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声、さやけく

 ナルミは街の失せ物管理事務所で働いている。
 週四日勤務。時間は八時から十六時まで。土日休み。福利厚生は充実しているし、有給休暇もとりやすい。業務内容も失せ物のデータ管理の他は来所者や電話の応対くらいで、難しいことはなかった。
 彼女は会社説明会で目にした、住宅メーカーの華やかな女性営業に憧れて、第一志望をその住宅メーカーにしていたのだが、面接であえなく不合格となった。その後も受ける会社受ける会社に不合格の烙印を押され続け、学校の就職担当者が「君にはここしかないと思う」と言って持ってきた求人票が、ここ、「市立失せ物管理事務所」の事務職のものだった。
 立場は地方公務員に準ずるらしく、初任給も民間と比べても悪くない。そしてなにより彼女の関心を引いたのは、就業時間中、事務に支障のない範囲で読書をしていて構わないという、彼女にとっては破格の待遇だった。
 なんでこんないいところが埋もれていたんだろう、と首を傾げながらも、生来の能天気さで、わたしを待っていたのかも、と期待に胸を膨らませて、四月一日に事務所の門をくぐることになる。
 そして彼女を待っていたのは、街の大通りからは二本も三本も入ったところにあるような裏路地の、こじんまりとして、飾り気も洒落っ気もない無味乾燥なコンクリートの建物だった。
 真鍮のプレートが扉に掛かっていて、「市立失せ物管理事務所」と書かれていたが、彫られてインクを流し込まれたであろうその名称は、ほとんど剥げかかっていて、ただの板になってしまっていた。
 彼女はそのときになって初めて、自分が就職に失敗したのだということを悟ることになる。
 そして、ときは四月を過ぎ去り五月を迎えようとしていた。

 キーボードを叩き、エクセルの表のステータスを、先ほど持ち主が取りに来た高級な日傘について受け渡し済にして、その日増えた失せ物を欄の下段に追加していく。ナルミの基本業務はそれだけだった。後は来所者と電話の応対だが、こんな裏路地に事務所があるせいで、来る人はほとんどいない。電話は一日に多い時で二十件ほど。月曜日の朝が一番多い。金曜日までのどこかの曜日で失くしてしまい、土日で気づいて月曜の朝一で電話をかけるというパターンが案外多いのだ。学校にしろ、仕事にしろ、人はその物が必要になったときにしか思い出さない。考えようによっては薄情とも言える。
 ほぼ一か月経って、仕事とはこんなものでいいのだろうか、と漠然と不安になるナルミであったが、業務時間の大半を読書に充てられる職場などまずないので、贅沢なことは思うまい、と自分に課していた。
 所長が置き忘れていった昨日の朝刊にふと目をとめる。そこには巷の噂が重大な事件のように記事にされていて、ジャーナリズムって何なのかしら、とナルミは首を傾げてしまう。
 巷では、最近その人の大事なものを奪って瓶に詰めてしまう、という怪事件が続いているという噂だった。記事を読んで物騒だなあとは思いつつも、世間の喧騒から離れたこの職場はそんな怖い事件とは無関係、とナルミは対岸の火事を眺める心持ちだった。
 失せ物で一番多いのは傘だった。人は雨が降っているときには傘を必要とするが、雨が止んだ途端に忘れてしまう。日傘も同じだった。日差しがぎらぎらと照りつけていれば、日傘を差すけれども、太陽を雲が覆い隠し、どんよりとした空気が漂い始めると、日傘のことを失念してしまう。他にも筆記具やイヤホン、ハンカチや帽子、変わり種ではダンベルや聖書(不信心だとは言われないのだろうか)。ナルミが一番驚いたのは純金の鵞鳥の像だった。
 これらは失せ物に気づいた一般市民が持ち込むこともあるが、それはごく一部で、大半は事務所に所属する「巡回班」と呼ばれるチームが街をくまなく捜索し、見つけ集めてくるものだった。
 「巡回班」は拾ってきた物の一覧を作成し、ナルミはその一覧を基に管理表を作って管理する。だからナルミは実際に失せ物を目にする機会は少ないし、「巡回班」の面々とも最低限のやりとりしかしなかった。なにせ彼らは四六時中街中を巡っているものだから、話しかける機会もそうそうなかったのだ。
