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件の如し(第10話)

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■本編

10、クダン
「随分と余裕ね、クダン探偵」
 アキはルームミラー越しにクダンを眺める。クダンは縛られたままだというのに、微笑みを浮かべて座っていた。その目に怯えも、体に震えも見られない。虚勢ではない。何かある、とアキは分析する。その何かが、自分たちに致命傷を与えないかどうか、見極める必要がある。そう考えて、アキは「クロダ、運転を代わりなさい」と路肩に車を停めて運転席から飛び降りる。
 アキは後部座席に乗り込んでクダンの隣に座り、クロダがハンドルを握って車を発進させる。
「さて、そんなに余裕ぶるんだから、なにかあるんでしょ。探偵さんだから、お得意の推理でも始めるのかしら」
 そうですね、とクダンは尻をずらしてアキの方を向く。だがアキは横目でクダンを一瞥しただけで、歯牙にもかけていない、という風を装うかのように、前方に視線を向けた。
 車は西進し、オフィス街に入る。慌ただしく駆ける営業風の男や、電話をしながら横断歩道を渡っているスーツ姿の女が見える。外には日常が広がっていて、この車の中には非日常が広がっている。クダンはその非日常が車の外にまで広がってしまうことを危惧した。ここにいるロシアの諜報員二人が、どのような動きを見せるかでこの国の明日が変わってしまうかもしれない。それを抑止できる立場に、今自分がいる。そう思うと、緊張せざるをえなかった。だが、探偵は泰然自若としてこそだ。緊張し、震える舌で紡ぎ出された論理など、見境のない暴力の前には簡単に壊されてしまうだろう。だから、論理が壊されないよう、自分が鉄壁であると相手には思わせなければならない。それが、現実の刃をもたず、論理という刃だけで戦う探偵という、力ない者なのだ。
「では、聴いていただけますか。私クダンの、今回の事件に関する推理を」
 ふっと笑みをもらし、自信を漲らせた口調で告げると、アキもしばし沈黙した後に、「いいわ、聴きましょう」と頷き、腕を組む。
「まず、そもそもの発端です。なぜ、あなたは矢崎秋奈という身分に落ち着いたのか。矢崎という男は正直、取るに足らない男という印象でした。矢崎は工作員の受け入れについても、さしたる役割は果たしていなかったのではありませんか。裏にいたあなたと、外務省の官僚であった榎田、そして他にも外務省で高い立場の人間がいたのでは。あなたがたが中心になって行っていた。なら、榎田や高官ではなく、矢崎の妻という立場を選択したのはなぜか。前者二人は妻帯者で、妻を消して後釜に座るのはリスクが高いと考えたのかもしれません。ですがなにより、あなたは目立つことを避けたかったのでは。今回の事件のシナリオは、あなたが来日したときには既に始まっていたのではありませんか。目立たず、関係者の近くにいるという意味では、矢崎の妻という立場はちょうどよかったのでしょう」
 推理というより妄想ね、とアキはせせら笑う。
「おっしゃる通り、根拠のない推測です。ですが正鵠を射てはいませんか」
「さあね」とアキは髪の毛先を弄びながら空とぼける。
 クダンは構わずに続ける。
「一か月前の矢崎秋奈の事故死。あれも最初から織り込み済みだった。私は、矢崎秋奈は二人いたと考えています」
 どういうこと、とアキは眉をひそめる。
「矢崎の自宅で、矢崎とともに生活する矢崎秋奈と、矢崎の裏の仕事に携わり、指示を出していた矢崎秋奈の、二人がいたということです。あなたは、最初から自分の死を偽装するつもりだった。ロシア本国の目を欺くために。そのために、工作員の一人に矢崎秋奈として生活させ、今から一か月前、事故を装って殺した。現場からは逃走する同乗者の姿が目撃されています。それはあなたか、クロダさんのどちらかだったのではないですか」
「なぜ、そんな面倒なことを?」
 クダンは笑みを浮かべ、「あなたは死者となってでも自由がほしかったのでしょう?」とアキの鋭い眼差しを受け流す。
「表向き矢崎秋奈として振舞っていたあなたは、もう一人の工作員を理由をつけて自宅からは出さずに隠れて生活させた。ですから、自宅の遺留物と遺体のDNAを照合されても痛くも痒くもありません。あなたはそうして、対外的には死者となることができた」
