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真実のひとひら

 初め、野原には一輪の花だけがあった。誰も名前を知らない、赤い花だった。
 花はやがて風に嬲られ枯れ、種を一粒野原に落とした。
 種は地面の上で風や雨、強い日差しにじっと耐え、長い年月が経った頃、芽吹き、茎を伸ばして閉じた唇のような蕾を育て、そして気の遠くなるような時間の果てに、七色の花を咲かせた。
 七色の花は太陽と月と一度だけ顔を合わせて、その花弁を散らせた。青い花弁は地面に溶けて水となり、野原の中に海原を生じ、緑の花弁は落ちて地面の中に無数の根を張って、野原に森を生んだ。紫の花弁は風に舞い上がり空を飛ぶ生き物を作り、水色の花弁は海原に落ちて水の中に生きる者たちを作った。黄色の花弁は大地を力強く闊歩する生き物を作り、白い花弁は人間という知恵をもつ生き物を作った。最後に落ちた黒い花弁は、野原を壊そうとする悪魔を作った。
 それらが生まれて幾星霜。人間は花が作った生き物や野原を壊して自分たちの住みよい街を作り、悪魔はその街を壊そうと様々な手練手管で迫った。あるときは巨大な生物として街を襲い、その企みが敗れると野原の生き物たちを唆して街を襲い。しかし人間は悪魔よりも悪辣で賢かったために、火という強力な力を手にして、襲い来る生き物たちを焼き払った。そしてまたあるときは、悪魔は人間のふりをして人間の中に入り込み、甘言を弄して内部から崩壊させようと試みたが、人間の中に勇気ある者と賢き者が生まれ、悪魔の企みを木っ端みじんに粉砕してみせた。その勇気ある者と賢き者は街を二分割し、それぞれ統治した。その後街は二人の血を引く者たちによって統治され、一度たりとも悪魔に陥落させられることはなかった。

 気に食わんね、とアルフレッドは腕を組んで唇を尖らせ、そっぽを向いて言った。
 カイは開いていた本をそのままベッドに置いて、「なにがだい」と怪訝そうに訊いた。
「なにって、おれたち悪魔が負け続きだってくだりさ。きっと悪魔だって勝ったことがあるはずさ」
 そうかもしれないけどね、アルフレッド、とカイは困ったように頬を掻いて、「真実の書には書いてないんだもの」と優しく穏やかな声で慰めるように言った。事実、悪魔のアルフレッドは泣きだしそうに目をうるうるとさせていた。
 アルフレッドは立派だ、とカイは思う。自分の悪魔という種族を誇りに思い、その種族の名誉のために泣くことができる。同じことが僕にできるだろうか、とカイは自問する。いいや、きっと難しいだろう。アルフレッドに尊敬と親愛の念を抱きながら、カイはそう考える。
「カイは真実の書を隅から隅まで読んだのか?」
 いいや、とカイはふるふると首を横に振った。カイが読めたのは大まかな歴史などが記された序章だけだった。
 真実の書は、選ばれた者にしか読むことができない。かつて賢き者が記したとされるこの書は、読む資格のある者にしか真実への、その道のりを示さない。だが、これまでの歴史上で幾人もの資格ある者が現れてきたが、誰もが序章しか読むことができず、それ以降の章については謎に包まれていた。
「ほらな。序章以外のどこかに、我ら悪魔族の輝かしき歴史が記されているはず」
 そうかもしれないね、とカイは笑った。悪魔と人間が争いあっていたのは遠い昔。強く膨張しすぎた人間の力によって、自壊するように人間の街が一度崩壊し、野原を焼き尽くしてからは、お互いに争うことの愚を悟り、生き残った少数の者で手を携え生きていくことにした。それが、千年以上前のことだ。だからカイもアルフレッドも、真実の書を基にした歴史書などで争っていた歴史を知るのみだった。今やもう、人間と悪魔とは種族が違うというだけの同朋だった。
「アルフレッドは、楽社団に入るんでしょう?」
 楽社団とは、野原を旅して回り、彼らが野原中から集めてきた音楽を別の街に伝えることを目的とした冒険者の一団で、街の正式な任命を受けて行うため、入ることは非常に名誉なことだとされていた。だが、野原を旅するため、危険も多く、一定以上の武術の心得がなければ入団は許されなかった。
 アルフレッドは二刀の使い手として、街の大人たちからも一目置かれる存在のため、逆に楽社団からスカウトがくるほどだった。