「ヤア、ナルミ。今日は面白イ物ハ入ッタカナ?」
 顔を上げると、「失せ物管理技師」のクリストファーが片言の日本語で気さくらしい様子を見せ、ひらひらと手を振りながら事務所に入って来た。「日本ハ四月デモ暑イネ」と去年の納涼祭で配布された団扇であおいでいる。
 クリストファーはこの事務所でただ一人の「失せ物管理技師」であり、細身でありながら長身の中年の男だが、日本人の中年の男のような脂ぎったところがなく、かさかさと乾いて音をたてる枯れ木のような人だな、とナルミは思った。血色はよく、彼曰く「完全無欠ノボディ」らしく、病気も一切しない体のようなのだが、クリストファーからは乾いた気配しか感じなかった。
 生国はアイルランドで、大のイギリス嫌いなのだが、見た目には英国紳士という言葉が似合いそうだった。白銀の頭髪を後ろでひっつめにして、アクアマリンのような淡いブルーの瞳は魅入られて吸い込まれそうなほどに美しい。髭は嫌いだ、と毎朝カミソリで丁寧に剃り上げるため、見た目には若々しい。彼が五十代だとは誰も思わないだろう。三十代後半か四十代前半。それくらいにしか見えない。
 「失せ物管理技師」は国家資格で、かなり厳しい試験を乗り越えないと取得はできないと所長の権藤も言っていたから、クリストファーは優秀なのだろうと思う。けれども、日ごろの彼の軽口を叩く様子を見ていると、そんなに優秀な人には見えないなあ、とナルミは腕を組んで首を傾げてしまうのだった。
「クリス。今日の一覧はこれです」
 ナルミはあらかじめ印刷しておいた一覧をクリストファーに手渡すと、自分はエクセルの画面を眺めた。
「フウン。イヤリングニ手袋、文庫本……ホウ」
 一覧表に視線を落としていたクリストファーが目を細めると、「ナルミ。興味深イ物ガアルネ」と好奇心を抑えきれない子どものような声で言った。
「興味深い物?」とナルミは画面をスクロールさせていくが、ぴんとくるものはない。純金の鵞鳥のようなインパクトがある失せ物があるようには見えなかった。
 不意に電話が鳴り、ナルミは顔を上げてクリストファーを見やると、彼は肩を竦めてどうぞ、と手で電話を指し示す。頷いて、ナルミは電話をとる。
「はい、こちら市立失せ物管理事務所です」
 電話に出るが、相手側からは応答がなく、静まり返っていた。息遣いもなく、電話の先にただ暗闇が広がっているような、その空虚さと冷ややかさに、ナルミは思わず身震いしたのだが、それでも臆せず、もう一度失せ物管理事務所であることを伝える。
 すると、すうと息を吸う音が聞こえて、「失せ物管理事務所?」と幼い男児のようにも、年老いた老婆のようにも聞こえるざらついた声で、電話の主は問うた。ナルミは再びぶるりと震えた。魚の鱗を逆なでするような気色悪さがその声にはあった。
「はい、そうです。失せ物のご相談ですか」
 声が若干震えたのを聞いて、リストをじっと見ていたクリストファーがおもむろに顔を上げた。
「ボ、ボボボ、ボク、探してる物があります」
「はい、どのようなものでしょう」、言いながら、ナルミは自分の心の中の不穏な思いがじわじわと水が染みるように広がってきているのを感じた。
 エクセルの検索窓を開いて、相手からの応答を待つ。電話の主はすうはあと呼吸を繰り返すばかりで、肝心の失せ物のことを言おうとしない。ナルミは相手の神経を逆なでしないように、ゆっくりと穏やかな声でもう一度訊ねた。「お探しの物はなんでしょう」
「ボ、ボ、ボボ、ボク、影」
 思いもよらない言葉だったので、咄嗟に「影?」と何も考えずに鸚鵡返しに口にしてしまった。口にした後で、相手がはっと息を飲んで黙ったことに気づき、ナルミは失敗した、と内心で舌打ちする。
 クリストファーが近づいてきて、電話を替わるよう目とジェスチャーで示す。そしてナルミが受話器を耳から離そうとしたところで、相手はその動きが見えているかのように早口で告げる。
「ボクは影がない。だからナルミ、お前からもらっていく」
 相手は、自分の名前を知っている。そのことが衝撃だったのと、影を奪うと宣告されたその声があまりにも不快な響きの声だったので、ナルミは硬直してしまった。声は無数のハエの羽ばたきの音のようだった。その音の向こうに黒く暗い、死の臭いがした。
