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箱庭の天使たち

 世界が滅ぶんだ。今日このときを以て。
 パズルのピースが剥がれていくように、街が、地面が、空がばらばらになっていく。その景色の中で、分解されずに超然と立っている天音は、眉を歪めて、泣き出しそうな、困ったような笑みを浮かべて、一すじ涙をすうっと流して言った。
 泰人は自分の体もまた分解されていくのに悲鳴をあげそうになったが、堪えて、空へと浮かび上がっていく天音の姿を目で追った。
 なあ、泰人。僕は一体誰なんだ。何者だと名乗ったらいいのかな。

 はっと跳ね起きると、そこは見慣れない部屋だった。
 古い桐箪笥が二さお並び、埃をかぶった五月人形やら兜がはいったガラスの箱が隅に置かれている。自宅にはない床の間があって、元気のない盆栽と何やら川や山を描いたらしい水墨画が掛かっていた。
 泰人はしばらく見慣れない景色に目をしばたたかせていたが、やがて夏休みを利用して、祖母の家に泊まりに来ているのだということを思い出す。それと同時に、友人の天音と十時に甍神社の前で待ち合わせをしていることにも気づき、慌てて枕元の時計を見ると九時五十分だった。
 まずい、と布団から跳ね上がって着替えると、茶の間で祖母にあいさつもそこそこに、食卓に並んでいた目玉焼きを口の中に押し込むと、昨夜の雨避けに納屋にしまっておいた自転車を引っ張り出して走り出す。
 天音は地元の小学生ではなかった。年は十二と言ったから、多分同じ六年生だろうと泰人はあたりをつけている。
 天音との出会いは不可思議だった。甍神社の大祭の中、りんご飴を舐めつつ齧りつつ、練り歩く屋台を眺めていた泰人は、ふと鼓や笛の音が大きくなって、人の喧騒が小さくなった気がした。すると、猫が人の間をするすると駆け抜けるように、天音が音と音の間を縫って近づき、泰人に向かって手を差し出していた。「僕、天音」。泰人は迷うことなくその手を取って、その日から二人は竹馬の友のような仲になった。
 ある晩、なんとなく話題が途切れたところに、祖母にその経緯を話して聞かせると、「そりゃあ、祭音(まつりね)だね。いや懐かしいね。昔はよく聞いたもんだ。あたしの幼馴染のサヨちゃんはね……」と長い話をした後に、「大丈夫。悪いもんでねえ。祭音は夏を過ぎると消えちまうから、存分に遊んでやんなねえ」と相好を崩してうんうんと頷きながら言った。
 泰人は話半分だった。確かに天音には謎が多いけれど、今のご時世「祭音」なんて誰も信じやしないさ、と半分は世間の常識とやらを齧った生意気さから、もう半分は夏を過ぎたら友人を失うという泰人自身が意識せざる恐れによって、強がっていた。
 時間ぎりぎりに間に合った泰人は路肩に自転車を停めて汗を垂らしながら息を吐いていると、首筋に氷のような、ひんやりと冷たいものを押し当てられて「ひいっ」と短い悲鳴をあげる。
 振り返ると天音が悪戯っぽい笑みを浮かべて立っていた。手にはコーラの缶ジュースが握られていた。
 天音は同い年だと言うが、傍目には小学校三、四年生くらいに見えた。泰人自身が学校では背の順で真ん中くらいなのに、それよりも随分小柄で、もじゃもじゃの癖っ毛に中性的な顔立ちとあって、幼さを感じさせる。そういえば男子か女子かも確かめてなかったな、と思うけれども、今更訊くのも気恥ずかしく、遊ぶのに関係もないから泰人はその疑問を胸にしまいこんだ。
「なんだよ、天音。お前も今きたのか」
 サンキュ、と言いながら天音の放ったコーラを受け取って開けると、炭酸が抜ける爽快な音がした後で、泡が飲み口から溢れた。
「いや。十分前には来て、向かいの駄菓子屋でコーラ買っといた」
「相変わらず気が利く奴だな。でもどうしておれがこっちにいるって分かったんだ」
 待ち合わせの約束は神社の前だった。甍神社はここから階段を上って行った先にあり、しかも上り口が二か所ある。そのどちらも泰人の祖母の家からは等距離であり、どちらにくるかは分からないはずだった。こういう先回りをするような、得体の知れなさが天音にはあった。
「たまたま。それより釣り、行く?」
 釣り、と聞いて泰人は目を輝かせる。泰人の父も釣り好きなのだが、過保護な母親が水辺は危ないから、と釣りに参加させてくれないのだ。そこへ天音の父が道具をちょうど二揃え持っているからということで、この日は釣りに行く約束だった。だが実際そのときになってみると、天音には親の道具を持ち出すなんて無茶なことをお願いしたんじゃないかと気が咎めてくるのだった。