「まあな。おれは楽社団の団長に上り詰めて、歴史に残る大発見をしてやるのさ」
 アルフレッドは立ち上がり、二刀を持っているつもりで腕を振って部屋の中で舞ってみせた。
「カイは、探究者の塔へ行くのか」
 アルフレッドはカイの足元に腰を下ろし、ベッドのスプリングを試すように尻で跳ねてみせる。ゆさゆさと揺れるベッドに、カイは声を上げて笑う。
 探究者の塔は、野原の歴史や、失われた科学技術などを研究する機関で、真実の書の研究も行っていた。だが、序章しか紐解かれないために、その研究は停滞していた。
「そうだね。でも、体が治らないと、塔へは行けないかな」
「原因、分からないんだろ?」
 うん、とカイは頷く。胸を押さえて、「ここが悪いのは分かってるんだけど」と俯く。
 三年前、原初の時代に赤い花を枯らせたという死の風が吹いた。その風は街の多くの人間を死に追いやり、カイは一命をとりとめたものの、ベッドから出て歩けぬほどに衰弱し、どんな治療も受け付けない病に侵されることとなった。三年間、毎日一粒一粒命の砂時計から砂が零れ落ちていくのを感じていた。そしてそれが尽きるのもそう遠くないことをカイは悟っていた。だが、アルフレッドには気づかれないよう気丈に振舞っているのだった。
「今真実の書を読めるのはお前だけだからな。養生しろよ」
 そう言って立ち上がったアルフレッドに向かって微笑みかけると、「せいぜい頑張るよ」とベッドから腕を出して、寝間着の袖をまくって力こぶを作ってみせる。細く骨ばった腕は小さな筋肉に悲鳴を上げさせながら力こぶを作った。その痛々しさにアルフレッドはいたたまれなくなり、「じゃあな」と言って部屋を飛び出して行く。
 カイはそれを笑顔を浮かべながら見送り、扉が閉まってアルフレッドが階段を下りていく音を確認すると、激しく咳き込んだ。口に当てた袖を離してみると、袖にはべったりと血がついていた。
 もう長くない、とカイは横になりながらぜいぜいと息をした。真実の書の序章しか読めなかったことが何よりも心残りだった。人間と悪魔が知るべき真実が自分の手の中にあるというのに、それを読み解くことができない。自分の無力さと命の儚さに、カイは悲しみを覚えると同時に空虚さを感じていた。
 死を前にしたとき、人はなにものも意味を失う。どれほど強かろうと、どれほど賢かろうと、死を避けることはできない。そして死は奪うものをえり好みしたりしない。すべてのものから、すべてのものを平等に刈り取る。
 もう、ここまで死に侵されてくると、真実の書を読めない無念も、死という虚無に飲み込まれて塗り潰されていくようだった。
 階下がやにわに騒がしくなり、訝しく思っていると誰かが階段を上がってくる。アルフレッドだろうか、そう考えていると、乱暴に扉が開けられた。そこには猿面の男が立っていた。手には血まみれの牛刀を提げ、二つの首をぶら下げている。カイの両親だった。
「血が呼んでいる。お前は死なねばならぬ。遥か昔から、それは決まっていた」
 男はのっしのっしと部屋の床板を踏み鳴らしてカイのベッドに歩み寄ると、カイの髪の毛をむんずと掴んで引っ張った。
 カイは抵抗することなく、その細く青白い首をさらけ出して、笑った。なぜだか、男が来るのは分かっていたような気がした。それはどれだけ抗おうとも、必ずくる宿命なのだと、カイは知っていた。
 男は興奮して鼻息荒く呼吸しながら、一度牛刀をカイの首に押しつけ、そして振りかぶって、「おう」と気合を込めて振り下ろした。

 見ん方がいい、と駐在のジローは道を遮ってアルフレッドを押し返した。
「カイは。カイはどうしたんだよ」
 家の中は壮絶な争いがあったと見えて、物が散乱していた。血の跡が壁や床のあちこちにべったりとこびりつき、拭いきれない血だまりの跡が惨状を物語っていた。
 ジローは悲しそうな目をして首を横に振った。
 嘘だ、とアルフレッドは呻いて崩れ落ち、地面に拳を叩きつけ、人目も憚らず泣き始めた。
「まだ一家全員の首の行方が分からん。下手人は猿面をした男らしいのだが、面を外されていては探しようもない」
「そんな情けないこと言うなよ!」
 アルフレッドは立ち上がって、ジローの胸元に縋りつき、彼の胸板を拳で叩きながら叫ぶ。