 クリストファーはナルミから受話器をひったくって、耳に当てたが、彼が聞いたのは電話の切れた電子音だけだった。
「ナルミ。相手ハ何ヲ言ッテイタ?」
 ナルミは呆然自失の体で、顔をクリストファーに向けると、喘ぐように、「影がなくって、わたしから奪うって」とようやく口にした。
「モシカスルト。ナルミ、今日ノリストの下カラ三番目ダ」
 下から三番目? ナルミはマウスを擦って画面をスクロールさせる。下から三番目のリストにはただ「瓶(内包物注意)」と書かれていた。
「コノ瓶ヲナルミハ見タカ」
 ナルミは首を振った。「クリスも知ってるでしょ。わたしは失せ物を見ないって」
「ソレハソウダッタナ。俺ハコノ瓶ガドウニモ引ッカカルンダ。チョット調ベテミル」
 クリストファーは鍵の管理庫の中から地下の失せ物管理室の鍵を取り出すと、「行ッテミヨウ」とナルミの手を取って立ち上がらせる。
「ちょ、ちょっとクリス。事務所の番はどうするのよ」と狼狽してナルミが口にすると、「ソウダッタナ」とクリストファーは悪戯っぽく笑って、事務所を施錠し、入り口の吊り看板をクローズにひっくり返して、カーテンを引いてしまう。
「所長に怒られるわよ」
「所長ノオ小言ヨリ、ナルミノ身ノ安全ノ方ガ大事サ」とクリストファーは慣れ親しんだナルミでさえどきっとさせるようなシリアスさの声で、微笑を浮かべてそう言った。
 失せ物管理事務所には、失せ物を集積しておく、失せ物管理室というだだっ広い部屋と無数の小部屋から成る、収蔵庫があった。地上には日々集まり続ける無数の失せ物を集めておけるだけの面積の建物は建てられないので、地下に建築した。大部屋の面積は東京ドームに匹敵するものがあると言われ、そこからアリの巣のように無数の通路と小部屋があるので、中は迷宮と化していた。「失せ物管理技師」のクリストファーしか、その全容を把握していない。この管理室に出入りする「巡回班」でさえ、大部屋から先に足を踏み入れることはないし、できない。ましてや事務のナルミならなおさらだ。
 クリストファーに連れられ、事務所の奥の扉を開けると、その先は螺旋階段になっていた。ビル五階分はあっただろうか、階段を降りていくと、重い鉄の扉が現れ、クリストファーは鍵を差し込んで扉を押し開けていく。錆びついた扉は軋むような擦れる音をたててゆっくりと開き、その中の光景をナルミの眼前にさあどうぞと言わんばかりに広げた。
 中は雑多なものの山だった。それも一つや二つではない、無数の蟻塚のような失せ物の山がそびえていた。管理室の中は広く、地下にあるだけあって冷え冷えとしていて、見上げても天井は見えなかった。失せ物の山の中にはナルミの身長の何倍もの高さがあるようなものもあった。その山は全体を見ると雑多なものの集合体でしかないのだが、中にある物の一つ一つに目をやると、そこには銀のトレイやティーポット、自転車に三輪車、古着に靴に……とかつて生活に資する物たちであったことが窺われて、なんだか物悲しいような、寂寥が胸に吹き込まれた気がした。
「ナルミ、コッチダ」
 クリストファーはその山をものともせずにすいすいと進み、幾つもの山の間の向こうで手を振っていた。その姿の小ささから、ここはどれだけ広いのだろうとナルミは思いを馳せた。
「君がナルミだね」
 声がして振り返ると、低い山の上に着物姿の少年が座っていた。漆黒の髪に目。それとは相反するように、肌は透き通るほどに白い。
 ナルミは声のクリアな響きの中にヤスリのようなざらつきを感じて、思わず後ずさった。その様子を少年の目は見逃さず追い続け、にこにことしている。
「あなたは、誰?」とようやく言うと、ナルミは山の一つにぶつかり、頭の上に落ちてきた文庫本の衝撃に目を回して尻もちをついた。落ちてきた本は、影を売り渡し、失ってしまった男の物語だった。
「君の影をもらう、そう伝えたと思うけど」
 にっこりと笑むと少年は山から飛び降り、風のような速さで駆け寄ってくる。ナルミは山から突き出ていたステッキに掴まって立ち上がると、少年の足が自分の方へ伸びてくるのを見て、咄嗟に右へ飛びのいた。別の山に強かに体を打ち付けてしまうが、失せ物の山はびくともしない。
