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カメリア~蒼穹~

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 アルバイトをすることを決めると、椿はすぐに燕に電話をした。いついつから入ってもらうから、迎えに行くと言われ、椿は了承し、「よろしくお願いします」とぎこちなく言うと、電話の向こうの燕が微笑んだのが見えるようだった。
 だが、燕から「お父様とよくお話になってくださいね」と言われて、面倒なのが残ってた、とげんなりしたのだった。
 案の定、アルバイトなんて、と父親は反対を表明した。椿はうんざりしたように「同意なんて求めてない。これは報告」と頭を掻きながら言い捨てると、階段を踏み鳴らして上がっていく。自分を繰り返し呼ぶ鋭い声には振り返りもしないし、する価値もない、と椿は思った。
 母が死んだとき、父親は大事な会議とやらで臨終の場に立ち会わなかった。叔母がすっかり先のこと――葬儀などの段取りを決めた後になってようやくやってきて、泣き崩れた父親を、白々しいと椿は思って、それ以来何か別の汚らわしい生物と生活している気になって、父親が家にいると気色が悪くて仕方ないのだった。
 椿はベッドに寝転がると、親友の結子にアルバイトを始めることをLINEして、枕元に放り投げてあったままの文庫本を開いて読もうとしたが、文字が滑って一行も読み進められない。好きな作家なのに、と躍起になって読もうとすればするほど、言葉は逃げていく。音だけを頭の中で繰り返し、意味が紙の上に置き去りにされる。苛立って本を閉じると、ゆっくりと目を瞑った。
 頭の中に燕の顔が浮かび上がる。穏やかな、凪いだ海のように広く包み込む笑顔。それが椿には忌々しくて、「あー、もう」とベッドを叩いて苛立った声を上げて起き上がると、結子から着信がきた。
「アルバイトって、まじ?」
「うん、まじだよ」
「ヤバい。あたしもやりたいなあ」
 結子の家は厳しい。成績が少しでも下がれば母親がつきっきりに見張って勉強を強いるようなスパルタな家だ。まかり間違ってもアルバイトなど許しはしないだろう。結子の声にはお世辞ではなく、本心で羨んでいるような甘い響きがあった。
「どこでバイトすんの?」
「裏通りに喫茶店あるでしょ。あそこ」
 結子はうーん、としばらく考え込んだ様子で、あっと明るい声を上げると「もしかして『カメリア』?」と問うた。
「ああ、そんな名前だったかな。そこ」
「へええ。あそこマスターが女の人なんだよね。なんだか格好いいなあ。あたしも勉強じゃなくて喫茶店のマスターをやって生きていきたいよ」
 弁護士になる夢はどうしたのよ、と椿は苦笑する。
「それは親の夢。あたしは親の敷いたレールの上を走る機関車よ。機関車トーマス。顔のある機関車」
 なにそれ、と言って椿はけらけらと笑う。
 たとえ親の夢であっても、そのために努力を惜しまない結子は偉いし、すごいと思った。自分には真似ができないと。椿は嫉妬にも似た苦い羨望が胸に芽生えるのを感じて、息苦しくなった。笑っている途中で「努力をしていない自分」という現実を誤って直視してしまい、その鬼のような形相をした現実という名の像は、椿を見返していた。きっとずっと見ていたのだ。椿が目を背けていただけで。一瞬目が合っただけで深海に引きずり込まれたような息苦しさと圧力を感じる。彼女はすぐに現実から目を逸らした。
 他愛ない話をして、電話を切る。椿の胸に去来したのは夕暮れの小道のような言い知れない不安と虚無だった。
 椿は聞きそびれたふりをして、燕に再び電話をかけ、制服や仕事の内容など、後で訊けば済むようなことを質問して、なるべく燕の声を聴く時間を引き延ばした。
 燕の声は水のように心に染み込んでくる。不安の塊が心の隅に転がっていても、燕の声はそれを洗い流し、小さくした上でどこかへと押し出してくれる。そんな声の持ち主はいなかった、と考えて、椿はいや違うと思い直す。母の声だ。母の声の心地よさと同じ響きが、燕の声にはあるのだと気づいた。
