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燃える空の向こうに

 夜の河川敷は人でごった返していた。
 花火の火の玉が尾をたなびかせて空に舞い上がり、弾けて大輪の花を咲かせる度、周囲では歓声やため息がもれた。
 わたしは手に持ったりんご飴を舐めることに懸命になっていて、花火なんてさしたる関心もなかった。けれど、一回り以上年上の叔父さんであるヨシくんはそうではなかった。
 花火が咲いて夜空に弾ける音が響く度、ヨシくんは立ち止まって空を見上げ、咲いた花火が散って空に溶けるように消えていくのを見守っていた。
 わたしはりんご飴に必死に齧りつきながら、そんなヨシくんの横顔を眺めていた。
 わたしには、ヨシくんが花火というより、その向こうの空を見ているような気がした。刹那に咲く炎の花を透した向こうに、何かを見ようとしているような、そんな印象を受けた。
 幼かったわたしには分からなかったが、年経てヨシくんの置かれていた状況を理解している今ならよく分かる。ヨシくんはきっと夜空の膜の向こうに、奥さんと娘の姿を見ていたのだ。
 ヨシくんはその年の夏に離婚したばかりだった。ヨシくんが職場のパワハラに耐えかねて仕事を辞めたことを、奥さんの両親が聞きつけて、そんな軟弱な男に娘と孫は任せられない、と無理やり引き離され、離婚を突きつけられたそうだ。
 ヨシくんとて、応じようとは思わなかった。結婚しているのはヨシくんと奥さんなのであって、義理の両親に離婚を決められたくもなかった。けれど奥さんは自分の両親に抗し切ることができず、ヨシくんに離婚を求めた。それで、ヨシくんは心が折れて、離婚に応じ、すべてを投げ出してしまった。
 心にひびが入ってしまったヨシくんは、実家に帰ってきて、一日中机に向かって何かを書いていた。それは絵日記だった。小学生が夏休みの宿題で書くような絵日記帳に、奥さんと娘さんとの架空の夏休みを毎日書いていたのだ。絵は下書きをして、わざわざ水彩の絵の具で彩色していた。明るい色彩ばかりで、幼いわたしが見たときに、その絵日記帳はきらきらと光って見えて魅力的だった。
 でも、わたしの両親はヨシくんのそんな様子をよくは思わなかった。常軌を逸した行動だと思ったのだろう。そこで両親は事あるごとにわたしをけしかけ、ヨシくんを外へ出そうとした。ヨシくんも一人では外に出たがらなかったが、わたしと一緒だと快く外に出た。
 あの日の花火大会も、きっかけは母の言葉だったと思う。わたしが一緒に行こうと約束していたサユリちゃんが風邪をひいていけなくなったので、わたしは泣き喚いて母に当たり散らした。それに手を焼いた母がヨシくんを呼んで、花火大会に連れて行くように言ったのだ。
 わたしは大急ぎでその日のためにイオンで買ってもらった金魚の柄の浴衣を着て、ヨシくんはTシャツにジーンズ姿で、勇んで花火大会に出かけたのだった。
 迷子になったら大変だから、とヨシくんはわたしの手を固く繋いで離さなかった。その汗ばんだ手に、わたしはヨシくんの後悔ともう離さない、という決意を感じていた。実際、その花火大会中、りんご飴を買うときだって、金魚すくいをするときだって、ヨシくんはわたしの手を離してくれず、ちょっと鬱陶しかったものだ。
 でも、ヨシくんは怖かったのだろうと思う。手を離してしまったら、また遠くに引き離されて、奪い去られてしまうことが。
 花火は町で一番大きな河原で打ち上げられ、その河べりの土手には屋台がひしめき合って並び、裸電球の白い明かりが燃えて屋台のおじさんたちの額の汗を光らせ、電源のバッテリーがごうごうと音をたてるのを聞いた。
 学校の子とは小さな町だけによくすれ違って、女子からはヨシくんと手を繋いで歩いているのを「いいなあ」と羨望されて、わたしも得意になった。冗談で「年上のカレシだよ」、なんて言うとみんなきゃあきゃあ騒いで喜んだ。それをヨシくんは微笑ましそうに眺めていた。
