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不断

 目の前には巨躯の獣。相対するは一人の若き侍。
 侍の青年は、手にじっとりと汗をかいているのを鬱陶しく思った。いざというときに滑りでもしたらたまったものではない。だが、獣が放つ異様な気配に飲み込まれんと抗うだけで、汗をかいてくるのだった。
 獣は四足だが、前足が異様に発達していた。その前足で巨体の全体重を支えるように前傾姿勢をとり、猫がよくするように爪を出したり隠したりしている。
 四足の獣は、赤銅色の体毛に全身を覆われ、その身の丈は青年の優に倍はあった。顔は猿に似ているが、大きさは猿の比ではなく、青年の顔二つ分はありそうだった。何より異形なのは、顔は乳のように真っ白であるにも関わらず、目は鮮血のように紅いことだった。
 日が沈み始めている。木々の影が青年の足に追いすがるように伸びてくる。
 青年は左手の親指を鍔にかけ、右手をだらりと下げたまま、木立を利用して獣の死角に入る。青藍の袴が葉擦れに似た音をたてる。昨日降った雨で足元の木の葉がぬるぬると滑り、泥が踏ん張る力を奪う。
 獣はそれを知っているかのように、足場となる岩から岩へと飛び移り、木立の死角をかわして青年と正対する。
 青年は、姓を朝日、名を一太という。諸国を周遊する若武芸者だった。家を出奔して二年、危険に身を投じてきたのは一度や二度ではない。剣の腕も度胸も培われてきている。
(腕に覚えはある。だが、これは)
 ぎょろぎょろと左右を脈絡もなく窺っているような獣の目を見て、いけない、と実感していた。単なる獣の様ではない。妖しい空気がじっとりと肌に纏わりつく。
 獣の目が朝日をぴたりと捉えて止まる。前足の肉がかすかに盛り上がったのを見てとる。来る、と朝日は刀の柄に手をかけ、鯉口を切って抜き放つ。獣の白い面にうっすらと笑みが浮かぶ。刀を正眼に構えて柄を握る手に一層の力を込める。
 獣は後ろ足で足場の岩を蹴り、一足で朝日との間合いを詰める。
 左半身がやや下がっている。左前足を後ろに残している。その一撃が、くると直感する。
 朝日は剣先を上げて刀を立て、八相ぎみに構える。そこへ過たず獣の爪による大振りの一撃が襲い来る。爪は風を切りながら迫る。朝日の顔に汗が垂れる。爪が刀身に触れる。その刹那、半身開いて獣の爪をいなして受け流す。素早く一歩後ろに下がって正眼に構え直す。獣の首を落とそうと振りかぶりかけるが、獣は力を受け流され、姿勢を崩されたにも関わらず、既に朝日の方に向き直って攻撃姿勢をとっていた。
(躱せはする。だが、斬り込む隙がないのでは)
 朝日は二歩三歩と後ろに飛びのき、自身が肩で息をしていることに気付く。さして激しい動きはしていない。だが、獣から発せられる圧迫感が、朝日の疲労を何倍も濃いものにしていた。
(やはり、妖の類か)
 獣は地面を這い寄るかのような唸り声をあげている。紅い目は再び左右ばらばらに忙しなく動いている。
 朝日は腕試しによいと、領主からこの仕事を引き受けた三日前の自分を殴り飛ばしたい思いだった。これは、そんな容易な仕事ではない。
 朝日は知らなかったが、領主は獣を狩るのに二十数名から成る討伐隊を組み、この山に送り込んでいた。だが、その尽くが獣に食い殺され、帰ってきたものは一人としていなかった。
 朝日は獣の目の動きを追っている内、ふと沈丁花の甘い香りが鼻をつくのを感じる。
(今は季節ではない。この香り、どこから)
