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ポートレート

 笛が鳴る。
 彼女の手が、足が躍動して、一迅のオレンジの風のように走り抜けていく。その姿を、僕は三階の美術室から眺めていた。
 僕は手元のパレットにオレンジの絵の具を溶き、そこにほのかな明るさを加えるため少量の黄色を溶いた。美術教諭の谷重先生から贈られた木製のパレットは、もう僕の手に馴染んだ。
 絵筆を回すようにして絵の具同士をかき混ぜ、色を作るとキャンパスの上に塗っていく。
 そこに描かれているのは、彼女だった。夕暮れの太陽を浴びて、オレンジ色のユニフォームを着て校庭の直線を駆け抜ける、風のような彼女。三年の雪音先輩。僕が密かに憧れる人。
 放課後の美術室には僕しかいない。美術部は谷重先生が退職すると同時に、休部扱いとなった。僕しか部員がいないのだから、当然だ。だが、部員が僕しかいないことは谷重先生にとっては好都合であったし、僕にとっては不運の始まりだったと言っていい。
 こうして自由に絵が描けるようになったのは休部になったからだというのも皮肉だ。部活動ではないから、画材などは自分で調達したものを使わなければならなかったけれど、それを守っている限り、先生方も何も言わなかった。
 美術部が存続していたとき、僕は谷重先生におぞましい行為を手伝わされていた。彼女は美人で若かったけれど、心の中には修羅を飼っていた。初めての部活動で彼女の絵を描かされ、僕は僕には見えた彼女の修羅を絵に表現して描いたために、彼女の関心と憎しみを買ってしまったのだ。
 関心と憎しみという色を混ぜ合わせると、愛という色が出来上がる。
 その色で、彼女は僕を染めたがった。他の女子生徒と会話することさえ、彼女は嫉妬し許さなかった。自分だけを見ろ、と二人だけの美術室で、彼女は自分自身を覆い隠すものをすべて脱ぎ去り、顔を背けた僕の顔を掴んで自分に向き直らせ、瞑った瞼を強引に押し開いて彼女という存在を余さず目に焼き付けさせた。
 一年間。僕にとって苦痛な放課後という時間は続いた。単に美術室に来なければよかっただけかもしれない。だが、谷重先生は狡猾な蛇のような人だった。甘い餌を用意して腹を満たさせてから、獲物である僕を頭から丸のみにするようなやり方をした。餌も丸のみにされることも、ある種の快楽が伴う。僕の頭は麻痺していた。理性がどれだけ嫌だと悲鳴をあげていても、気づけば美術室の戸口に立ってしまっている。そして誘われるままに手を引かれて中に入るのだ。
 それが終わりを告げたのは、谷重先生が結婚して退職すると決まったからだった。結婚相手は同僚の数学の山本先生だ。
 結婚が決まると谷重先生は僕に構わなくなった。美術室にも来なくなり、退職していって、美術部は新しい顧問の成り手もいなかったし、部員も僕一人だったので、休部、ということになった。それ以来、谷重先生とは会っていない。ようやく解放されたのだ。僕は好きな絵を自分のために描くことができる。
 雪音先輩の絵を描くのは二回目だ。一度目は谷重先生にばれて、ナイフで絵をずたずたに引き裂かれた。特に顔のところを執拗に。そして僕が二度と谷重先生以外の絵を描かないように、とナイフで腕に不可思議な模様を刻まれた。何か呪術的な意味があるのかもしれないが、詳しいことは先生は何も語らなかった。だが、その跡はみみずばれのようになって今もうっすらと残っている。
 雪音先輩の絵を描いていると、その傷跡が疼くような気がした。気のせいだと思うようにしていたが、傷が疼く度、谷重先生の美しい顔が修羅のように歪むさまを思い出してしまうのだった。
 傷が疼いて手が震えるので、僕は絵筆を下ろしてふうとため息を吐いた。そして再び校庭の雪音先輩の姿を見ようとして視線を運び、視線が校庭を彷徨った。本来いるはずのところにも、校庭のどこにも雪音先輩の姿がなかったのだ。
 ひょっとしたら練習を切り上げてしまったのかもしれない、と思って落胆すると、キャンバスの絵を眺めた。ほとんど完成している。だが、顔のところが描けない。ナイフで切り刻まれた僕の絵を思い出すと、背筋がうすら寒くなって描くことが怖くなってしまう。その顔を、雪音先輩にしていいのだろうか、という怖れがどうしても僕の心から拭い去ることができない。
 僕は絵筆を握りしめ、震えるその手に爪を立てる。傷跡を毟り取るように力を込めていると、扉をノックする音が響いて、返事をする間もなく扉が開いた。
「お邪魔してもいい?」