「なにやら怪しい男が街外れの塔に住み着いているとは聞いているのだが、その者とも限らんし……」
 街外れの塔。アルフレッドは呟くと、怒りに目を燃やし、憎しみが故に奥歯を噛みしめ、ジローを突き飛ばして踵を返し、走り出す。
「待て、そいつが犯人だと決まったわけじゃあ……」
 ジローの声はもはやアルフレッドの耳には届いていなかった。彼は憤怒によって走らされていた。一度自宅に戻ると、愛用の二刀を背中に差し、街を飛び出して行った。怒り故に目が曇ってもいたが、その一方で犯人への嗅覚は研ぎ澄まされていた。街の門のところに点々と続く小さな血の跡を見逃さないと、それを辿って街の外へ出た。
 街外れの塔は、東の森の奥にあった。東の森には熊が生息しているため、人が近づかなくなり、研究施設だった塔も打ち捨てられることになったのだが、確かに犯罪者が隠れるには絶好の場所かもしれなかった。
 アルフレッドは森に入り込むと、わざと木を叩いたりして物音をたてながら奥に進む。森の獣たちに、自分がいることを知らしめ、遠ざけるのが目的だ。二刀を抜いて木を叩きつつ、奥へ奥へと進んでいく。すると遠くに塔の姿が見え、さらに近づいて行くと塔の麓にキャンプを張った跡があった。煮炊きをしたらしく、焦げた薪などが転がり、冷めた鍋が転がっている。材木と動物の皮で作った即席のテントがあったが、中には誰もいなかった。小さな木のテーブルの上にブリキのカップが置かれていて、赤ワインが入っているなと鼻を近づけてみて、アルフレッドはそれが赤ワインではなく、血であることに気づく。テントの主のおぞましい狂気に身の毛もよだつ思いがしながら、同時に憤怒と憎悪とが尽きぬ泉のように湧き上がってくるのを感じた。
 慎重に塔の壊れた扉を押し開けると、頭上から声が降ってきた。
「お、俺を追って来たのか。予言の通りよ。来るがいい。お、お前の血も我が神に捧げてくれよう」
 はっと顔を上げると、遥か階上の吹き抜けに猿面の男が立ち、牛刀を振りかざしているのが見えた。
 待っていろ。
 アルフレッドは感情が爆発する火山のように高ぶってくるのを感じた。螺旋階段に足をかけると、一気に上って行く。アルフレッドが上ってくるのを見て、猿面の男は顔を引っ込める。
 逃がすか。
 男がいた辺りの踊り場に辿り着くと、周囲を見回す。本の山が崩れて風化し、綴り紐も朽ちて紙がばらばらに散乱していた。人間のものと思われる骨が散らばっており、肉片がついているものも多く、ハエがぶんぶんと羽音をたてて飛んでいた。
 立ち込める臭気に吐き気を覚え、アルフレッドは鼻を覆う。周囲を飛び交うハエを払いつつ、奥に伸びている廊下へと足を踏み入れる。
 廊下は一本道で、正面に見える部屋が行き止まりのようだ。恐らく猿面の男もそこにいる。そう確信したアルフレッドは足音を忍ばせて進んで行くが、「無駄無駄。野生とともに生きた俺の耳は誤魔化せぬ」という男の声が反響しながら飛んできて、舌打ちしてアルフレッドは走り出す。
 部屋の中に足を踏み入れると、先ほどよりも濃密な血と腐った肉の臭い、死の臭いが立ち込めていて、アルフレッドは顔を顰めた。
 部屋の中には祭壇があり、無数のしゃれこうべが山積みになっており、それを取り囲むように蠟燭の火が焚かれていた。その手前には魔法陣のようなものが血で描かれ、子ぎつねがナイフで串刺しにされていた。最奥には玉座のような立派な椅子があり、そこに猿面の男はカイの一家の首をぶら下げ、座って待っていた。
「逃げられないぞ、狂人め」
 右手の刃を突きつけたアルフレッドに向かって、猿面の男は肩を揺すって笑う。
「逃げられんのはお前の方よ。神の予言に基づき、お前を神に捧げる生贄としてくれようぞ」
 覚悟しろ、と叫ぶとアルフレッドは二刀を振りかぶって飛び掛かり、右手の剣を玉座を袈裟斬りにするように振り下ろした。
 猿面はそれを横っ飛びに躱すと、笑い声を上げながら牛刀を振りかぶって飛び掛かる。
 アルフレッドは左手の剣で男を貫くように突き出すが、猿面はそれをも軽やかに躱す。だがのけ反った態勢になったため、次の動作に移るまで一瞬の硬直を要した。アルフレッドはそれを見逃さず、猿面の腹を蹴り上げる。