 くすくすと女の笑う声がして、朝日は弾かれたように声の方を見る。獣の方からではない。左前方。獣にへし折られ、無残な断面をさらした樫の古木には瑞々しさが残っていなかった。
 鮮やかな椿が彩られた打掛を身に纏う女がそこにはいた。腰まで届く長い髪を揺らしている。垂れ気味の優し気な目、通った鼻筋、艶やかで形のよい口。女の周囲は霞がかっているようで、どこか常ならぬ雰囲気が漂っている。
「義姉上」と朝日は思わず叫ぶ。だが、叫んだ後でそんなはずはないと思い直す。義姉は二年前に死んだ。自分の目の前で。紅い椿よりなお紅く染まった着物。青白くだらりと力を失った腕。冷たくなっていく体。無残にいたぶられた顔。忘れもしない。
 椿とは、縁起が悪い。私に恥をかかせる気か。
 酒に酔って、そう叫びながら容赦なく義姉の顔を打擲した兄。義姉の腹には自身の子がいたにも関わらず、冷酷にも足蹴にした兄。朝日は腹の底から怒りが蘇ってくるのを感じる。兄への怒り。そして、何もできなかった自分への怒り。柄を握る手に力がこもる。
「一太、こっちにいらっしゃいな」
 義姉はゆっくりと手を招いて誘う。朝日は足を踏ん張っていても、体が義姉の方へ引き寄せられるのを感じる。義姉の声は心地よかった。一太、と自分を呼ぶ声は花の香よりもなお甘く感じた。義姉の指先に糸がついていて、それが自身の体を引っ張っているようだった。
(まずい。ここを獣に突かれては)
 冷や汗が背中を伝い流れるのを感じる。今にも獣が飛びかかってきて、その爪で八つ裂きにされる光景が浮かんだ。だが、朝日が周囲を見回しても獣の姿はない。霧が足元から間欠泉のように吹き出でて、渦を巻きながら周囲に立ち込める。視界に捉えられるのが義姉の姿だけになり、他の景色は霧の海の中に埋没していく。
(沈丁花の香。そうか、義姉上の香りか)
 廊下ですれ違ったとき、嗅いだ懐かしく愛おしい香り。花の姿のように美しく、その香りのように艶やかで優しい人だった。
 だが、その義姉は死んだ。兄の手によって。
 朝日の兄は猜疑心の塊のような男だった。剣の腕も立てば頭脳も明晰だった。だが、人から敬われることに慣れていた一方で、他者を軽んじ信用しなかった。常に裏切られる可能性を考えていた。特に女に対してそれは顕著だった。義姉が御用聞きの男と言葉を交わしただけで嫉妬し、口汚く叱責した。それに異論を申し立てようものなら、感情任せに叩き、痛めつけることで自尊心を満たしていた。
 ある日、妊娠して腹が大きくなった義姉が、貧血でふらつき、廊下で倒れそうになったところを朝日が間一髪のところで抱き留めて助けたことがあった。兄はこの現場を目撃して、朝日と義姉が不義の関係にあるのだと決めつけた。
 泥酔した兄は義姉を散々に罵倒し、打ち据えた。義姉も逆らわずに嵐の過ぎゆくのを待っていたが、兄が腹の子も朝日の子だろうと言い出し、床の間の太刀を抜いたことで風向きが変わった。
 兄は義姉の肩を蹴り飛ばして床に倒すと、子どもだけは、と泣き叫ぶ義姉の姿を憎々し気に見返して、迷いなくその腹に向かって太刀を突き立てた。身の毛もよだつ絶叫が屋敷中に響き渡り、朝日がその場に駆けつけたときには、血の海の中に倒れ伏した義姉の姿と、それを見下ろしながら「やはり私の子ではなかったわ」と高笑いをしている兄の姿があった。
 兄は、朝日が斬った。
 だが、どうして自分に兄が斬れたのか朝日にも分からなかった。激昂し、叫びを上げながら兄に向かって突進したところまでしか、朝日は覚えていなかった。気付いたときには、兄の首が義姉の横に転がっていた。あの瞬間、自分は阿修羅だったのではないか。朝日は血だまりの中心で泣いていたのか、怒っていたのか、それすら思い出せなかった。