 そこに立っていたのは雪音先輩だった。僕は「あ、はい」と間の抜けた声で返事をしながら慌てて袖を下ろし、傷跡を隠した。
「沢田裕信くん、よね」
 雪音先輩が僕の名前を憶えていたことに驚いたが、僕は心を落ち着かせて黙って頷いた。こうしたとき冷静に振舞えるのは、皮肉なことに谷重先生のおかげだと言えるだろう。谷重先生とのことは、僕に度胸と感情の制御を教えてくれた。どんなときでも、感情の揺れ動きをシャットアウトし、無感情になる技術。
「何か御用ですか、先輩」
 僕は事務的な口調で言うが、雪音先輩は微笑を浮かべて歩み寄ってきて、僕の描いている絵を覗き込む。しまったと思うが、大きなキャンバスをもはや隠しようがないし、顔が描かれてない以上、雪音先輩を描いているとも限定できないはずだ。
 椅子を立って、雪音先輩に勧める。絵を見るなら、ゆっくりどうぞ。
 彼女はうん、と納得したように頷いて、「これ、わたしよね?」と僕の顔を覗き込んで訊ねた。
 僕は心臓が飛び跳ねる思いだったが、顔には出さず、「どうしてそう思うんです」と首を傾げた。
「だって君、いつもここからわたしを見ているでしょう」
 雪音先輩は振り返って言って、絵の具の乾いている足の部分を下からそっと撫で上げるように指を這わせた。
「いえ、先輩の気のせいでは」
 僕が首を振って否定すると、雪音先輩はふふっと笑って、悪戯っぽい眼差しを僕に向ける。
「否定してもだめよ。谷重先生のお気に入りくん」
 彼女の含むような口調は、何かを知っていることを窺わせた。
「あの、どういうことです。僕は確かにたった一人の美術部員でしたけど」
 頬を掻いて苦笑しながら空とぼける。その顔を見て、彼女の嗜虐心を刺激したのか、雪音先輩はふうん、とつまらなさそうに言いながら、僕の胸を指で突いた。
「とぼけてもだめよ。知ってる人間は知ってるんだから。教師なんかよりね、生徒の方が敏感にそういうの、察するんだから」
 雪音先輩は息がかかるほど僕の顔に近付くと、形のいい唇をくっと歪めて笑みを形作り、「まあ、いいわ」と僕の傷跡がある腕をそっと撫でながら離れた。離れるとき、甘酸っぱいオレンジの香りがした気がした。
「で、この絵、わたしなんでしょ」と振り返り問う。
 僕はこれは言い逃れが出来ないな、と悟って頷いて素直に認め、「勝手に描いて申し訳ありませんでした」と頭を下げた。
「あら、いいのよ。あなたが何を描こうともそれは自由だもの。それに、あなたがわたしを選んで描いてくれた、そのことはとても光栄だわ」
 雪音先輩は言いながら、オレンジのユニフォームの部分に触れる。僕はあっと思って制止しようとするが間に合わず、まだ乾いていない絵の具が僅かに指先に付着する。あら、と雪音先輩は指先に付いた絵の具を眺めると、おもむろに指先を口に含んで吸った。
 絵には雪音先輩の指の跡がうっすらと残っていた。多分、僕はこの跡を消さないだろうなと予感していた。
「絵の具って苦いのね。土みたいな味がするわ」
 雪音先輩はそう言って顔をしかめて舌を出した。舌はうっすらとオレンジ色に染まっていた。
「ねえ裕信くん」
 雪音先輩は僕に体をぴったりと密着させながら、絵を指さす。
「どうして顔だけ描いてくれないの」
 それは、と僕は言い淀む。顔を描くのが怖いから、とは言えない。なぜ怖いのかという話になる。察しのいい先輩ならそれだけで谷重先生とのことだろうと勘づくかもしれない。
 僕はいつも遠巻きにしか見てないから、先輩の正確な顔を描く自信がなかったと説明する。すると雪音先輩はうんうんと話を聞いた後で手を打って、「じゃあ、この距離で見れば描けるでしょ」と名案を思い付いたように提案する。
「わたしモデルってやってみたかったの」
「いや、先輩。でも……」
 僕が渋る様子を見せると、雪音先輩は獲物を前にした猛獣のように目をきらめかせ、不敵な笑みを浮かべる。
「なあに。わたしじゃ不足なの。やっぱり谷重先生の裸じゃなくちゃいや?」
 さっと血の気が引いたのが自分でも分かった。頭がくらくらして、目の前が暗くなる。僕は椅子に座って、絵筆を手に取る。それを見て雪音先輩も満足して、向かい側に椅子を持ってきて腰かけた。
「表情とか作った方がいいのかしら」
 僕は首を横に振る。「いえ、先輩は自然な顔のままで」
 わかったわ、と頷き、雪音先輩はうっすらと微笑を浮かべて僕をじっと見つめた。
 顔の肌の色は下塗りしてあった。そこに目鼻と口を描き入れていく。まずは特徴的な彼女の目から。鳶色の瞳、大きな目。長いまつ毛。穏やかそうな印象を与える、少し垂れた目じり。だが彼女の性質は穏やかなだけじゃない。先輩の中にも目の吊り上がった修羅のようなものがいる、と思った。どうして僕は、そうした女性に巻き込まれるのだろう。