 クロダは赤信号で止まると振り返り、「アキさん、この男は消しましょう。危険です」と訴えた。
 だがアキは余裕がある、という態度を崩さず、足を組んで首を横に振った。「始末するのはいつでもできる。死出の旅の前に、話しくらい聴いてあげましょう」
「お心遣いに感謝します。さて、矢崎は矢崎秋奈殺しに関与していたと考えられます。私がカクタスから依頼を受けて、矢崎を訪問した時のあの狼狽ぶり、それが妻殺しの真実を知っていることと、矢崎の小心ぶりを物語っています」
 アキは冷笑して、「あの男は存外役に立たなかったわ。今頃は、先に三途の川であなたを待っているかもね」と嘲るように言った。
 クダンは沈痛そうに目を閉じて、「殺したのか」と絞り出したが、アキはそれにも冷ややかな笑みを返しただけで答えなかった。
「そうして死者となることができたあなたは、カクタスを葬るために動き出した。彼のロシアへの背信を示す証拠を使って。カクタスを葬りたかったのは、彼があなたこそが真の矢崎秋奈であると知る数少ない一人だったからでしょう。それに恐らく、あなたとカクタスには個人的な付き合いがあった、あるいはカクタスと同様、あなたもロシアの特殊部隊にいたのではありませんか。クロダさんの身のこなしを見ていれば、それが尋常のものでないことぐらい、私にも分かります。そしてそれゆえ、カクタスはあなたのやり口も熟知していた。いつ死の偽装に気づくともしれない。だから、先んじて殺しておこうと思った」
 アキは「ご名答よ」と感情なく答えて、窓に寄り掛かって頬杖を突いた。
「カクタスとわたしは特殊部隊で同じ部隊に配属されていた。恋人だった期間もある。だからあの男は、わたしにとって何よりの脅威だった」
「それでクロダさんに、データを持っていることをカクタスに伝えさせ、おびき出そうとしたんですね」
 アキは苦り切った顔をして、「ええ、でも、誤算だった」と目を瞑った。
「カクタスは最初からあなたの死を信じていなかった。そこにあなたの片腕であるクロダさんから脅しがあった。そこにカクタスはあなたの影を感じた。取引場所に現れたカクタスはあなたの裏を突いたのでは。そしてそのときの騒動で、カフカ、いや、ツェーザルは逃げ出した」
「そうよ。カクタスはわたしとクロダの二人を相手にすることを恐れ、手下を取引場所に潜ませていたの。さすがに銃で武装した相手と、カクタスを相手取ることはできないから、退こうとしたのだけれど、そのときにツェーザルが逃げた」
 相手が一枚上手だったわけね、とアキは悔しそうに言った。
「そしてあなたは、ツェーザルを探し回る羽目になった。そして自分たちの力だけでカクタスを相手取るのが困難と判断したあなたは、裏社会の一大組織『事務所』を利用することを考えた。榎田を呼び出し、ホテルの一室に留め、カクタスと事務所のそれぞれに榎田殺害の依頼と、榎田がカクタスに重要な情報を握っていると流し、現場でバッティングさせ、あわよくばカクタスを始末。できなくとも手傷を負わせられれば、とどめを自分たちで刺すつもりで」
 そう、とアキは天井を仰ぐ。「タイミングが微妙にずれて失敗しちゃったけどね」
「でも、それでもよかった。カクタスはね、熊のような男なのよ。見た目じゃなくて、性格がね。自分の獲物をとられることが、何より我慢ならない。だから、事務所の方が先に着くようには情報を流した。そして事務所は榎田を始末し、カクタスの怒りを買って、カクタスと事務所の全面戦争になる。筋書き通りだった」
 クダンはアキの横顔をじっと見つめ、「榎田も最初から始末するつもりだったのでは」と訊いた。
 アキはふっと笑みをこぼし、「そうね。でもどうして」と訊いた。
「榎田はあなたの潜入にも噛んでいた。あなたの素性を知る一人だからです」
「なるほど」
 そして、とクダンは確信を込めて、半分は願いのようなものかもしれないが、込めた強い口調で断言する。
「カクタスは滅びます」
「どうして断言できるの、そんなこと」とアキは不愉快そうにクダンを睨む。
「今まさに、事務所で最も優秀な暗殺者がカクタスの首を獲ろうと戦っているからです」
 なるほど? とアキは様子を窺うようにクダンを見つめる。
