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渦を奏でる

 坂道を下って、かたつむりの殻のように渦を巻いた道を抜ける。
 そうするとトンネルがあって、中に入ると本当にかたつむりになった気分が味わえるが、かたつむりと違うのは、トンネルには入り口があれば出口もあるということだ。
 そのかたつむりのトンネルをくぐり出ると、そこには海と山がある。
 相反するもので、矛盾するかもしれないが、そうとしか言えない。トンネルの先は海と山なのだ。
 右手に、横たわったカバのようなどっしりと、しかし角のない柔らかな輪郭の山がそびえていて、そのカバのような山に水をかけて冷やかすように左手に広大な海がある。波は穏やかで、群青色に輝いているが、沖の方は波がうねると黒々とした蛇の体表のような模様が浮かび上がり、穏やかなだけではない一面を覗かせる。山も、カバが狂暴な側面をもつのと同様に、ときに情け容赦なく土砂を押し流し、人の住処を圧し潰すことがあった。
 その海の波打ち際には椅子が置かれ、その上にヴァイオリンが置かれていた。まるで海にドレスでやってきた貴婦人のように澄ました顔をしているように見えた。一方の山は、というと、山頂にやはり椅子が置かれ、その上にフルートが置かれていた。白銀に輝く甲冑を纏った騎士のように凛として。
 そんな不安定な場所に椅子や楽器を置いておいて、飛ばされたりしないのか、と誰しも思う。だけど街の人間が知る限り、百年以上も椅子ががたりと音を立てたことはなかった。きっと神様が何かの目的をもって置いたに違いない、と信心深い年寄りたちは信じていたが、若い世代にとっては単なるミステリースポットであり、映える写真が撮れる、というだけの場所に過ぎなかった。
 ある年、海の向こうから手作りの木のボートを漕いで若者がやってきた。若者はエルタと名乗り、遠い、街の人間が誰も行ったことのないような異国からやってきたのだが、街の者にとって不思議だったのが、この国で「エルタ」という言葉は「山」を表す言葉だった。この街と所縁のない者が、「山」の名を持ち、海からやってきたことは、一大事件のように語られたのだが、それもすぐに収まった。
 エルタは海の傍に小屋を建て、そこで暮らすようになった。遠い異国の国では速記官を務めていた、ということで、役所に採用されて、会議や議会の記録をとる仕事を任された。彼の速記は、水が流れるように滑らかで、かつ正確だった。くしゃみの余韻の最後の一音たりとも、彼の速記にかかれば誤りなく記録された。おかげでいびきを記録される議員が続出したことで、議会の前には眠気覚ましのコーヒーをがぶ飲みし、ミントのガムを大量にポケットに忍ばせる、ということが議員の間で流行した。
 エルタは休みの日になると、海辺にやってきて波打ち際の椅子に腰かけ、ヴァイオリンを奏でた。彼の腕前は大したものだったが、どのような曲を演奏しても、たとえクライスラーの「美しきロスマリン」のような曲であっても、どこか物悲しさが漂う曲に変貌してしまうのだった。最初の頃こそは、彼のヴァイオリンを聴こうと人が集まってきたものだったが、回を重ねるごとに一人、また一人と減っていって、とうとう彼一人になった。けれども彼は演奏することをやめることはなかった。まるで海の彼方へと曲を届けようとしているように、人々の目には見えた。
 エルタがやってきてちょうど一年が経った日、山で猟をしていた男が、山中で倒れている若い娘を見つけ、街に連れ帰ってきた。
 娘は美しいカラスの濡れ羽色の髪を持ち、深い海の底のような群青の瞳をもっていた。記憶のほとんどを失っていたが、彼女は「ソラル」という名前は覚えていた。
 街の人間はエルタのときを思い出した。なぜなら、「ソラル」という言葉は彼らの国で「海」を意味する言葉だったからだ。山の中から、「海」の名を持つ娘がやってきた、ということはやはり街の人間の関心を強く惹いたが、ソラルが記憶を失っていたこともあって遠慮がちになり、やがてソラルの天真爛漫さと快活さが人々の心に染み渡り、彼女の出自をあれこれ言う人間はいなくなっていた。
 ソラルは華奢で白い足首のどこにそんな力が、と目を見張るほど健脚で、山のごつごつした岩場など物ともせずにひょいひょいと登って行くと、山頂の椅子に腰かけてフルートを奏でるのだった。だが美しい真珠のように翳りがない彼女の心は、どれほど切ない曲でも、たとえドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」のような曲であっても、今にも行進を初めて、踊りだしたくなるような陽気な曲に変貌してしまうのだった。山頂まで登ることは困難なため、人々は彼女のフルートをはるか下の麓で、風に混じって時折届くのを聴くしかなかった。
 エルタとソラルは互いを知らずに過ごしていた。海と山は隣同士だったし、楽器の音が聴こえてくるので、誰かがいることは認識していたものの、それ以上の関心を彼らは抱かなかった。二人は普段は街で仕事をし、休みの日には楽器を弾く。その日常さえあれば満足だった。
 ある日街の外の街道を旅していた男が、旅の休息をとるために街を訪れた。男はこの国で「悪魔」を意味する名前をもっていたため、どこへ行っても嫌われ、レストランでは残飯を出され、ホテルは宿泊拒否、役所に訴え出ても門前払いと散々な目に遭ったので、どうにかこの街に意趣返しをしてやりたいと考えた。