 燕は椿の幼い企みなど見抜いているかのように、「椿さん」と優しく呼びかける。
「明日、お店は休みなんです。一緒にどこかへ行きませんか」
 意表を突かれて椿は息が止まったように感じて、顔がかーっと熱くなって、先ほどまでとは別の息苦しさが芽生えるのを感じながらも、「構わないけど」とぶっきらぼうに言ってみせる。
「じゃあ、九時に駅前で」
 約束して電話を切った後も、椿はしばらくスマホを胸に抱きかかえていた。ちょっとつれない態度をとりすぎただろうか、と後悔して、明日はもっと素直になろうと決心する。
 ずきずきと胸が痛んだ。この疼きのような痛みは何だろうか、と椿はぼんやりと考え、窓を開ける。今夜は満月だ。月が明るく、そして近い。風が火照った頬に心地よかった。同じ月を、燕も見ているだろうか、と思い浮かべながら、椿はいつまでも月を眺めていた。

 約束の時間になると、燕は駅前の交番のある通りから、徒歩でやってきた。車じゃないんだ、と少し意外だった。
 水色のブラウスに黒のワイドパンツにエナメルの靴を履いている。耳にはターコイズのイヤリングがぶら下がっていた。大人の女性、という雰囲気がほのかに匂いたつように漂っていた。手にはブランドのロゴの入った紙袋を提げている。椿は自分の姿を見て、少し子どもっぽいか、と急に不安になってきた。スカートなど履くのは何か月ぶりだろうと思う。デニムスカートに英字のプリントされた淡いクリーム色のTシャツ、その上にレース編みのカーディガン。目いっぱいのお洒落。お洒落って何だっただろう。
「お待たせしました。行きましょうか」
 椿は俯きがちに頷くと、燕と並んで歩く。「どこへ行くの」
「天気がいいので、公園なんてどうですか」
 公園、と聞いて思い浮かんだのが、総合運動場が併設された公園だった。駅からほど近い。椿は行きたくない、と思った。あの公園で、あの公園にある陸上競技場で、自分の足は壊れ、夢も青春も何もかもガラス細工のように崩れ落ちてしまったのだから、と。
「いや。わたしは行かない」
 椿は足を止めて拳を握りしめる。過去の自分と向き合うのはいやだ。
 燕は椿の反応を想定していたのか、微笑を浮かべて「そうですか」と頷くと、一人で先へと歩いて行ってしまう。そうなれば、椿は取り残されて、公園へ行くのを抗う気持ちと、燕と一緒にいたい切ない気持ちがせめぎ合って、道端の石を蹴とばして「大人はずるい」と燕の背中に向かって叫ぶと早歩きで追い駆けた。
 公園の入り口に辿り着くころ椿は燕に追いついて、「燕さん、ちょっと卑怯じゃない」と非難がましく顔を見上げると、悪戯っぽい笑みを浮かべて「そうでしょうか」と小首を傾げる。この人は、絶対に分かってやっている、と椿は確信してため息を吐く。
 公園の中には様々な遊具があって、小さい子どもと母親や父親が一緒に遊んでいた。子どもの星屑のように光る歓声がそこには溢れていて、椿には眩しく思えた。燕もそれと近い感情を抱いていたようで、じっと砂場で遊んでいる男の子と母親の姿を見つめていた。
「本当なら私も、あの中にいるはずだったんです」
 意外過ぎる告白に椿はえ、と驚いて、二の句が継げなくなった。
 燕はそんな椿に顔を向けて、寂しそうに笑う。
「私バツイチなんですよ。子どもを流産してしまって。そのとき、私の体も子どもが産めない体になりました」
 椿は何と言っていいか分からなかった。言葉が見つからなかったから、真摯に聴いている、その気持ちが少しでも伝わるよう、しっかりと燕の顔を見つめた。
 燕はふっと笑みを零し、「ありがとうございます」と呟くように言うと、目を伏せる。
「跡継ぎを産めない女はいらない、と夫には離婚を申し渡されました。そのときの慰謝料で裏通りの店を買い取り、喫茶店を始めたんです」