「彼女は絶対にカクタスを倒してくれるでしょう。私の役目は」
 そうか、とアキは頷き、あはは、と声を上げて笑った。
「わたしたちの足止めか! カクタスとの戦いに横やりを入れないように」
「そうです。あなたのやり口からして、漁夫の利を狙うことは十分にあり得ました。だから、私はカクタスに不都合なデータを持っているとあなたとカクタスにそれぞれ流して、私を奪い合うように仕向けたんです」
 なるほどなるほど、と腕で体を抱きしめるように抱えて、小刻みに震えながら可笑しそうに笑った。
「これはとんだ茶番劇だったわけね。証拠なんかなくてもいい。あなたの推理ショーで時間が稼げれば! わたしたちはむざむざとあなたが用意した陥穽に落ちたわけだ。でも、その代償はあなたにとっては高くつくかもよ」
 アキは腰から銃を抜くと、クダンの額に押し付ける。「別にこんなもの使わなくても殺せるけどね。脅しにはこれが一番よ」
「悪いことは言いません。それは選択肢としては最悪の選択です」
 なぜ、とアキは一際強く銃口を押しつけ、撃鉄を上げる。
「この車の中の会話は、すべて筒抜けだからです」
「筒抜けって」
 はっと気づいたアキが銃を突きつけたまま、クダンの上着のポケットを探る。そうして取り出したスマートフォンは通話中になっていた。モニターに表示されている相手方の名前は、県警の捜査一課になっていた。
「やってくれたわね」とアキは舌打ちをして通話を切ろうとするが、「それもお勧めしません」とクダンは笑みを浮かべて制止する。
「通話が途切れた場合、県警の刑事、岸和田さんというのですが、彼がある場所までメモリーカードを取りに行くことになっています。もちろん、銃声などで私に危害が及んだと判断したときもです」
 アキは唇を噛み締め、クダンのポケットにスマートフォンを戻し、銃を引いた。
「でも、あなたを殺さなかったからと言って、わたしたちの手に戻るわけでもない」
 そう言って再び銃口をクダンの額に押し付ける。
 クダンの頬を汗が流れ落ちる。
「無事に離してくれれば、場所を教えます。そうすれば、あなた方にもチャンスがあるのでは」
「そうして駆け付けたところに警察が待ち受けているわけね」
 アキが嘲るように言うので、クダンは「そんなことしませんよ」と声が震えないようはっきりとした口調で答えた。
「あなたの言葉を、何の保証もなく信じろと?」
「少なくとも、諜報員の言葉よりは信用できます」
 クダンはそう言った後で、とどめのように付け加える。
「メモリーカードは、あなたにとっても危険でしょう?」
 アキは奥歯を噛みしめ、じろりとクダンを睨みつけた。
「メモリーカードの中には、プロテクトがかかっているファイルがありました。中を見なくても予想はつきます。それはあなたとクロダさんのパーソナルデータでしょう。だからあなたたちは探偵の私を頼ってまでカードを求めた。それが警察の手に渡れば厄介では?」
「いい推論だけど、それも憶測でしかないわよね」
 アキはクダンの隣に腰を下ろし、腕を組み、人差し指で苛立ったように二の腕の辺りを叩きながら言った。
「なら、警察に委ねてみれば、すべて分かることです。もう圧力をかけてそれを止める、外務省の高官もこの世にいないのでしょう?」
 クダンが静謐な声でそう言うと、アキは開き直ったように肩を竦めてみせた。
「外務次官が予防線を張ってたのよ。わたしが裏切らないように。それを知ったのが殺す間際だった。その瞬間から、カードはカクタスへの餌から、守らなきゃならない爆弾に変わった」
 時間稼ぎにツェーザルの首輪に仕込んだのが徒となったわ、とアキは髪の毛をかき上げ、暗殺者に相応しい冷酷な目つきでクダンを見た。
「先ほど証拠はないと仰った。でも、矢崎秋奈殺しには証拠があるのです」
「証拠?」
 アキは信じていないように鼻で笑った。
 クダンはクロダの背中を一瞥し、「殺害の実行犯はクロダさんですね」と二人のどちらに言うでもなく言った。
「車のバッテリーが発火したことが爆発の原因ですが、そこに一部細工の跡が見られたそうです。そして、そこからは矢崎秋奈のものではない指紋が検出されている」
「それが? わたしやクロダがおとなしく指紋をとらせるとでも?」
 いいえ、とクダンはおもむろに首を横に振った。