 朝日ははっと我に返り、義姉が目の前に立っていることに恐れおののく。義姉はそっと朝日の頬を両手で包み、にっこりと笑う。「一太、一緒に行きましょう」
 手はぞっとするほど冷たかった。生者の温もりが微塵も感じられなかった。視線を落とす。手には刀がある。目の前の義姉はまやかしだ。斬れ。
 朝日は自分に言い聞かせる。だが、まやかしだったとして、どうして自分に義姉が斬れよう。秘かに思慕していた人を。無情にも命を奪われた人を。
「さあ、一太。わたしと、一緒に」
 刀を握る手が震える。迷いが虫の這うように自身の全身を巡り、哀惜が虫の刺すようにちくりとした痛みを残す。
 義姉は、死んだ。
 朝日は唇を強く強く噛みしめる。唇が切れて血が口の端から伝い流れる。沈丁花の香りが鼻に残る。目には涙が浮かぶ。鉄の味が朝日の心を固くする。
「義姉上、御免」と絞り出したように呟くと、その胸に向かって刀を突き立てる。義姉は信じられない、という顔をしている。
 女の声ではあるが、獣じみた醜い悲鳴が上がる。立ち込めていた霧がさあっと箒で払われたように晴れていく。義姉が立っていた霧の向こうには、巨大な獣の顔があった。朝日の刀はその右目に突き刺さっていた。
 獣は右前足を斜め下から掬い上げるように振り上げる。朝日はそれを飛びのいて避ける。獣の目から刀が抜ける。赤い目は瞳が別の生き物のように伸縮していた。それはどこか心臓の脈動を思わせた。
(やはり、幻影か)
 朝日はほっと胸を撫で下ろす。きっとあのまま義姉の甘美な誘惑に身を任せていれば、獣に八つ裂きにされていたに違いない。だが、それにしても悪趣味な術を使う獣だ、と朝日は忌々しく思った。獣でありながら、人の感情を弄ぶ。それも、繊細な部分を。まるで人の心を知るかのように。
 獣は右目を失ったことで慎重になったのか、じりじりと距離を保ちながら円を描くように朝日の周囲を巡っている。最早岩を足場にすることも捨てたようで、爪が泥をかき分け、踏みしめた泥が跳ねて赤銅色の体毛に降りかかっている。
(踏み込まねば、斬れまい。爪の一撃を躱せるか否か、それ次第だ)
 朝日は左足をやや広げ、足元の感触を確かめる。乾いている。力を込めても滑らない。刀を下段に構える。右側を大きく開ける。わざとそこに隙があるように見せる。
 獣の左半身がぴくりと震え、力が込められるのを朝日は見る。左前足の爪を頻繁に出し入れしている。よし、と自身の目論見がうまくいったのを見てほくそ笑む。
 朝日は地面を蹴り、前に向かって猛進する。草履が小気味よく地を走る。
 獣は大地を震わせるような咆哮をあげて跳ぶ。後ろ足の跳躍によって抉られた泥が宙を舞う。泥は樫の葉を揺らす。葉から水滴が弾け散り、はたはたと地に落ちる。
 刀の刃を返す。陽光が一瞬反射する。獣の爪の間合いに入る。
(左だ。左でこい)
 朝日は祈るように獣の顔を見る。獣の顔に勝ち誇った笑みが浮かぶ。獣の足がしっかと大地を噛む。首筋にちりちりと電流が走るような痛みを感じる。本能が告げている。術中にはまっていたのは相手ではなく、自分だ。そう悟って右に跳んだ。
 獣は左前足を地面に叩きつけるように突き立てると、力を溜めていた右前足を振りかぶり、渾身の力で朝日に向かって振り下ろした。視線が交差する。獣の目が朝日を追う。朝日の目は獣の首元を捉える。
 一瞬早く右に跳んでいた朝日のすぐ横を、うなりを上げて空気を裂きながら爪が通り過ぎる。袴をかすめて引き裂いていく。朝日は右足で着地すると同時に地面を蹴る。爪が土を噛んで、土くれが弾け飛ぶ。
