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雫姫

 むかしむかし、戦国の世のことでした。
 え? 昔話は辛気臭くていやだ?
 いや、困りましたね。私があなたに語って聞かせる話など、これくらいしかないのです。それもこんな古寺に雨を逃れてやってきた縁というもの。大事になさりませ。
 では、気を取り直しまして。
 ある東の国に鉄橋(かなはし)という殿様がおりました。鉄橋の殿様は一介の侍の身から大名まで成り上がった成功者でした。さすがに太閤様には敵いませんが、国での権勢いや増すばかりで、戦場に出れば並ぶものなき剛の者、とくれば、その増上慢のほどは知れようというものでしょう。
 この鉄橋の殿様には一人娘の雫姫がおりました。この雫姫、大層可憐な姫君なのですが、どこか雨の日の紫陽花を思わせるような、見る者に物悲しい印象を与える、染み入るような風情のある美貌をもった姫でした。
 ある年、鉄橋の地が大飢饉にみまわれました。一年の間ずっと雨が降っていて、作物が全滅してしまったのです。
 鉄橋の地にはある噂がありました。雫姫が涙するとき、鉄橋の地も涙する、と。事実雫姫は一年の間自室に塞ぎ込んで公の場には出ず、父親の鉄橋は何の根拠もない噂だと激怒して、噂を口にする家臣がいようものなら首を刎ねてさらし者にし、家臣や領民の口を塞ぎました。
 え? 鉄橋という家はこの辺りに残っていないって?
 お侍様、話は最後まで聞くものです。盛者必衰、とはお侍様ほど教養がありますれば、ご存じの言葉でしょう。
 鉄橋は食糧難を解決するために、近隣諸国から強奪する策をたてました。いや、それは策と呼べるほどのものではありますまい。単に配下の者に山賊の真似事をさせようというのですから。
 その頃鉄橋には近隣諸国と戦をするまでの地力はありませんでした。飢饉はもちろん、雨は土砂崩れや洪水を引き起こし、家臣や領民は疲弊しきっておりました。おまけに鉄橋自身が無作法な振る舞いで太閤様の不評を買って領地を切り取られてしまっていたのです。
 それで山賊の真似事を始めたわけですが、今度は本物の山賊との間に小競り合いが起こるようになりました。さすがに鉄橋の山賊紛いの方が装備がいいので山賊ごときに後れをとることはありませんでしたが、それでも地の利を生かして奇襲されると、少なくない犠牲を出すこともございました。
 しかしこの鉄橋の作戦も近隣諸国に露見し、激しく糾弾されるようになると、鉄橋もいよいよ進退窮まってきたのか、苦し紛れに領内にお触れを出しました。
「雫姫の涙を止めることができたものに、望みのままの褒美をとらせる云々」
 お触れを見て山のように人がやってきて、城への橋は連日行列を作っておりました。けれど、奇想天外な芸を見せた大道芸人も、笑い話をさせたら東国一を吹聴する江戸の小六だというものだとか、ほんとに多くの人が挑戦しましたが、雫姫の涙を止めることはできません。驚くことも、笑うこともなく、たださめざめと泣いているのです。
 あるとき、もう諦めの境地にあった鉄橋の元に、一人の僧が訪れます。まだ若い僧でした。
 彼が平伏し、顔をすっとあげたときの、雫姫の驚いた顔。まるで幽霊でも見たかのような青ざめた顔を、父親の鉄橋は気づいていませんでした。ぶすっとしたまま、つまらなさそうに鼻毛を抜いていました。
 雫姫はその美しいかんばせを震わせながらも平静を保っておられましたが、今にも立ち上がりたそうにうずうずしているのが分かりました。
 青年の僧はにっこり微笑むと、話し始めました。
「私は元は侍でした。ある殿様にお仕えし、お傍で戦功をあげて取り立てていただこうと戦場を駆け巡っておりました。
 それが、ある戦場のことでした。いつもの小競り合いなどではなく、大きな戦です。私は喜び勇んで戦場へ出かけていきました。それは激しい戦いでした。槍は折れ、馬は斃れ、辺りには鎧武者の死体、死体、死体……。私は地獄の一端を垣間見たのかと幻視するほど、そこは血の臭いが濃密に立ちこめ、死の気配がくすくすと私を嘲笑うように通り過ぎていくのです。
 そこへ私がお仕え申し上げる主が馬に乗ってやってきました。私の他数名はまだ息があったでしょうか。激戦を戦い抜いた我らに労いの言葉でもあろうか、と神妙に伏して待っていると、私の頭の上にぺっと唾を吐いて、軟弱ものが、恥を知れ、と罵倒して去って行ったのです。
 私は、戦場のすべては主が背負ってくれるものだと思っておりました。敵の死も味方の死も。ですが違ったのです。では、だれがこの悲しみと苦しみに満ちた、血塗られた闘争の果てを背負うのか、と問うたとき、私の目の前に観音さまが現れました。
 観音さまは私に告げました。
 この大地は悲しみの涙のために弱り、自らを保つことも、実りを私たちに分かち合うこともできなくなるでしょうと。そのときのために力を蓄え、大地に悲しみをもたらす悪しき暴虐の主を排しなければならぬ。そしてお前はそれを背負い、仏の道を歩まねばならぬと。それは悟性をもったものにしかできぬことであるからと。
 それゆえに私はこの日、この場所に馳せ参じました。
 雫姫。あなたをお守りすることが私の使命であり、誓いでありました。ですがもう私の身は仏の道に捧げたもの。あなたさまお一人をお守りするわけにもまいりません。ただ、今この時だけは、仏さまもお許しくださるでしょう」
 僧が立ち上がると、雫姫も立ち上がり、彼の腕の中へと飛び込んでいきました。何かがおかしいと鉄橋がようやく気づき、「出あえ、出あえ」と叫んだときには、姫は青年の腕の中で安堵したように微笑み、涙は止まっておりました。
 雲間から陽の光が差し込み、城内を照らすと、駆け付けた侍たちは青年ではなく、鉄橋を取り囲みました。
 鉄橋は何の考え違いをしておるか、と一喝しますが、涼しい顔の青年は姫の顔をその袖で覆い隠し、「考え違いではございません。城内私の意を受けたものばかり。お覚悟を」と冷たく言い放ちました。
 獣のごとく吼えると、鉄橋は刀を抜いて振り回しましたが、遠間から槍で突かれて、一本、二本、と体に刺さるたび、う、むっと唸って刀を振る力が弱くなり、やがて力尽きて膝を折ったので、鉄橋の首は刎ねられました。
 侍たちは僧の青年こそ次の主に相応しいと、散々領主の座に就くように求めました。雫姫も必死に懇願しましたが、僧は「私は仏に従う者であって、人を従える者ではない」と語って行方を晦ましてしまいました。
 噂では、雫姫も出家して尼となり、鉄橋の地は近隣諸国の闘争の火種となりましたが、徳川様がよいお殿様をあてがってくれたとのことです。
 え? なぜそんなにも詳しくお家騒動を知っているのかって?
 ここは寺。ご覧の通りの古寺荒れ寺ではございますが、仏さまはいらっしゃいます。なんでも見通していらっしゃるのですよ。
 お侍様。そのように物騒なものを抜かれては剣呑ですね。私とて武の心得はあります。襲われれば身を守りますよ。
 なるほど。鉄橋の縁者の方でしたか。それでは拒む理由はございますまい。
 さ。参られよ。お相手仕りましょう。

〈了〉

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