「もう指紋はあります。覚えていませんか。ツェーザルを探していたとき、喫茶店のおばちゃんに連絡先のメモを書いて渡したでしょう。迂闊でしたね。そこから指紋が検出されています。今警察で照合してもらっているところです。結果はじき出るでしょう」
 やられたわね、クロダ、とアキは親指の爪を噛みしめ、怒りの炎を瞳にちらつかせていた。
 クロダはアキの憤怒の声に、びくりと身を震わせて黙りこくった。
「続きを聴いていただけますか」
「続きがあるの?」とアキは額に脂汗を滲ませながら、ぎこちなく笑みを作って首を傾げる。
「ええ。私は先ほど言いました。死の偽装はロシア本国の目を欺くためと。カクタスを始末するだけならば、あなたはデータをロシアへ届けるだけでよかった。でも、そんなつもりはなかったのでは。あなたは矢崎秋奈として死んだとき、諜報員のアキとしても死に、新しい人生を、この国でやり直すつもりだったのではないですか。だから榎田を殺し、矢崎を殺し、あなたの生存を知る人間を一人一人始末していった。外務省の高官も」
 そして、とクダンは悲しそうな瞳で運転をするクロダの背中を見つめ、「これが終われば、クロダさんも」と言った。
 クロダは弾かれたように振り返ってアキを見た。その顔には飼い主に置いて行かれた子犬のような絶望が浮かんでいた。
 ふうと、アキは何でもないことのように軽くため息を吐くと、髪の毛をかき乱しながら、「そうよ」と答え、足を組み直す。
「でもね、この国に留まる気はなかった。この国は未だ経済大国、技術大国である顔をしているけど、今なお途上国に追い上げられて抜かされているし、今後それが顕著になっていくでしょう。言わば、腐りかけの果実なのよ、この国は。経済も政治も、腐臭が漂っているのに、みなそれを見て見ぬふりをしている。そんな国に未来はないわ。だからロシア本国も早急にこの国の持っている人員だったり技術だったりという資産を奪ってしまいたいと考えている。果実が地面に落ちて食べられなくなる前に。だからこれまではスパイや工作員を送り込んでやわな侵略戦争を仕掛けていたけれど、今後は手段を選ばなくなるわ。そのときに、この国に戦うまでの覚悟があって? ないでしょう。だからわたしはこの国で自分を浄化して、真っ新な自分になった後で、他の国へ渡るわ」
 どうして、アキさん、とクロダは肩を震わせてハンドルを握りしめる。
「ごめんね、クロダ。でも、どうしても必要なことなの」
 そう言って気づかわし気にクロダの肩に手を置くが、クロダは親に叱られて泣きべそをかいた子どものように、その手を振り払った。
「そうして裏切りを重ねた果てに、あなたは何が得られましたか」
 アキはそこで初めて激情を露わにしてクダンの襟元を掴んで引き寄せる。
「あなたに何が分かるの。幼い頃から、日系だというだけで軍にさらわれ、諜報員になるため過酷な訓練を課され続けた。幼い子どもが、血反吐を吐いて、仲間たちが死んでいく姿を見ながら、生き延びたい一心で足掻き続けた。その地獄を見たこともない、ぬくぬくとぬるま湯で育ったあなたたちに、何が分かると言うの」
 なら、とクダンはアキの言葉を遮るように叫んだ。
「どうしてその仲間であるクロダさんまで、始末しようとするんです」
 アキは舌打ちして椅子にクダンを叩きつけると、再び銃を抜いて構えた。
「アキさん、だめです」、クロダが叫ぶ。
「会話が筒抜けな以上、もうおしまいよ。この探偵のせいで、計画がすべておじゃんだわ。せめてこの男をあの世に送っておかないと、わたしの気が済まない」
 アキさん、とクロダが必死に叫ぶが、アキは止まらない。引き金に指をかけ、そして引く。
 その瞬間、ワゴン車が大きく揺らいで、態勢を崩したアキは天井の板を撃ち抜いた。「クロダ!」と忌々しそうに叫ぶが、クロダは答えず、懸命にハンドルを捌いていた。もう一度大きな衝突音を伴って、衝撃がきた。アキが外を眺めると、赤色灯を光らせた乗用車がワゴン車に体当たりを仕掛けていた。
「警察か……!」
 岸和田さん、とさすがのクダンもほっと息を吐く。
 クロダは警察車両の猛攻を逃れるためか、ハンドルを切って細い路地に入り込む。警察も懸命にそれを追う。