「そんなのひどい!」と椿は叫んだ。遊んでいた親子の視線が椿の一身に注がれ、椿は羞恥に顔が真っ赤になって熱くなるのを感じたが、それでも迸ろうとする言葉を止めることはできなかった。
「一番辛いのは燕さんじゃない。それを助けなくて、何が夫婦よ」
 椿は自分が何でこんなにも猛り狂っているのか、掴めずにいた。怒りは本来燕のもののはずだ。だがその燕は泰然自若として、怒りの感情を見せない。だから代わりにわたしは怒っているのだと、考えた。
「元夫は酷かったのでしょう。結婚前から分かっていました。夫の元に嫁ぐということは、あの伏魔殿のような場所に入ることなのだと」
「分かっていたなら、なんで」
 燕は「座りましょうか」とベンチに歩み寄っていく。椿もそれを追い、二人は木陰のベンチに腰掛けた。涼やかな風が二人の間を吹き抜けていく。
「私には守りたいものがありました」
「守りたいもの?」
「ええ。私が元夫と結婚すれば、その子は助かるのです。でもそうしなければ、その子が元夫の家に嫁ぐことになってしまう。私はそれを避けたかった」
 ちょ、ちょっと待って、と椿は慌てて話を遮り、「どうしてそんな結婚が決められているみたいに」と疑問を呈する。
「私の家の決まりです。咎人である先祖の血を引く私たちは、本家のために嫁がなければならない」
「……私たち?」
 燕はゆっくりと頷いて、「私と椿さん、あなたです」と申し訳なさそうに口にした。
「全然話が見えないんだけど」と椿の頭の中は混迷を極めていた。さっきまで抱いていた怒りは燻っているし、突然自分が巻き込まれて燕との繋がりを提示されて、何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。
「椿さんは先祖、新田霜造の話は聞いたことはありませんか」
 椿は首を振って、「そういえば父さんから聞いたことあるかも」と視線を宙に彷徨わせてどんな話だったかを思考の海の中から魚を釣るように引き寄せる。
「霜造の直系が私の家です。その分家に当たるのが椿さんの家。そして元夫の家が、霜造亡き後新田をまとめた矢島の家なのです。椿さんの家はこの矢島の分家にも当たります」
「それがどうして結婚って話になるのよ」
「矢島が決めたのです。分家の娘は長じたら本家の男に嫁ぐこと、と。今の世代、本家の男は元夫一人でした。そして、次に嫁ぐことになっていたのは、椿さんの家でした」
 椿は吹いた風がいやに冷たい気がして、ぶるっと身震いすると、自分を守るように体を抱きかかえた。「わたし、が?」
 燕は頷いて、「私は、それを止めたかった。あんなにかわいい子の将来を、家というしがらみのために奪ってはならないと」、そう言って天を仰いだ。涙が一すじ頬を伝って流れ落ちた。
「私は無力でした。結局あなたを守ることはできなかった。子どもを産めなかったがために。私の赤ちゃんも、あなたも。何一つ。すべて私の手から零れ落ちてしまった」
 それじゃあ、と椿は震える唇で言葉を紡ぐ。燕の悲しみに寄り添いたい、心ではそう思っているつもりなのに、口をついて出るのは自分の身を案じる言葉だった。
「わたしが、結婚させられるの」
 ええ、と燕は頷いて、親指で涙をそっと拭う。
「私の父が、あなたのお父様と話しているのを聞いてしまいましたから」
 そんなのってない、と叫んで椿は立ち上がった。「人を馬鹿にしてる!」
「なによ、そんなくだらないしがらみ。わたしが大人しくそんなことに付き合ってやる道理なんかないわよ」
 そうだ。本人の意思を無視した結婚なんて、今の世の中で罷り通ることがおかしい。椿は拳を震えるほど握りしめた。
「本家は、きっとあなたの就職先や周囲に現れて邪魔をし、隙あらば連れ戻すでしょう。それぐらいのことを平気でやる人たちなのです」
「そんなの犯罪じゃない」
 頷いて、燕は立ち上がる。「そうです。犯罪です」
「だから、私に立ち向かう勇気をください」
 燕は椿の手を引いて歩き出す。木立を抜けて、どこに向かっているかを悟って椿は心の中で悲鳴をあげた。いや、そっちには行きたくない。だが、燕はそれを知ってか知らずか、構わずに手を引いていく。