「裕信くん。谷重先生とのことは忘れなさい」
「忘れるも何も……」
 とぼけなくていいわ、とぴしゃりと雪音先輩は言う。
「わたしはあなたの絵の才能を評価してるの。その才能を、あんな女のために潰すのは勿体ないわ」
 絵の才能、と言ったって、僕が描いた絵は人目に触れていないはずだ。見ればその絵のすべてが谷重先生を描いたものだと一目瞭然で分かってしまうからだ。
 雪音先輩は憐れむような目を向けて、首を振る。
「知らないのね。あの女は、あなたの描いた、ずたずたにされたわたしの絵と、あの女の裸婦画を勝ち誇ったように見せてきたの。あなたが選んだのは自分だと宣言して、それであなたに近付くなと警告してきてね。でもわたしには分かった。絵を引き裂いたのはあの女だし、あなたが本当に描きたいのはあの女の絵なんかじゃないって」
 谷重先生はそんなことまでしていたのか。狂気の沙汰としか思えない。そこまで僕に執着していたとは、思いもよらなかった。
「もうあなたは自由よ。何の絵を描いてもいい。それがわたしなら、さっきも言ったとおり光栄だわ」
 僕は絵筆を持つ手が震え、雪音先輩の顔を汚しそうで怖く、絵筆を下ろそうとする。すると、先輩が立ち上がって近寄ると、両手で挟むように震える僕の手を包む。温かい手だった。僕に触れる谷重先生の手は、いつも氷のように冷たかった。先輩の手は日向に咲く花のように甘くて温かい。
「時間がかかってもいい。わたしはいつでもここに来るから。あなたが絵を完成できるように」
 どうして、と震える声でようやくそう呟く。
「あなたの絵を見て感動したから。あなたの描く、完成したわたしを見てみたいの」
 僕の絵は、機械的に描いたものだ。いや、それどころか恨みつらみを込めた負の感情の集積物でしかない。それを見て感動してくれる人がいるなんて信じられなかった。ましてやあの雪音先輩が、とまるで夢でも見ているような心地だった。
「でもね、これは恋愛感情だとか、わたしが君を好きだとか、そういう風には捉えないでほしいの」
 雪音先輩は慌てて手を引くと、顔を赤くして口を尖らせて言った。ああ、先輩のそうした表情も描いてみたいな、と思った。ただ澄ましているだけじゃない、笑ったり怒ったり、ころころと変わる表情を描きたい。この人の絵をずっと描いていたい。
 そう望んでも、雪音先輩が言ったように、先輩が僕に恋心を抱いてくれるわけはない。事情を察している先輩なら、僕の存在は汚らわしいものだろう。こうして美術室に来てくれて、ほんの一時、モデルをしてくれるだけでも十分すぎる献身と言わざるを得ない。それ以上を望むのは、傲慢だというものだ。
「ああ、君のことを嫌いだとか、そういう意味でもないのよ。ただ、ああ、もう!」
 もどかしそうに焦れて先輩は立ち上がると、羽織っていたジャージを脱いで僕の肩にかけた。
「わたしに包まれている気がしない? それなら震えずに描けないかしら」
 先輩の手に包まれているとき、震えは止まっていた。ジャージからは雪音先輩の甘い香りが漂っていて、それを羽織っていると確かに彼女に包まれているように感じられた。絵筆をキャンパスに伸ばしてみると、不思議と筆先は震えず、先輩の美しい瞳を描き込むことができた。
「先輩はいい人なんですか、悪い人なんですか」
 雪音先輩の態度を見ていると分からなくなってくる。僕は子どもじみたその質問をせずにはいられなかった。
「悪い人よ。わたしのエゴのためにあなたに絵を描かせる、悪い人。谷重と同じね」
 そう言って浮かべた先輩の笑みは悪女のものとは思えないほど、夕暮れの光が後光のように差して、清らかで気高いものに見えた。
「先生とは違うと思います。雪音先輩は美しい目をしているから」
 そう言って顔を上げると、雪音先輩は真っ赤になっていた。どうしたんです、と訊くとなんでもない、とそっぽを向いてしまうので、「それじゃあ描けないですよ」と言うと、「ちょっと待って」と悲鳴のように言って深呼吸を繰り返していた。
 絵を描き上げたときの雪音先輩の笑顔を想像すると、一刻も早く絵を完成させたいけれど、完成させればこの幸福なときが終わってしまうと思うと、ずっと絵を描いていたいとも思うのだった。
 夕暮れの美術室で、いつまでも僕と雪音先輩の笑い声が響いていた。

〈了〉


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