「なあ天音、本当に大丈夫だったのか、親父さんの道具なんか持ち出させちゃって」
 天音はきょとんとした後で、どこか嬉しげな笑顔になって、「心配ないよ。ウチ、無関心だから」と首を振った。
 なんで笑ってんだよ、天音、と泰人は天音の脇腹を小突いたが、天音は答えずに笑ったまま、早く行こう、と泰人の手を引いた。
 天音の手は小さく、驚くほど白かった。祖母の家にあって暇つぶしに読んでみた地元の民話の本の中に、雪女の話があった。その中で雪女は「肌、深雪のように白く、眦氷のように冷ややかなり」と書かれていた。その表現を真夏に思い起こさせるほどに、天音の肌は雪のようだった。祭音、という祖母の言葉が胸をよぎり、泰人は首を振ってその考えを打ち消した。
 二人はそれぞれ自転車に釣り竿やバケツなどを括りつけて、甍神社から街外れの方へ十五分ほど自転車を走らせたところにある、鬼が淵という池に向かった。
 鬼が淵にはクチボソやフナが住み着いていて、大型の外来種の魚がいないと言われているため、初心者向けだと、酔った祖父と父が話しているのを泰人は聞いていた。
 餌のミミズを釣り針に通し、見よう見まねで竿を振るって糸を垂らしてみるが、二人の浮きは一向に沈まなかった。
 元来堪え性のない泰人は早々に飽きてしまい、手頃な岩を集めてきて竿を固定すると、珍しい石でもなかろうかとぶらぶらと歩き始める。
 天音は辛抱強いな、と考えて、足元に紅いまだら模様の石を見つけてしゃがみこむのと、天音の「あっ」という悲鳴というには間の抜けた声が耳をつくのが同時だった。反射的に振り返った泰人が見たのは、強い引きの勢いのまま、釣り竿と一緒に淵の中に飲み込まれていく天音の姿だった。
 泰人は天音の名を叫んで、集めた石をすべて放り出して全力で駆けると、天音が沈んでいった辺り、泡がまだ昇ってくるところを目掛けて、そのまま飛び込んだ。
 水の中は二人の人間が沈んだ衝撃のせいか、泥が一斉に舞い上がって視界が濁っていた。濁りというには生ぬるい、それは民家の明かりも、街灯も、月も星の明かりもない深淵の黒に塗り潰された夜のようだった。
 泰人は懸命に足を伸ばすが、水を切るばかりで、地面の感触はない。それなら、と天音の姿を手探りに探すが、こちらも水を掴むばかりだ。一度息を、と思っても、舞い上がった泥が体や衣服に付着し、重しとなって思うように上がっていけない。どうするどうする、と思考を巡らせている間に酸素は失われていき、思考は混乱をきたし、正常な判断ができない。
 死、という言葉と気配が濃厚に泰人に纏わりつき始めた。
「いや、君をこんなところでは死なせないよ」
 水の中なのに、天音の声が響いた。泰人の思考は理解を超えてしまい、考えることをやめてしまった。すると黒い泥の闇の中から真っ白な手が伸びてきて、泰人の腕を掴み、水を置き去りにするような速度で昇っていく。
 気づいたときには、泰人は岸に上がって、水を滴らせながら咳き込んでいた。顔を拭って視界をはっきりさせると、天音の姿を探し求めた。
 天音は泰人とは離れたところに立っていた。
 泰人はTシャツを絞りながら、天音に近付いてはっとすると同時に血の気が引いた。
 天音は水一滴たりとも滴らせてはいなかった。まったく濡れていなかったのだ。淵の中に、間違いなく落ちたにも関わらず。
 泰人は声を上げかけ、俯いた。「祭音」という言葉が心の中にこびりついていた。「悪いものじゃない」かもしれない。でも、自分とは異質な存在だ。
 天音は泰人には見向きもせず、空の彼方をじっと見つめている。
――それでいいのか。
 泰人はどこかから声が響いたような気がした。
――本当にこのままで後悔しないか。
 その声は自分の声のようだったけれども、もっと低いというか、そう、年をとった自分の声のように聞こえた。
 泰人は拳で胸をどんと叩いて、声を、勇気を振り絞った。
「天音がなんであろうと、おれたち友達だろ」
 天音はその声にひどく驚いたように振り返り、そして目を潤ませると、諦めたように首を振って再び空を見上げ、指さした。
「今回はイレギュラーなことが起こるからと思ったけど、やっぱりだめだったみたいだ」
 天音の言葉が理解できずにいたが、その指が示す方向を泰人も見て、「なんだよ、あれ」と目を見張って叫んだ。
 空がひび割れ、そこがパズルのピースが剥がれ落ちていくように壊れては消えていく。剥がれた後の空間には夜よりも黒い闇が覗いている。