 朝日は獣の懐に潜り込むと、刀を首に向かって振り上げる。表皮を裂き、肉に食い込む。獣は慌てて跳び退こうとするが、その時には朝日の手にはぞりっ、という骨を削る感触がある。叶わぬ抵抗を試みるように、獣は前足を引く。
(もう遅い)
 なお一層の力を込め、刀を振り上げる。獣の体が強張る。斬られまいと肉が硬直する。斬ろうと朝日の全身の筋肉が悲鳴を上げる。
 肉も骨も断ち切って血飛沫を上げる。涙のように血が滴り落ちる白刃は凄惨の一言に尽きた。舞う血飛沫は落陽の紅よりもなお紅く、夕暮れの空を染めた。
 獣の首は胴体から切り離されて転がり、岩にぶつかり止まった。胴体はゆっくりと己の死を確かめるように崩れ、横たわる。
 安堵した朝日は刀に付いた血を刀で二三度空を切って払い、そして懐紙で拭う。
 獣の前足がおもむろに持ち上がる。首を失ったのに、面妖な。と朝日が総毛だつ思いでそれを眺めていると、獣の足から真っ白な人の手が無数に伸びてくる。慌てて後ろに飛びのきざまに近づいてくる腕を刀で二本、三本と斬り捨てるが、躱しきれず、その内の一本に脇腹を掴まれてしまう。
 魂を引き抜かれるような寒々しい感触に、朝日は怖気を振いながらも掴んだ腕を斬り落とす。
 どうっと音がして、獣の足が地面に落ちると同時に、白い腕は消え去った。朝日が斬って地面に転がっているはずの腕も、どこにもなかった。また、獣のまやかしか、と冷や汗をかきながら刀を鞘に納める。
 胴体がまやかしを使うなら、首も。と朝日が獣の首の方を眺めると、今まさにその首がかたかたと震えだしていた。
 ぞわぞわと首から伸びる体毛が首を包み込み、やがて密度を増していき、赤銅色の卵のようになる。
 朝日は刀に手をかけながら恐る恐る近づくと、赤銅色の卵となった首に亀裂が入る。とどめを刺すべきかという思いが脳裏をよぎるが、もう何もできまいという侮りと、何が出てくるかという好奇心に抗えなかった。逡巡する内に、二つに割れる。その中にいたものを見て朝日は危うく腰を抜かしそうになる。
 獣の体毛の揺り籠の中にいたのは、小さな人の赤子だった。

 獣を斬ってから、十年が経った。
 朝日は領主より仕官を勧められたが、それを固辞して、領の外れにある、家主を獣との戦いで失った屋敷を譲り受け、そこで暮らし始めた。
 ふらふらと旅に彷徨うことはやめ、剣術の出稽古などで日銭を稼いだ。幸い食べ物は山に入れば猪や鹿はうようよしていたし、山菜も豊富だった。近くには川があって川魚も住んでいると、困ることはなかった。
 旅をやめたのは、獣の首から産まれた赤子を引き取ったからだ。
 妖の子かもしれない、と思いながらも朝日は引き取らずにはいられなかった。義姉の幻影を見て、子を産めず、育てることができずに子諸共命を奪われた義姉の無念を思えば、妖の子であったとしても、どうして捨て置くことができるだろう。
 赤子は、体毛が濃いことを除けば、何ら他の赤子と異なるところはなかった。人と同じものを食べ、人の言葉を覚えた。おまけに聡く、物事を飲み込むことが早かった。
 朝日は子に夕日丸と名をつけた。
 男やもめで子を育てた経験などない朝日にとって、夕日丸との日々は剣術の修行よりも辛く、そして充実感のある日々だった。領主からは再三所帯をもつことを勧められたが、妖の子を育てる罪を妻になる女にも負わせたくはなかったため、断り続けた。
 夕日丸は読み書き算術も瞬く間に習得した。剣術も朝日の技を次々と吸収した。それは川が上流から下流へと流れていくかの如くだった。今では同世代の少年では相手にならず、大人と稽古をするようになっていた。