「椿さんは、有望な陸上選手だったそうですね」
 燕が言いながら持っていた紙袋を差し出す。中を恐る恐る覗くと、ジャージの上下とランニングシューズが入っていた。
「でも怪我をして陸上から離れてしまった。けれど、その怪我はもう治っているのでしょう。走れるのでしょう。私と一緒に走ってくれませんか」
 無理よ、と首を振りながらも、押し付けられた紙袋を椿は受け取ってしまう。母が死んだあの日、自分は陸上を捨てたのだ。いや、捨てなければならなくなった。走れないからだ。走ることを体が、足が拒絶する。だから辞めた。それなのに走れだなんて。
「あなたが再び走る姿が見たいんです。そうすれば、私も踏ん切りがつく」
 なんの踏ん切り、とは椿は訊けなかった。走ることへの恐怖が胸を埋め尽くしていた。
 椿はやむなくジャージに着替えると、燕と並んでスタートラインに立った。
「合図は、私が出しますね」、と燕が真剣な顔で言うので、椿は渋々頷く。走れっこない。
 だが、地面に手を突いて、スタートのポーズをとる。コートの熱が指先を伝って昇り、全身を駆け抜けていくようなこの感覚、と懐かしさを覚える。左右の足を前後に突いて構え、尻を上げて前傾姿勢になる。走り出せる。その歓喜が震えるように爪先から、盛大に勢いを増すオーケストラの音色のように体に打ちつける。
 燕の合図の声が遠くでする。瞬間、椿は飛び出した。喜びとともに。だが、すぐに足を掴まれた。見ると、足首を母の手が掴んでいた。コートの中に埋まった母の顔が巨大な像となって足元に広がり、その手で椿の足が先へと進めないよう握りしめている。お母さん、と椿は喘いだ。やっぱり、わたしを恨んでるんだね、許してくれないんだね、と涙を流した。そうだと答えるように、椿を掴む手の力は絞り上げるごとく強くなる。ああ、だめだ、と椿は諦めかけた。
「今は私もいます。あなたは一人なんかじゃない」
 燕が椿の手を取って、強く引っ張る。すると足を掴む腕の力が弱まり、椿は一歩、二歩と前に進めるようになる。そして母の幻影は消えて、広がっているのがただのコートだということを思い出し、足を上げ、前へと伸ばして着地する。目の前には燕の背中があって、艶のある黒髪のポニーテールが言葉の通りしっぽのように左右に揺れていた。その背中に椿は母を思い出した。
(お母さんは死んだ。でも、燕さんがいる。わたしを守ってくれようとした人)
(わたしは、守られるだけの存在じゃない。わたしの背中を見せることだって、できる)
 椿はぐんぐんスピードを上げると、燕の手を離し、横に並び、あっという間に抜き去って前に立った。走る、走る。体が覚えている。どうやって走ればいいか、わたしの体は。ごめんなさい。ずっと待たせてしまった。こんなにも、体は走りたがっていたのに。謝りながら、走る喜びに包まれた椿は、早まる呼吸、心地よい疲労感を帯びた足、そして全身を貫くような熱に身を任せ、ただひたすらに走った。
 再びスタートラインを踏んで、椿はようやく走ることを止めて、ゆっくりと歩き出した。燕も呼吸を荒げながら戻ってきて、両手を膝について激しく肩を上下させている。
「さすが、速いですね。ブランクがあるとは思えません」
 椿は息を乱しながらも、照れくさそうな笑みを浮かべた。
 走ることなんて、こんな簡単なことだったんだ、と思って、いや、違うと考え直す。燕が手を引いてくれたから、自分は走れたのだと。椿は空を見て、その蒼穹に母を想い、「ありがとう、燕さん」と頭を下げた。
「いいえ。お礼を言うのはこちらの方です。あなたの勇気、確かに見せていただきました」
 燕はしっかりと立ち上がり、腕で額の汗を拭うと、「必ず守ってみせます」と決然として言った。
 守る、ということの意味が椿にはこのとき分かっていなかった。

〈続く〉

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