 少年の足はナルミの影の少し手前を踏んでいた。少年は舌打ちすると、憎々し気な眼差しをナルミに浴びせる。
 影を踏まれたらいけない。
 ナルミはそう直感した。昔、そんな鬼ごっこをしたことがあったっけ。ふと子どもの頃の無邪気な光景が蘇ったが、これは「ごっこ遊び」じゃない、と考えて背筋がうすら寒くなると、叫び声を上げながら寄り掛かった山の中からボールを掴み取り、少年に向かって投げつける。
 ボールは軽々と少年の足に弾かれてしまうが、その隙にナルミは走り出す。
 山の隙間を右に左に縫って避けるのは容易なことではなかった。ナルミはヒールのあるパンプスを履いていたし、生来運動が得意な質でもない。そして恐怖に心を急き立てられているとあれば、足取りは不安定になり、山にぶつかりながら加速しきれない。
 少年は着実に距離を縮めてくる。低い姿勢で、ナルミ以上に走りにくいであろう高足の下駄をかんかんと鳴らして、ナルミの影を踏まんと追いかけてくる。
「逃げても無駄だよ、ナルミ。ほら、ご覧。君の影はボクのものになりたがっている」
 ナルミが振り返ると、彼女の影は光源が変わったわけでもないのに、するすると少年に向かって伸びていく。「いや」と叫んで彼女はなおも懸命に足を動かすものの、走っても走っても、進んでいる心地がしなかった。進めば進んだ分だけ、影が自分から離れていく。少年に踏まれるのは時間の問題でしかないとナルミにも分かっていた。けれど、走り続けた。
「仕事も何も思い通りにならない人生なんだから、影ぐらい素直に言うことを聞きなさいよ!」
 ナルミは地面から影を引きはがすようなつもりで体を捩じって、柔道の背負い投げのように回って失せ物の山の一つに体当たりをした。すると少年に踏まれる、すんでのところで影はナルミの方にひゅっと引っ込み、山はぐらぐらと安定を失って揺れ、少年の方に大きくしなったところで根元から折れ、大量の失せ物が少年に降り注いだ。ナルミの上にも失せ物が落ちてきたが、埋まる前に手を掴まれ、引っ張り出されたおかげで生き埋めにはならずに済んだ。
「大丈夫カ、ナルミ」
 クリストファーの心配そうな顔に泣き出しそうなのを堪えて、だるまのような顰め面になって「大丈夫じゃない」と震える声で応えた。
「あいつ、死んだの」とナルミがクリストファーに寄り掛かりながら立ち上がり問うと、彼は目を瞑って首を静かに横に振った。
「奴ハコレグライデハ死ナナイ。ソンナタマジャナイ」
 そのクリストファーの言葉に呼応するかのように崩れた失せ物の山が弾け飛び、失せ物を雨のように降らせた。その雨の向こうに、少年は立っていた。目が赤く輝き、犬歯が異様に発達して牙となっている。心なしか体も大きくなっている気がした。
「ナルミ。ボ、ボ、ボボボ、ボクに影を寄越せ。その影を、ボクに」
 少年の体の中心から黒い、蛸の足のような触手が何本も伸びて、彼の体を覆っていく。やがて少年の体は黒い人型の塊となった。だが、悲しいことに、いくら体を影のような漆黒で覆おうと、彼の足元には影がないのだった。
「アアナッタラ手ニ負エナイ。逃ゲルヨ、ナルミ」
 クリストファーに手を引かれて、再び山の間隙を縫うようにして走り出す。
 黒い塊となった少年は、この大きい広間の空気を揺るがすほどの大音声で咆哮をあげると、失せ物の山などお構いなしに薙ぎ倒しながら突進してくる。
「どうするの、クリス。このままじゃ追いつかれる」
 分カッテル、とクリストファーは唇を噛み締め、眉間にしわを寄せていた。何かに集中しているが、集中しきれず没頭できない。ナルミは通勤電車で本を読んでいたとき、前に立った学生風の若い男のヘッドフォンから漏れ聞こえる音楽に心乱され、文字が滑って一行も読み進められなかったことがあった。そのときの自分の顔に似ているんじゃないかと、ナルミは思った。
「気配ハ感ジルンダ。デモ、場所ノ特定マデイカナイ」
 気配? ナルミはその言葉に引っかかりを覚えた。先ほどから、何かが自分を呼んでいるような、そんな気がしてならなかった。その呼んでいる存在は「気配」と呼べるほどささやかな存在だった。
 クリスには、あの声が聞こえないの?