 長じても、獣を思わせる体の特徴などは現れなかったので、朝日も安心していた。夕日丸の将来が楽しみですらあった。だが、その平穏も、口さがない連中によって破られてしまう。
 夕日丸の人並み外れて秀でた才覚に嫉妬し、恐れた者たちが、朝日がいずれは夕日丸を領の政治の中枢に入り込ませ、牛耳るつもりだ、と領主に讒言した。そして、朝日一人で獣を討伐してきたことは不審である。朝日は獣と何か繋がりがあったのではないか、と疑念を吹き込んだのだ。
 領主も年老いた。可愛い息子に盤石な領地を譲ってやりたいと思うあまり、佞臣たちの言葉に耳を貸してしまった。
 そして朝日は獣と結託して領内を混乱させた罪で捕縛され、処刑されることが決まった。
 朝日はそれに抵抗しなかった。抵抗すれば夕日丸の命はないと脅されていたからだ。夕日丸は泣いてすがったが、朝日はそんな息子を断腸の思いで「お前とは親でも子でもない。どこへなりと行け」と冷たく突き放し、縛について引かれて行った。
 夕日丸はおいおいと半日泣き続け、涙も声も枯れ果てた頃、父の愛刀を形見として差して、その夜行方を晦ました。
 朝日はその翌日、斬首に処された。首は河原に晒された。その処刑の場で夕日丸を見たという者があったが、彼の形相はまさに修羅のもので、その目には処刑を命じたものだけでなく、それを呑気に見物する群衆に向けても、憎悪を漲らせているように見えたという。
 その後、領内で夕日丸を見た者はいない。

 甲冑に身を包んだ一群が、丘の上から、かつて夕日丸が暮らした領地を見下ろしていた。
 領地側では軍勢の侵入に気づいてはいない。夜襲をかければ、何の備えもない領地は豆腐を切るより容易くものにできるだろう。
「見えるか、朝日姫。あれが、お前の祖父を謀殺した人でなしどもの住まう土地だ」
 日輪を模った黄金の飾りをつけた兜の男、これこそ長じた夕日丸であり、今は旭玄と名乗っていた。その旭玄が振り返って大きな弓を携えた美しい娘に声をかける。
「はい。父上。今こそ宿願を果たすときですね」
 娘は旭玄の子で、朝日姫と呼ばれていた。この場に朝日がいたら仰天しただろうが、この姫の容貌はどういうわけか、朝日の義姉に瓜二つだった。
「私はこの数十年考え続けた。罪は誰にあるかと。愚昧な領主か。卑劣な佞臣どもか。あるいはそれらにおもねる愚民どもか」
 旭玄は馬上から暗く静まり返った領地を見下ろして、父朝日の顔を思い浮かべた。思えば、欲のない人であった。と彼は父の清貧な暮らしや性格を懐かしく思い出していた。そこには必ず、市井の人々の姿があった。父は権力者ではなく、その土地に暮らす民衆の方に寄り添った生き方をしていた。
「もし私が民を殺せば、父はそんな私を非難するだろうな」
 朝日姫が父と轡を並べ、「朝日もそう思います」とくっきりとしたしわが刻まれた父の横顔を見上げて言った。
「私も自身の領地を持ってみて分かった。父のするように領民と接することはできぬが、土地など人がいなければ何の役にも立たん。耕す人がいて、種を蒔く人がいて初めて領地というものは作物を実らせるのだと」
 旭玄は腰に佩いた父の愛刀を抜き放つと、月光に晒して眺めた。数多の戦を、この刀とともに駆け抜けてきた。命の危機など数えきれないほどあった。だが、この刀が護符のように守ってくれたのだと信じていた。そして、その戦いも、今宵で幕引きだ。
「今宵を限りに私は一線を退く。領地のことは朝日、お前に任せる」
 旭玄が朝日姫を一瞥して言うと、朝日は仰天して、「女のわたくしにでございますか」と怪訝そうな目を向ける。