 男は街の人間が話している傍にこっそり近づいて、盗み聞きすることで、街の弱みはないか探り始めた。男は顔を泥で塗りたくり、上等なコートを落ちていた錆びた釘で引っ搔いてずたずたにし、ズボンも丸めて水たまりの中に放り込むなどして、この上なく見すぼらしく卑しい男に見えるように変身することで、自分の素性を隠しつつ情報を集めた。
 男が目をつけたのは、海辺に住むエルタと山の麓に住むソラルだった。男は街の者が大事にして愛している二人に嫌がらせをすることで、留飲を下げようと考えたのだ。
 さて、どんな嫌がらせにしようか、とある夜かたつむりのトンネルを抜けて、山と海を見渡せる浜辺に立つと、悲しそうなヴァイオリンの音色と、陽気なフルートの音が風に乗って響いてきて、男は二人が演奏しているな、とぴんときて、よし、これを嫌がらせにしてやろうと企むと、もう成就した気になってしっしっしと笑い方まで卑しくなった笑い声を上げると、そそくさとどこかへ立ち去った。
 エルタはある朝起きると、ドアに手紙が差し込んであり、危急の要件が発生したため、役所に参集されたし、と書いてあるので、急いで着替えて家を飛び出した。
 ソラルは郵便ポストを覗き込むと、お世話になっている旅館の女将さんの名前で、女将さんの旦那さんが危篤なので来てくれと書いてある手紙が入っていたので、やはり急いで着替えて旅館へと走った。
 だが、役所では危急の案件など生じていないし、旅館の旦那さんも危篤などにはなっていなかった。二人は首を傾げながら歩いていると、大通りに合流したところでばったりと顔を合わせた。二人はすぐにお互いが山に住む者と海に住む者であることを、知っていたかのように悟り、長年の知己のように表情を緩ませて初めてのあいさつをし、自己紹介をした。
 二人はすっかり意気投合し、道すがら互いの身に起こった先ほどの出来事を語り合うと、妙に符合するところがあり、不思議だなあと思いながらも、その日はそのまま別れた。
 二人が夜になって楽器を演奏しようと手に取ったとき、異変に気付いた。ヴァイオリンは弦がすべて切られていて、フルートには粘土か何かのようなものがぎっしりと管の中に詰められ、演奏できないようにされていたのだ。
 エルタもソラルも途方にくれたが、そこでお互いに天啓のようにお互いの存在を閃いた。彼なら、彼女なら、そう信じた二人は、何の申し合わせもなく海と山の境目で落ち合った。
 悪魔の名をもつ男は、二人が狼狽しているのを岩かげから見て、愉快そうに笑った。二度と演奏できまい。この事件は街を駆け巡り、街の者をがっかりさせるぞ、と思うと笑いがこみあげてくるのを禁じえなかった。
「エルタ」「ソラル」
 二人は互いの名前を呼び合うと、同時に頷いて、互いの楽器を差し出して手に取り、交換した。悪魔の名をもつ男は思っていなかった展開に「おや」と眉をひそめたが、楽器を交換したとて、どうともできまい、と嘲笑っていた。
 エルタとソラルは、楽器を交換した瞬間、雷に打たれたかのような衝撃を味わっていた。今までのことがどれほど滑稽な間違いで、そして今それが正されたということを。
 エルタがフルートをとって口をつけ、息を吹き込むと、エルタの口から海の水が注ぎこまれ、フルートの管の中を駆け巡った。粘土はすべて跡形もなく吐き出され、エルタの運指に合わせて管の隙間から波の音を響かせて海の水が迸り出て、エルタの周囲で渦を巻いて立ち昇った。
 ソラルがヴァイオリンを手に取り、構えた瞬間、ソラルの襟元から一匹の蜘蛛が這いだしてきて、忙しなくヴァイオリンの上を糸を出しながら駆け回ると、みるみるうちに弦となり、それをソラルが弾いて奏でると、彼女の足元から緑が芽吹き、花となり、木となった。ヴァイオリンの音はささやき交わす小鳥の囀りとなり、小鳥たちは渦を巻くように上空を旋回する。
 エルタとソラルは視線を交わし合い、初めて音を合わせたとは思えぬほどのハーモニーを奏でた。彼らが弾いている曲は誰も知らない曲だが、この街ができる前、海と山とが並び生まれた時代、古の音楽だった。二人は知識としてその曲を知らなくとも、彼らの体に宿る海と山の魂がそれを覚えているのだった。
 悪魔の名をもつ男は自分がしくじったことを悟り、地団太踏んで悔しがったが、やがて自分の周囲が海の水と山の木々に囲まれ、海の中では大きなサメが口を開いて待ち受け、山の木々のかたわらには大きく黒い熊が爪をしごいていることに気づいて、すっかり青ざめた。
 男はすっかり怯え切り、絶望の悲鳴を上げたが、エルタとソラルの演奏にかき消されて、彼の悲鳴は誰の耳にも届かなかった。その後、悪魔の名をもつ男がどこへ行ったのか、街の者は誰も知らなかった。
 エルタとソラルは演奏し終えると、玉のような汗を流しながら、抱き合った。
「海と山は、分かれてはいない」
「ええ、いつも隣。手を繋いでいる」
 二人は顔を見合わせて笑い交わし合い、砂浜に、海と山の境目に腰を下ろすと、朝日が昇るまでこれまでの自分たちについて語り合い、朝日が昇るとこれからの自分たちについて語り合った。そしてお互いに言葉が尽きると、共に立ち上がって役所に行き、その日の内に結婚した。
 新居は海と山の境界を跨ぐように建てられ、ほどなくして彼らの元には可愛らしい赤ん坊が産まれた。海の青と山の緑の瞳をあわせもつオッドアイの子どもで、名前はこの国の言葉で「空」を意味するものを与えられた。
 彼らの家からは音楽が絶えなかった。それは楽しくも寂しい、嬉しくも悲しい、相反する感情があたかも一つのものであるかのように心に染み入ってきて、聴く者の心を解きほぐす温かで懐かしい音楽だったという。

〈了〉


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