 ナルミの耳に届く、幼子の悲鳴のような声。助けを求めている。失われたものを求めて、悲痛な叫びを上げている。その声に、ナルミの胸は掻き乱され、ざわざわとした不安のようなものが広がっていく。放っておけば、よくないことが起きるような予感に近いもの。
 声に従え!
 内なる自分がそう叫んでいるのをナルミは感じていた。何が正しい行動なのかなんて分からない。入所して一か月、失敗ばかりだ。仕事の覚えだって早いわけじゃない。それでも、社会に出たからには、誰かに手を引いてもらうばかりじゃなく、自分で考えて決断しなきゃならないときだってあるんだ。そして、今がそのときなんじゃないのか。ナルミは考え、決断する。
「クリス、こっち!」
 ナルミはぐいとクリストファーの手を引いて、右方向の山の隙間に入り込む。そこは先ほどまでよりもさらに細い隙間しかなかった。つまり移動に慎重さを要するため、進行速度が遅くなって追いつかれる可能性が高くなる。クリストファーはナルミの突然の行動に困惑しながらも、入り込んでしまった以上、戻るという選択肢はないとナルミの背中を追う。彼には不思議とナルミの背中がそれまでよりも大きく見えた。
 黒い塊は失せ物の山を薙ぎ倒しながらも、ナルミたちが山の密集したエリアに入ったために、倒れた失せ物たちに足をとられて、進む速度が落ちていた。
 クリストファーがコレナラ行ケルカ、と安堵した次の瞬間、黒い塊は腕に当たる部分から無数の触腕を伸ばして、二人のすぐ後ろまで迫った。触腕は失せ物の山を抉り取っていた。抉られてバランスを崩した山同士が崩れて小さな山を築き、そこを黒い触腕がさらに抉り取っていく。アノ射程ニ入ッタラオシマイダ、とクリストファーはぞっとする。
「大丈夫だよ、クリス。もう見つけたから」
 見つけた、というナルミの言葉にはっとして、クリストファーも気配を探る。そうすると、仄かに光る「それ」の気配を感じ取る。クリストファーの胸に去来したのは、喜びと安心、そして、「失せ物管理技師」である自分よりも「それ」を早く見つけていたナルミへの疑念だった。
 クリストファーの思考がその場において余計なことまで考査を始めてしまったことにより、彼の反応が鈍った。そのため、彼はすぐ後ろに迫っていた触腕に気づくことができなかった。
「クリス、危ない!」
 ナルミは失せ物の山に突っ込んだ手を引き抜くと、振り返ってクリストファーを突き飛ばした。クリストファーとナルミの視線が交差した瞬間、彼女の瞳に絶望の色がないことを彼は見て取って、なぜだろうかと考えさせられた。そして彼女の耳がこちらの声を捉えることができるうちに、叫ばなければ、と思った。
「蓋ダ! 蓋ヲ開ケレバイイ」
 ナルミの笑顔は、黒い触腕に彼女の姿丸ごと飲み込まれて消えた。そして彼女の影だけが、その場に取り残された。
 黒い塊はのっそのっそと重い足取りで失せ物たちを踏み越えてやってくると、クリストファーの前に、ナルミの影の前に立った。
「ああ、これでようやくボクは、影を取り戻せる」
 くぐもった声だった。幾つもの声、幾つもの感情が寄せ集められたような不協和音。クリストファーは耳を塞ぎたいくらいだったが、そうせず、黒い塊を睨みつけ、言う。
「影ヲ取リ戻セル。確カニナ。ダガソレハ、ナルミノオカゲダトイウコトヲ忘レルナ」
 黒い塊はナルミを取り込んで膨らんだ触腕に視線を巡らせた、ようにクリストファーには思えた。
 クリストファーは動じていなかった。なぜなら触腕の肥大化した部分に「それ」の光が感じられたからだ。
「ヤレ、ナルミ。影ヲ解キ放ッテヤレ」
 クリストファーの言葉に呼応するように、肥大化した触腕から目も眩むような強烈な光の奔流が湧き起り、少年から黒い塊を引きはがしていった。