「民を見よ。耕すのも、種を蒔くのにも、男も女も関係なく仕事に携わっておる。なら、領地を治めるのにどうして女のお前がしてはいかんのだ。そんな道理があるか」
「しかし、あまり例のないことでございます」
 旭玄は恐縮した朝日を見て声をあげて笑って、「ならお前が前例となれい」と肩を叩くと、馬首を巡らせて、背後にいる、整然と並び、一言たりとも言葉を発しない訓練、統率された武士たちに向かって父の愛刀を掲げ、「兵どもよ!」と呼びかけた。
「今宵が私の最後の戦となる。それをこの地に選んだのは、この地でわが父が謀殺されたがためである。長らく親不孝をしてきたが、ようやく父の恩に報いることができるときがきた。
 領主将信の首は私自ら獲る。何人も手出し無用。また、わが父はこの地の領民を愛した。先に布告した通り、民衆に危害を加えた者、略奪を働いた者は厳罰に処する。努々忘れるな」
 一群は一斉に「応」と答える。それを見て旭玄は満足そうに頷き、「いざ、私に続け!」と叫んで馬を走らせる。
 崖を馬は駆け下りていき、何百頭もの馬の蹄は地鳴りのような音をたてて、山を震わせた。その馬の後を、徒歩の足軽たちが続いていくが、この足軽たちでさえ無駄口はおろか、無駄な動きひとつない、すみずみまで統率された軍勢だった。
 民たちは地震か山が崩れたか、と轟音に目を覚まし、起き出して窓から眺めたが、真っ黒な洪水のように見えた。人の影が一体となって巨大なうねりとなり、家を打ち壊されるんじゃないかと混乱したが、流れは民の家を避けて流れ、城へと殺到した。
 長く平和な時代を甘受していたその城には門を守る警護の武士でさえ少数で、詰所から出て来た者は旭玄に斬り殺されたり、朝日姫に射抜かれたりと、瞬く間に制圧された。門をこじ開けると、旭玄は軍を三つに分け、自身と朝日姫はその一つを指揮して真っ直ぐに領主の元へと向かった。残る二軍には城内の主要施設の制圧を命じ、かつて父の謀殺に関わった佞臣及びその子がいれば、逃がさず首を刎ねるように命じた。
 城内に入って旭玄たちは馬を降り、詰めていた武士たちがようやく起きる体たらくに呆れながらこれらを斬り捨て、領主の間を探した。
 城内を血に染めながら進み、旭玄たちは人が立てこもっている大きな間に辿り着いた。恐らくここに将信もいることだろうと当たりをつけ、配下に命じて扉を破ろうとするも、なかなか打ち破ることができない。
「下がっておれ」と配下を下がらせると、旭玄は一人で重い扉を押し始めた。旭玄の二の腕が隆起し、もし朝日がこの様子を見ていたら、あの獣のようだ、と絶句しただろう。その盛り上がった筋肉から発せられる化け物じみた怪力で、扉は少しずつ開き、扉の向こうで悲鳴が上がり始めた。
「射て、射てーっ」と上擦った甲高い叫び声があがる。将信だな、と察すると旭玄の腕にはなお力が入る。だが、このままではいい的になってしまう。そこで「朝日!」と叫ぶと、朝日姫はもう扉の隙間から狙いを定めて「心得ております」と敵の射手を狙撃した。
 射手がやられたことで意気消沈したのか、敵の抵抗が一気に弱くなり、旭玄たちは領主の間に雪崩れ込むことができた。
 そこにいたのは死んでいる五人の射手を除けば、領主の将信以外はみな女子どもだった。
「私がなんのために貴殿を攻めたか分かるか、将信殿」
 将信は刀を抜き、「し、知らん。貴様のような狂人の考えなど」と悲鳴のような声を上げ、朝日姫が父を庇うように立とうとするが、旭玄はそれを制して、「大丈夫だ。下がっていろ」と首を横に振った。
 朝日姫は不服そうではあったが、父の言葉に従って下がりはした。けれども矢を番えて将信が不審な動きを見せればすぐに射てるように構えた。
