が、大ヒットした『僕だけがいない街』などの他作品を押しのけて大賞に選ばれるのだから、この賞はなかなかに見る目があるなぁと思うのだ。なにしろこの漫画、とくに大きな事件が起こるわけでもなく、地元の人たちの地味な毎日が丁寧に描かれるくらいで、タイムリープしたり、人間を喰らう鬼に立ち向かったりといった、壮大なストーリーとはまったく無縁だったりするのだから。そして、それがイイのである。ちなみに「乙嫁」というのは、かわいらしいお嫁さん、という意味だ。

美貌の娘・アミル(20歳)が嫁いだ相手は、若干12歳の少年・カルルク。遊牧民と定住民、8歳の年の差を越えて、ふたりは結ばれるのか……? 『エマ』で19世紀末の英国を活写した森薫の最新作はシルクロードの生活文化。馬の背に乗り弓を構え、悠久の大地に生きるキャラクターたちの物語!


作者の森薫が以下のイラストで、マンガ大賞受賞の喜びを表現しているように、そもそも中央アジアという国々をこの漫画をきっかけに知ったという人は、結構いるのではないかと思う。なにしろ僕らからすれば、中央アジア5ヵ国というのは、旧ソビエト連邦から独立した比較的新しい国々であり、~スタンという名前が付くことが多い、くらいしかイメージがなかったりするのだから。

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そんな中央アジアのシルクルードに生きた人々の暮らしを漫画で描こうだなんて、その発想がステキじゃないですか。そしてまた、漫画のなかの絵がとってもいいんだよね。食事の風景、食器や台所の調理器具、服装に寝具、そしてきらびやかな手縫い刺繍の絨毯などなど、じつに鮮やかであり、白黒なのだけれども、それこそカラーの艶やかな色彩まで想像を膨らませることができるほどに、美しい。

だからこそ、この漫画を読んで、僕はこの地を訪れたいと強く思ったのだ。そんな願いが叶うのはそれからしばらく経ってからだった。中央アジアの国々を周遊する機会に恵まれた。行きたい場所は多々あったのだが、まずは何と言っても、「乙嫁」であるアミルの実家カザフ・キルギス系からではないだろうか。


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キルギスは、国土の大半を高い山々で覆われた国だ。東を向けば天山山脈の峰々が中国との境をなし、南方向には隣国タジキスタンに沿ってパミール高原が広がる。総人口600万人に満たない小さな国で、それこそ『乙嫁語り』の時代を髣髴とさせるような景色がいまなお色濃い。とくにその印象を強く感じられるのは、やはり地元の市場バザールを訪ねたときだろう。


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この地ならではの食材に、まずは数々のドライフルーツがある。日本では見たこともないようなカラフルな多種多様のフルーツに、思わずつまみ食いが止まらない。そして、洋の東西をつなぐシルクロードに位置するだけあって、香辛料も豊富だ。むかしむかしの時代には、香辛料を求めて大海原へと出航していった人類史から考えれば、この大シルクルードという陸路においても盛んな交易で、こうしたスパイスが取引されていたのは想像に難くない。そしてもちろん、中央アジア地域ならではの、まんまるの平焼きパン。ピザ・ラージサイズくらいの結構な大きさの丸型パンが、店頭にずらりと並べられる様はなかなかに壮観である。


こんなふうに、海のない内陸国で、高い山々と草原だらけのキルギスには、いわゆる観光資源が乏しいのも確かである。わざわざキルギスまで何しに行くのって、僕もなんども友人に聞かれたくらいだ。でもね、あのステキな漫画『乙嫁語り』を読めばきっと分かると思うんだ、こんな場所に行ってみたかったんだって。漫画の巻末で作者が取材日記を書いているんだけど、わざわざこうして遥々中央アジアまでやってきて、地元の住まいや食事から市場の買い物の様子まで、とことん現地のディテールにこだわった作者ならではの、こだわりと愛情が感じられる漫画なんて、そうそうあるものじゃない。それだけ細やかな魅力がここキルギスにはあり、僕はもう大満足だったのだ。ただひとつ、残念なのは、あぁ僕もあの頃の、つまりはアミルやカルルクたちがこの大平原を飛び回り、動物を追って走り回っていた、19世紀末のこの地の暮らしを見てみたかった、ということかね。でもそれは、漫画でのお楽しみで十分なんじゃないだろうか。


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