 ヨシくんは背が高くて甘いマスクが特徴的で、わたしは見ていなかったけれど、その年の仮面ライダーのカッコイイ俳優にそっくりだった。だから同級生の子だけじゃなくて、若いお姉さんとすれ違うと、お姉さんは必ず振り返ってヨシくんを目で追った。
 わたしは密かに想いを寄せている男の子だけには会いたくないなあと思った。なぜだかヨシくんと一緒にいるところを見られるのは、好きな子に対する裏切りのように思えたのだ。
 それは杞憂だったとすぐに判明するのだが。
 悪友のケンジに出くわして、それとなく好きな子のことを訊くと、その子は早々に引き上げて、友だちの家でゲーム三昧だという。わたしはため息を吐いて、男子って子どもっぽいよね、とヨシくんにぶつくさ文句を言うと、ヨシくんは花火の音に、空を見上げながら、そうだね、と消え入りそうな声で答えた。
 やがて屋台の軒が途切れて、喧騒と灯りが遠のき、人の声が遠くで鳴る潮騒のように儚く響いていた。虫の声が草むらからこちらを窺うように鳴っていて、わたしの草履がぺたぺた情けない音を出すのに対し、ヨシくんはまるでそこに存在しないみたいに、足音が鳴らなかった。
 大きな花火が連続で三発打ち上げられ、高く高く昇っていくと炸裂して、花を咲かせた後に、柳のように枝垂れながら消えていく。
 ミワちゃん、とヨシくんがわたしの名を呼んだ。
「人生は花火のよう、とよく言うけれど、本当だなと思うんだ」
 齧っていたりんご飴が、口の中で砕けて嫌な音をたてた。
「人は人生を花火のように美しくたとえるけれど、花火というのはただ火薬が燃えて光を出しているだけのことだ。人の人生の本質もそう。本人からすればただ燃えているだけ。別に美しいものじゃない。周りで見ている人間が勝手に歪曲しているだけなのさ」
 ヨシくんの言葉は難しくて、わたしにはちんぷんかんぷんだった。でも、花火が上がっている間中絶対に手を離さなかったヨシくんがわたしの手を離したので、驚いたわたしはりんご飴を手から取り落とした。飴はわたしの齧っていた断面から地面に落ち、湿った音と硬質な音をたてると、割り箸をわたしに向けて転がった。
 はっと気づくとわたしの町と隣町を結ぶ大橋の上で、動揺し困惑したわたしは立ちすくんで、ただヨシくんの背中を目で追いかけていた。
 ヨシくんはわたしの手を振りほどくと、橋の欄干に手をかけ、軽やかに足を浮かせて宙を舞うと、欄干を飛び越え、橋の向こうに落ちていった。その光景が、わたしの頭にはスローモーションで焼きついた。
 遅れて水音がして我に返ると、欄干に飛びついて橋の下を覗き込んだが、黒々とうねる蛇の体表のような水面に僅かなさざ波が立っているだけで、ヨシくんの姿はもうどこにもなかった。
 わたしは慌てて屋台のところまで戻り、一番近くにあった綿あめの屋台のおじさんに事情を説明すると、おじさんはすぐに警察に連絡をしてくれ、警察と、わたしの両親がやってきた。
 ヨシくんは何日間も捜索されたが、遺体は見つからなかった。
 母は自分のせいだ、と泣きながら自分を責めていたが、わたしは母のせいではないと思った。ただヨシくんは、結婚生活が他人の力によって終結させられたことが納得できず、自分の人生の幕引きは他人にされる前に、自分で引きたかったのだろうと思う。
 わたしはふてぶてしくも実家にやってきたヨシくんの元義両親たちを罵倒し、ヨシくんの書いていた絵日記を義父の顔に叩きつけたことでこっぴどく母に叱られたが、母は誰もいないところでこっそりとわたしを抱きしめ、ありがとう、と涙ながらに言った。
 今、わたしはヨシくんが河に飛び込んだのと同じ年になっている。ヨシくんとは違っていまだ結婚もせず、定職にもつかず、ウェブでイラストやマンガの依頼に答えて細々と生活費を稼いでいる窮屈な、だけど自由な人生をおくっている。
 わたしの人生はただ燃えているだけだ。それが花火のように見えるかは、周りが勝手に決めればいいし、わたしが口を出すことじゃない。わたしにできるのは、燃える火を絶やさないこと、それだけだ。
 今年も夏が来る。花火の向こうに、わたしは何を見るのだろうか。

〈了〉


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