 南に向かっている、と通り過ぎる街並みを眺めてクダンは気づいた。この道の果てにあるのは、港だ。もしかして港から逃げる算段が? いや、だがアキは自分の存在を誰にも知られたくないはずだ。諜報員のアキが生きている足跡を残すような真似はしないはず。だとしたらクロダが手配したか。それも考えにくい。彼女はアキに忠実だ。アキに無断で事を進めたりはしないだろう。
「クロダ、どこへ向かっているの」
 焦ったアキが銃を片手にクロダに問う。
「逃げ切れる場所へです」
 クロダは振り返ることなく、前方だけを注視してハンドルを捌き続ける。
 やはり、クロダはアキの意思の下から逃れ出て、自分の意思で今動いている。それならば何を考えている。逃げ切れる場所とは。
 クダンははっとして、アキに向かって「取引をしませんか」と持ち掛ける。
「取引?」とアキは不審げな眼差しをクダンに向ける。
「そうです。私をこのまま車から降ろしてくれれば、警察は退きます」
 アキは甲高い声で笑って、「一介の探偵のあなたに、そんな権限があるわけないでしょ」と嘲笑った。
「今追跡している岸和田刑事は、個人的な借りを返すために付き合ってくれているだけです。組織としてあなたたちを追っているわけではない」
 ふうん、と興味を持ったのか、アキは銃を引いてクダンの隣に腰かける。
「あなたは口が上手だからな。降ろしたはいいけど警察がわたしたちを追うことを優先したらどうする」
 それはありません、と断言する。
「私もクダン探偵の話に乗るべきだと思います」とクロダが抑揚のない声で言う。
「メモリーカードの在処は?」
「駅の構内のコインロッカーです。鍵がポケットに」
 アキは荒っぽくクダンの上着を探り、ないとみるとズボンのポケットを探る。そうして見つけ出した鍵を、無言で自分のジーンズのポケットに押し込む。
 アキは深いため息を吐くと、「あなたはわたしの手で殺したかったわ」と言って、後部座席のスライドドアを開け、縛られたままのクダンを外に向かって引きずりおろして放る。
 クダンは走行中の車内から放り出されたことで、地面を芋虫のように転がり、あわや岸和田刑事が轢きそうになりながらも、それは回避した。
 岸和田刑事は慌てて車から降りてくると、カッターナイフでロープを切る。自由になったクダンは全身の痛みによろめきながらも、岸和田の襟元にすがりついて、「急いで追わないと、岸和田さん!」と叫んだ。
「約束は反故にするのか」
 そうじゃありません、とクダンは立ち上がって赤色灯を外すと車内に放り投げ、「早く」と岸和田を手招きして助手席に乗り込んだ。
 岸和田も釈然としない様子ながら頷いて運転席に乗り込むと、車を走らせる。
「クダン、お前への殺人未遂と銃刀法違反で引っ張れるだろうが、お前の話が本当なら俺一人で逮捕できる相手じゃないぞ……」
 クダンは首を振る。「私も彼女たちの逮捕は無理だと分かっています。でも、止めなければ」
「止めるって、何をだよ」、岸和田は訝しそうに訊ねる。
「この先に何があるか分かりますか」
「何って、港だろ」と言って岸和田ははっと気づいて、「奴ら海外に逃げる気か」と叫ぶが、クダンは悲壮な、青ざめた顔で首を横に振った。
「違うんです。クロダさんを、止めねば」
 クダンの予測通り、ワゴン車は港へ突っ込み、運搬中だった魚の発泡スチロール箱などを薙ぎ倒しながら、港の中を進んで行く。慌てて皆飛び退き、車を避けるが、クロダの運転する車は誰を轢こうとも構わない、といった無謀なものだった。
 岸和田も慌てて追うが、クロダほど無茶な運転はできないため、どうしても一歩遅れる。
「岸和田さん、スピーカーってこれですか」とマイクを外すと、岸和田がスイッチを入れる。
「クロダさん、だめです。そんなことをしても、あなたは報われない」
 クロダさん! とクダンが叫ぶのも虚しく、ワゴン車は加速し、港の端から宙へと飛び立ち、そして落水した。
 ああ、とクダンは悔しそうにダッシュボードを叩き、項垂れた。岸和田はクダンの肩に手を置くと、無線機を取り上げて応援の要請を出した。
 クダンは車から降り、沈んでいくワゴン車を、ただ見つめることしかできなかった。

「やはりここにいたの」
 港の縁に足を投げ出して座ったクダンの後ろから、ガーネットが声をかけた。
 クダンは振り返らず、ただ海を、クロダたちが沈んでいった海を眺めながら、「ええ」と答えた。