「貴殿の父が私の父を処刑したとき、貴殿は既に元服していて、一部始終を知っていたはずだな」
 なんのことか、と将信は怪訝そうな目で旭玄を眺め、やがて思い出したのか、恐怖をありありと表情に浮かべて、「獣と、獣の子か!」と恐怖の中にも嘲りを滲ませて叫んだ。
 貴様、と旭玄の後ろに控えていた武士たちが主を侮辱された怒りから怒気を漲らせて声を上げたが、旭玄の腕の一振りで武士たちは凪いだ湖面のように静まった。
「父は謂れのない罪で謀殺された。獣を退治した英雄として遇されるべき父がだ」
「だ、だが、それも獣と結託したことだと家臣たちが――」
 旭玄の目が鋭く光った。「貴殿はそのような妄言を信じたのか」
 いや、わしではなくて父がだな、と口をもごもごとさせながら、言い訳めいたことを言う。くだらぬ親子だ、と旭玄は自分の中の血がふつふつと煮えてくるのを感じながら、その一方で冷えて研ぎ澄まされるような感覚も味わっていた。
「私は忘れぬ。あの日、父の首が落とされ、晒し首にされた屈辱を。父の無念を。だからあの日誓ったのだ。いずれ力をつけてこの地へと舞い戻り、必ず貴殿の首を父の墓前に捧げんと」
 ひいっと将信は悲鳴を上げ、尻もちをつく。袴に黒い染みがみるみる広がっていく。
「くだらぬ、くだらぬぞ、将信。私と立ち合うくらいの気概を見せぬか」
 旭玄は将信の襟元を掴んで立たせようとするが、完全に腰が抜けてしまった将信は立ち事がままならない。生まれたての小鹿のように震えている始末だ。旭玄もこれには呆れ果ててしまって、床に投げ、叩きつける。
「父上、朝日がやりますか」
 いや、と旭玄はかぶりを振って、父の愛刀を抜いて構える。「斬るぞ、将信」
「お待ちください」と将信と旭玄の間に割って入った影があった。見ると齢十にも届かないだろうという子どもだった。
「貴殿は」、静かに旭玄は問う。その威圧感に子どもは押され、一瞬目を瞑ったがすぐにかっと目を見開いて旭玄を見返し、「将信の末子、鉄太郎と申します」と胸を張って名乗った。
 ほう、と旭玄も瞠目し、口元を自然と緩めながら、「貴殿が相手してくれると申すか」と訊ねた。
「お許し願えるのならば。その代わり、この鉄太郎の命に免じて父の命は助けていただきとう存じます」
「私が嫌だと言ったらどうするかね」
 鉄太郎は父の刀をとり、「そのときは、一族郎党すべてお斬り捨てください」と苦笑して刀を構える。切っ先がかたかたと震えていた。腕に覚えがあるわけではないのだろう、と旭玄はすぐに見破った。
 だが惜しいな、と思った。自分を前に、怯えて失禁した父に失望するのでもなく、あくまで孝を貫く、ましてや年端もいかない少年がだ。この少年は長じれば随分な人物になるぞ。だが、将信の元ではだめだ。将信の物差しではこの大器を計りきることはできまい。顎を擦りながら、旭玄は考えを巡らせた。
「父の命は助けられん。だが、それ以外の女子どもは助けようと私が言ったらどうするね」
 鉄太郎は項垂れ、「仕方ありません。お慈悲をいただけるだけでも感謝せねば。しかし」と言って顔を上げる。涼やかな目元の、よい顔だと旭玄は思った。
「父とわたしの恨みは一族の誰かに宿り、いつか復讐するでしょう。今宵のあなたのように。ですから、殺すのならば根絶やしにされることをお勧めいたします」
 旭玄は呵々大笑し、一しきり笑った後で父の愛刀に視線を落とし、「お許しくださいますか」と誰にともなく呟くと、刀を納めた。
「鉄太郎」
 はい、と刀を油断なく構えたまま、凛とした声で返事をする。