 少年は光の眩さに悶え苦しみながらも、肥大化した触腕を反対の触腕で切り落とし、全身から触腕を無数に放ってそれを包み込もうとするも、放つそばから光に焼かれ、やがて少年は力を使い果たし、触腕を放つことができなくなり、光に嬲られるまま、黒い塊を削ぎ落していく。
 少年はだらりと両腕を下げ、焦点の定まらない目で光の塊となった自身の一部を見つめながら膝を突いた。
 光の塊は卵が孵化するように罅割れ、欠片がぽろぽろと零れていく。中から蓋の外れた瓶を掲げてナルミが現れると、無事を確信していたクリストファーもほっと胸を撫でおろす。ナルミの影は主が戻ってきたことを悟って、いそいそとナルミの足元にへばりついた。
「もう少し、もう少しだったのに……」
 少年は力なく、しかし口惜しそうに呟く。
「落ち込むのは早いんじゃないかな」
 ナルミは少年に近寄り、その頭をくしゃくしゃと撫でると、日向の匂いがふわっと巻き上がった気がした。
 怪訝そうに顔を上げた少年に向かって微笑みかけ、ナルミは下を指さす。少年はそれにつられて視線を下げ、自分の足元にあったものを見て目を見開き、「なぜ」と嗚咽しながら言う。
「あなたの影は瓶詰されて、『失せ物』としてここに届いていたのよ」
 ナルミは古いラベルの貼られた、判読できない文字の書かれた瓶を少年の前にぶら下げる。少年はぽろぽろと涙を零し、しまいには声を上げて泣きじゃくり始めた。
「シカシ、ナンデ影ガ瓶ニ入レラレタンダ?」
 少年が一しきり泣き終えるのを待って、クリストファーが疑問を口にした。それはナルミも考えていたことだった。ただ衝動に突き動かされて瓶を探し求め、開いたけれど、それは自分がやったようでそうでないような、曰く言い難い感覚だった。結果として正しかったけれど、もし間違っていたらと思うと、今更ながらにナルミは身震いをした。
「アイツだよ。みんなの大事なものを集めているアイツ。アイツがボクの影を奪ったんだ。僕の大事な大事な影を」
 アイツ? とクリストファーは顎に手を当てて首を傾げる。
「そういえば、巷ではそんな怪事件が起きているって噂が」
 ナルミがそう言うと少年は頷いて、「そうソイツ!」と憎々し気に吐き捨てた。
「成程。噂ハ真実ナワケカ……」
 噂は気に掛かったが、それ以上にクリストファーの関心を占めていたのは、ナルミが発揮した力についてだった。
「ナルミ。ナゼ君ハ俺ヨリ早ク瓶ノ気配ニ気ヅイタ?」
 ナルミは目を丸くしながら、「だって、あんなにはっきりと声が聞こえたら誰だって」と口にして、クリストファーの目に映った驚愕の色を敏感に察して口を噤んだ。
「ソウカ。声カ。君ニハ『失せ物』ノ気配ガ声ノ形デ伝ワルノダナ」
 所長は無駄な人員を採用したりしない。クリストファーにも分かっていたことだったが、こういう形で新しい世代の芽を見ることになるとは、彼も予想だにしないことだった。所長の慧眼、恐るべし、と心中で感心する。
 とにかく、とナルミは咳払いをする。
「『失せ物』の引き渡し業務、遺漏なく完了です」
 ナルミが晴れやかな笑顔を浮かべながらそう宣言すると、少年は「ありがとう、ナルミ」と感謝を告げながら景色の中に溶けていくように消えた。クリストファーの方を見やると、彼は肩を竦めて、「美味イシチュートビールガ欲シイネ」と呑気に言っている。だがナルミも「同意です」と疲れた笑みを浮かべた。
 就職一年目、まだ一か月。「市立失せ物管理事務所」はそう簡単な職場ではなさそう、と今日読んでいたミステリのタイトルを思い出して、ここはわたしに向いた仕事だろうかと一人ごちる。

〈了〉

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