 猿面は咳き込みながら後方に飛びずさり、腹を押さえた。
 アルフレッドは剣を振るって猿面に迫る。左手の一閃を猿面は牛刀で受け止め、猿面の左手側ががら空きになったところにアルフレッドは右の斬撃を放つ。だが、すんでのところで猿面がカイ一家の首を盾にしたことで、アルフレッドは舌打ちして剣を引いて後ろに下がった。
 猿面は牛刀を滅茶苦茶に振り回して向かってくるが、アルフレッドは冷静にそれを捌き、隙を窺う。だが、アルフレッドが攻撃に転じようとすると、猿面は首を盾にする。それの繰り返しだった。
「な、軟弱な男よ。そんなことでは宿命には勝てぬわ。やはり、お、お前は生贄となるべき運命よ」
 アルフレッドは忌々しそうに、「悪魔に運命を説くことほど無駄なことはないって諺、知らないのか」と言うと、一足で相手の間合いに飛び込み、左手の剣を振るう。それを猿面は牛刀で受けて、アルフレッドが右手の剣を構えたところで、首を盾にする――、そこまではこれまでと同じだった。だが、アルフレッドは剣を振らず、力を溜めておいた足を振り上げ、猿面の手を蹴り飛ばし、カイ一家の首を弾き飛ばした。
 おう、と猿面は怒りのこもった雄叫びを上げると牛刀を振りかぶるので、アルフレッドは足を戻しながら体を捻って回転し、右手の剣を振り上げて猿面の牛刀を持った手を斬り落とす。
 呻き声を上げ、猿面はよろめき、後方へと下がる。その首に十字に交差させた二刀を突きつけると、猿面は観念したかのように膝を突き、「助けてくれ」と命乞いをした。
「ふざけてるのか。カイたちを殺しておいて、助けろだって?」
 猿面は面の奥で泣き、肩を震わせた。
「お、俺は神に命じられただけだ。殺したくなんてなかった」
 嘘だな、とアルフレッドは断じて、剣を持つ手に力を込める。猿面の首に剣がわずかに食い込み、傷を生じて血が刃を伝って流れる。
「ふ、ふふ。いいぞ、殺すがいい。予言には、我が神には逆らえぬわ。お、お前も運命の囚われ人――」
 猿面が言い終える前に、アルフレッドは剣を引いて猿面の首を両断した。落ちた首はごろごろと転がって、机を覗き込むように床に止まった。
 アルフレッドが自然とその首の軌跡を追っていると、机の上に目が留まる。そしてはっとして駆け寄った。机から一冊の本を取り上げる。それは真実の書だった。カイの部屋から持ち去られていたのだ。
 運命、神、か。
 アルフレッドは呟きながら、何気なくページをめくってみて、背筋が凍りつくようになって手が止まった。そこにはアルフレッドには読めないはずの、序章の文章が刻まれていたのだ。読めない者には、字が現れることはない。これまで読めたことなどなかったのに、なぜ、と狼狽しながら、アルフレッドはページをめくっていく。震える指で、序章の最後のページをめくると、そこには第一章が書かれていた。
 第一章は、猿面の男の生い立ちと、カイが辿った運命、そしてアルフレッドが猿面を殺した運命が書かれていた。
「カイが死んだのも運命なら、あの男を殺したのも運命?」
 そんなばかなこと、とアルフレッドは真実の書を閉じ、机を蹴り飛ばした。朽ちかけていた机は脚が折れて崩れた。
「男が言ってたことは、こういうことか」
 予言には、神には逆らえない。
 すべてが予定調和だなんて、馬鹿にしている、とアルフレッドは真実の書を燃やし尽くすような怒りの炎を宿らせて、睨みつけた。許せなかった。懸命に生きていたカイが、無惨に殺されることが仕方のないことだったと諦めることなんて、アルフレッドにはできなかった。
 いいだろう、やってやろうじゃないか。
 アルフレッドは二刀を背に差し、真実の書を持って塔を降りる。楽社団と、探究者の塔。両方を統べる存在になってやる。それがたとえ、真実の書に刻まれた運命だとしても、いつか書の呪縛を乗り越えて、運命とやらを覆してみせる。亡きカイのためにも。
 その後アルフレッドは楽社団の中に真実の書の研究チームを作り、野原を旅しながらその真実を探るため尽力したと第二章には書かれているが、その先の真実は、まだ誰も知らない。
 今野原には、一輪の花が風にそよいでいる。

〈了〉


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