「ここでぼんやり眺めていても、失ったものは帰らない。でもカフカはこう言っているのよね。『何もしないことは、あらゆる悪徳の始まりであり、あらゆる美徳の頂点である』って」
 ガーネットもクダンの隣に腰を下ろし、海に向かって足を投げ出す。
「ただ彼女たちの死を悼んで口を噤むことは、罪ではあるけれど、彼女たちにとって最善なのかもしれない」
 クダンはガーネットの言葉に、前髪を潮風にさらして俯き、「彼女は本当に死んだのでしょうか」と呟いた。
「矢崎秋奈、ね」
 ガーネットは空を見上げる。ウミネコが二羽飛んでいた。
 落水したワゴン車は、駆け付けた警察たちによって引き上げられたが、それは落ちてから四時間は経った頃だった。車内からはクロダの遺体が発見されたが、アキの遺体は発見されなかった。車の窓ガラスには割られたような形跡もなく、アキが脱出したとは考えにくい状況だが、その後もダイバーによる海底の捜査などが続けられたが、結局どこにもアキの姿はなく、遺体は何らかの弾みで車外に転がり出て、波にさらわれて沖まで運ばれてしまったのだろうという結論に落ち着いた。
「死んだかもしれないし、生きているかもしれない。でも、もうあなたの人生には関わりない人よ」
 そうですね、とクダンは気のない返事をする。
 本当に関りがなくなるだろうか。アキがもし生きていたのだとしたら、彼女は当初の目的を遂げた形にはなる。だが、それをクダンが妨害したのは事実だ。復讐を考えないとも限らない。諜報員だった彼女には、悟られずクダンを抹殺する手段などいくらでもあるだろう。
 生きていたとしたら。彼女は今どこで、何を考えているのか。
 クダンはいくら頭を働かせて推理してみても、答えがまるで出ないのだった。
「クダン探偵は、これからどうするの」
 潮風でなびく髪を押さえて、ガーネットが問う。毛先が唇にかかり、まるで甘く食んでいるように見えて、クダンはどきっとした。
「私は日常に戻ります。ただの探偵に。だから、ガーネットさんとは敵同士ですね」
 クダンはガーネットを見つめる。ガーネットは一瞬呆けた顔をして、ああ、と思い出したように笑んで、「わたし、事務所は辞めたの。だから殺し屋じゃないわ」と告げるのでクダンも驚き、目を丸くする。
「そんなに簡単に辞められるものですか」
 ガーネットは首を横に振る。
「簡単じゃないわ。でも、カクタスの首を獲った殊勲者だから」
「ならなおさら事務所が手放したがらないんじゃ」
 そこはほら、とガーネットは人差し指をくるくると回しながら目を泳がせ、「課長が頑張ってくれたから」と答えるものの、クダンは疑わしそうにじいっと見つめる。
「ああ、そうだ、課長がクダン探偵をスカウトしたがってたわよ。部下に欲しいって」
「お断りです」とクダンは笑って断言する。
 ふふ、とガーネットが可笑しそうに笑って、クダンも声をもらして笑う。そして二人の間にしばし沈黙が落ち、クダンは意を決して顔を上げた。
「それでも、あなたが犯してきた罪が消えるわけじゃない」
 クダンは言葉を叩きつけながら、まるで自分が殴られているかのように痛みを感じ、顔を歪めていた。
「分かってる。過去がつきまとう限り、わたしは光の当たる道を歩けない」
 ガーネットはクダンが泣き出しそうな顔をしているのを見て、仕様がない弟でも眺めるように笑った。
「わたしはあなたの前から消える。探偵クダンさん」
 ガーネットは立ち上がり、クダンに向けて手を差し出す。クダンもそれを掴み、ガーネットに引かれるがままに立ち上がった。
「あなたがいてくれてよかった。じゃなきゃ、多分わたしは死んでた。カクタスか、矢崎秋奈に殺されて」
 ガーネットは引っ張った勢いでその腕の中にクダンを抱きとめ、固く抱きしめてその背を叩いて言った。
「カフカが言ったわ。『分かっただろう。わたしの力には限りがある。沈黙するよう、なにかが命じている。さようなら』と。だから、わたしは口を噤む」
 ガーネットはクダンを放し、走り去って行く。離れ、彼女の姿が港の向こうに消えようとしたとき、ガーネットは振り返って手を振り、もう一度、今度は彼女の言葉で「さようなら!」と叫んだ。
 クダンは空を見上げた。二羽いたウミネコは、いつの間にか一羽になっていた。

〈了〉


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