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日曜日に金曜日の本を(読書記録18)


■金曜日の本

サムネイル画像は「金曜日の本」で生成AIが作成したもの。金曜日らしさとは?

今回読書記録をつけるのは、吉田篤弘著、『金曜日の本』。
こちらはエッセイ集である「金曜日の本」、短編小説「窮鼠、夜を往く」、書下ろしエッセイの「九人のおじさん」を収録した本だ。

「金曜日の本」では吉田篤弘さんの幼少期、概ね12歳頃までの記憶が語られる。親戚一同から大人しい子だったと語られる吉田さんは、本当は何を考え、どんなことをしていた子どもだったのか。

子どもの頃に流行っていた遊びや思い出には当時の風が薫るようで、私の知らない時代の話なのに、懐かしさすら覚える。

読書やレコードに夢中になった吉田少年。当時読んでいた、聴いていたものを鮮明に思い出せるのはすごいなと私なんかは思ってしまう。タイトルなんかは忘れてしまっているものも私は多い。読んで受けた印象となるとなおさら……。

■窮鼠、夜を往く

こちらは鼠の窮鼠を主人公にした短編小説。
百科事典を残らず齧ってしまい、頭の中に百科事典を収めた鼠の窮鼠。彼は鰐の先生、ノーベンバーや古本屋の店主吹雪君との出会いを経て、ただの鼠だった窮鼠はパンの代わりに百科事典を齧り、百科事典を頭に詰め込んだ、窮鼠となる。

私はこの作品は、物語るという小説家の行為を一度ばらばらに分解して、再び組み直そうとする物語だと思った。

鰐の先生、ノーベンバーはこう語っている。

いいか、窮鼠、それは戦いなのだ。世界を「理解したい」と願うものたちの、決して勝つことが許されない、どこまでもつづいてゆく戦いのリレーなのだ。

『金曜日の本』「窮鼠、夜を往く」鰐のノーベンバーのセリフより

ノーベンバーは人間が世界を理解していないのに、世界を説明する百科事典という本を作り、そして今なお作り続けていることに対し、上記のことを窮鼠に言って聞かせる。

私たちは無限にも思える言葉を、その言葉を用いて説明するというメビウスの輪のようなパズルを解こうとしている。
こうした世界を「理解したい」と戦うものこそ、小説家を始めとする創作者たちだと思う。

私はまだ小説家だと名乗ることはできないが――、その戦いの一翼に加わる創作者の一人だと思っている。
noterのみなさんもまた、noteという戦場で戦う同志だと、私は思う。それゆえにnoter同士が争うことはない。私たちが戦うべきはお互いではなくて、世界という全貌の見えない、巨大な存在への「理解」だからである。

noterのみなさんはその本質を自然と理解しているように見えるのは、私だけだろうか?

■九人のおじさん

この九人は、吉田さんの母方、父方のおじさんを合わせた人数である。吉田さんはそこに密かな十人目として自分の父親を挙げているのだが、とにかくこのおじさんたちには一癖も二癖もある変わった人物が多い。それと同時に、博識である人物が多いのは家系なのか。

そのおじさんたちとの思い出を語っているのだけれど、これを読んだとき、羨ましいなと思った。

私の父も兄弟が多かったので、おじさんはたくさんいた。
だけど、何人かのおじさんは顔を思い出せるけれど、ほとんどのおじさんの顔を思い出すことはできない。おじさんとのエピソードなどとてもとても。

子どもの頃の私は酒飲みが嫌いだったので、おじさんというと(集まるのが正月などめでたい席だったせいもあり)飲んだくれているイメージしかなく、それを冷ややかに見ていた私は決しておじさんたちに近付こうとはしなかった。他愛ないやりとりくらいはあったかもしれないが、まるで覚えていない。

酒飲みが嫌いだったことも手伝って(?)か、私は酒に強くなった。まず感情が変化するほど酔うことはなく、飲んでも飲んでもシラフと変わらないので、酔っている周りに合わせるのに苦労する。

ただ、飲んだくれているおじさん、に私はならずに済むわけだ。

父の実家、で覚えていることと言えば、夜従兄に誘われてダーツをやったら、誤って窓ガラスに突き刺さってしまったこととか、ゲームの主人公に自分の名前をつけて遊んでいたら、「ダサい名前ねえ」と従姉に馬鹿にされたことぐらいしかない。

おじさんの思い出は皆無だ。

吉田さんのように、おじさんたちの話を聞くのが好きで、そっとそばにいれば、もっとおじさんたちとの思い出があったかもしれないのにと思うのだ。

■私の「金曜日の本」は

吉田さんはあとがきの中でこう語っている。

いかにも面白そうな本よりも、誰も読みそうにない本に、自分にとっての「面白い」があるように思う。

『金曜日の本』「あとがきのような話のつづき」より

そしてこう続ける。本選びは宝探しであり、読書は読む楽しみの前に選ぶ楽しみがあると。

同意である。私も売れに売れているベストセラーなどには目もくれず、棚と睨めっこしてタイトルや表紙の装丁などから本を選ぶのが何より好きだった。特に子どもの頃にそういう性格が顕著だった。

今ではベストセラーも何でも読むが、大学の頃までは自分がいいと思った本しか基本的には読まなかった。私にとって売れていること、賞をとったことはレッテルに他ならなく、読むことから遠ざける要因だった。

そんな自分をばかだなあ、と笑って見ていられるのだから、少しは大人になったということだろうか。

ただ、私の原点、「金曜日の本」はそこにあるのだと思う。
宝の山から、自分の望む宝石の一粒を探し、見つけること。誰かに言われたからではなく、自分の意思と目と手をもって選び取ったもの。
それが、私の「金曜日の本」だ。

その記憶が色濃い作品が一つある。選び取って数年間、繰り返し読み続けた愛読書になった一冊。中学生だった私の心を激しく揺さぶった作品。

ご存じの方も多いかと思う。

北村薫著、『リセット』。

「時と人 三部作」の終わりを飾る一冊だ。三部作の他の作品も何度も読んだが、この作品を書店で選び取ったときのことを、私ははっきり覚えている。どこの書店で、誰と一緒で、棚の平台のどこに並んでいたかをはっきりと思い出せる。

大学進学のときも、北村さんが教鞭をとっておられたから、という理由だけで早稲田大学に進路を向けてみたり(北村さんが教壇から降りられてしまったので、進路は変えた)、高校・大学時代に書いた小説は北村さんの影響を強く受けていたと思う。

私の原点にある「金曜日の本」は『リセット』だ。
けれど、「金曜日の本」は一冊だけ、それも追憶に眠る一冊だけとは限らない。今現在あったっていい。

だから私は、今も書店に足繁く通っては、「金曜日の本」たりえる本を探している。

noteの大海を流離うのも、それに似ていると思う。
膨大な記事の中から、私の宝物にしたい記事を、探し続けているのだと思う。そして願わくば、私の小説が誰かの「金曜日の本」になってくれたなら、そのことほど嬉しいことはないだろうと、そう思うのだ。


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