「将信の命を助けよう。その代わり、鉄太郎、お前は私に、いや、朝日姫に仕えよ」
「父上?」
 朝日姫は祖父の無念は寝物語に聞かされてきて育ったので、父のこの変心が理解できなかった。ましてその仇の子を自分の下につけようなどという意図がまったく分からない。
 旭玄の方でも朝日姫の心根を不服そうな響きを帯びた声音で悟ったのか、苦笑いして、「お前には分からんか、この少年の可能性が」と眩しそうに眺めて言った。
「確かに勇敢な子ですが……」
「人を見る目を養え、朝日。人の上に立つのならば」
 ですから、と朝日姫は我が意を得たりと父の顔にずいっと近づいて、「未熟な朝日ではなく、まだまだ元気な父上が国を治めてくださいませ」と言った。
「いや、私は引退だ。心の中にあった雲が晴れてしまった。そうなった者は、何も望まなくなるのだ、我が父のように」
 もう、と憤慨しながらも朝日姫は鉄太郎に近付き、腰を屈めて彼と同じ目線になり、「わたくしに仕える気はありますか」と優しく問うた。
 鉄太郎は美しい姫の顔が間近に迫って赤面し、目を伏せてしまったが、「は、はい」と答えて、自分が棒立ちになっていることに気づいて慌てて膝を突いた。
 確かに、賢く、忠義の子かもしれない。朝日姫もそう考えだしていた。
 すると、奇声を上げながら将信が立ち上がり、脇差を抜いて猛然と朝日姫に突進した。姫と将信の距離は近く、いかに弓の達人の姫でも、矢を番えている暇がなかった。旭玄の悲鳴に近い「朝日!」という叫びを聞いて、将信はにんまりと笑った。
 姫は間に合わない、と顔面を蒼白にして、刃を受ける覚悟を決めたが、そこに小さな影が割って入ってきて、将信の額を刀でばっさりと斬り捨てた。鉄太郎だった。だが将信が振った脇差が鉄太郎の腕もかすめており、鮮血が腕を伝って刀の柄から流れ落ちた。
「鉄太郎!」、朝日姫は声を上げて、倒れそうになる少年を後ろから抱きとめる。
 姫は鉄太郎を座らせ、短刀を抜いて自身の着衣の袖を切り裂いて、鉄太郎の傷口に巻いて止血する。
「なぜこんな無茶を。それにあなたの御父上でしょう……」
 姫の困り顔に、鉄太郎は力なく微笑んだ。
「父から教えられました。主君には命をかけてお仕えせよと。わたしはそれを守っただけです。相手が、それを教えてくれた父であったとしても」
 何という聡さだろう、と朝日姫は胸を打たれて、鉄太郎をしっかりと抱き締めた。鉄太郎は姫の胸の中で真っ赤になっていた。
「父上、鉄太郎はわたくしがもらい受けます」
 旭玄は笑って、「もとよりそのつもりだわ」と姫と鉄太郎の二人を微笑ましく眺めた。
 部下に奥方含め女子どもを丁重に遇するように命じ、勝どきを上げさせた。
(父上、分かっておりました。私が父上の子ではないことを)
(化け物の子なのでしょう? それでも父上は私を育てて下さった)
(それがどれだけの苦労と苦悩があるか、親になった私には分かります)
(だから私も父上を真似てみようと思うのです。敵の子を育てるという形で)
(私がこうして成長したように、私も鉄太郎を育ててやりたいと思うのです)
 夜風に当たりながら、旭玄は父の愛刀に向かって語りかけた。刀が答えることはない。でも、そこに話しかければ、父はいつものようにうんうんと話を聞いていてくれているような気がしてならないのだった。
 だが、今度は話を聞いてもらうのではなく、聞いてやらねば。鉄太郎を気に入ったのか、朝日姫が離そうとする気配がない。
 やれやれ、困ったものだ。

〈了〉

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