「もう、僕も疲れたよ。何度繰り返しただろう。世界の崩壊を」
「世界の、崩壊?」
 今生きている、この世界が。そんなことあり得るものか、と気を確かにもとうと思っても、泰人には目の前で起こっている光景を否定する術がなかった。
「天音は今何が起きているのか知ってるのか」
 だが、泰人は目の前のことから逃げても、天音からだけは逃げてはいけないと強く感じた。だから、一歩前に踏み出した。
「知ってるよ。知りたいの?」
 泰人は頷く。聞いても理解できないかもしれない。ただ、あまり頭がよくないと自認している泰人にも、今の天音には話を聞く人間が必要なのだ、ということは分かった。
「ここはね、『箱庭』と呼ばれる世界なんだ。ここに存在するすべてが虚構のものであり、そして唯一君だけが『泰人』という人間のアバターなんだよ」
 天音は泰人が懸命に理解しようとして、けれど頭の中がこんがらがっている様子を苦笑して眺める。
「いいかい。現実世界の『泰人』は精神に重篤なダメージを負い、その治療として用いられたのが『箱庭』だ。といっても、従来の箱庭療法とは根本から異にするものなんだけどね。つまり、『泰人』の精神の中に、彼の思い出の一部を『箱庭』という世界として作ることで、彼の精神の傷を癒そうという治療なんだよ」
 泰人は懸命に話に追いつこうと思考の海でもがくものの、もがけばもがくほど糸は絡まるのだった。だが、絡まった糸も掴もうとしている糸の一部には違いない、ということを泰人は直感的に理解していた。
「それじゃここにいるおれは分身みたいなもので、本体となる『おれ』が別にいるんだな」
「そういう理解で間違いないよ」と天音は頷く。
 泰人は信じられない話だったが、信じないことには始まらない、と常識を一旦置き去りにする覚悟を決めた。
「そして君に課せられた役割は、『泰人』の精神の治癒の妨げとなっている事象を発見し、根絶すること」
 おお、なんとなく分かるぞ、と泰人は頷いた。「魔王を勇者が倒す感じな」
 そう言ったところで、泰人はあれ、と一つの疑問を抱く。『箱庭』の中のものはすべて泰人が知る常識のものだ。だが、その常識から外れる者がいる。
 祭音。祖母の言葉が蘇る。
「天音、お前の役割はなんなんだ」
 天音は虚ろな目で泰人を見据えた後、空を見上げる。「そう。それなんだ」
「僕は自分のことを、最初、いわば『治療薬』の役割かと思った。でも、僕にはどうやっても『泰人』を治療することはできない。次は君を導くナビゲーターだと考えた。でも、いくら君を導いても、結局は『箱庭』が崩壊してしまう」
 待ってくれ、と泰人は声を上げる。
「天音、世界は何度も崩壊していて、お前はそれを覚えているってのか」
 そうだよ、と言って天音は壊れたように腹を抱えて笑い出した。
「僕だけが。どうしてか僕だけが覚えているんだ。君は何も覚えちゃいない。無邪気に楽しい夏休みを繰り返すだけさ!」
 憎しみと悲しみに染まった目で泰人を睨みつけ、天音は両手を握りしめて震え、やがて何かに気づいたのかはっとして、再び虚ろな目になった。「そうか。そういうことだったのか」
「よかったね。『泰人』は救われるよ。何で僕は気づかなかったんだ。僕だけが異質なら、そういうことじゃないか」
 本当か、と理解が追いついたと思えば離される泰人は、とりあえず安堵した。すると、突然空から一振りの剣が降ってきて、泰人の前に突き立った。
 剣は西洋風の両刃の剣で、ゲームの攻略本などでよく見る形状をしていた。地面に易々と突き立っていることからも、切れ味は本物だろう。
「君がやりやすいようにその形にしたよ。勇者は剣で魔王を倒すものだろう?」
「魔王って、どこだ」
「君の目の前だよ。僕だ。僕こそが、この『箱庭』で倒されるべき魔王だったんだよ」
 泰人は懸命に首を振った。「そんなはずあるもんか!」
「いいかい、聞き分けてくれ。僕には自殺することはできない。『箱庭』が崩壊すれば新しい『箱庭』が創生される。その中で存在を維持して次の『箱庭』にいけるのはアバターである君と僕しかいない。君と僕は表と裏、陰と陽、ゲーム風に言うなら、勇者と魔王なんだ。これまではすべてのゲームで僕が勝利してきた。でも、君が僕を殺せば、ゲームは終わり、『泰人』は意識を取り戻すはずさ」
 泰人はそれでもなお首を振っていたが、自分の足元をふと見て、スニーカーが消え始めていることに気づき、咄嗟に剣を握った。
「それでいい。君は君を消そうとする魔王を倒す、それだけのことなんだ」
 泰人は剣を抜いた。真っ直ぐ青眼に構えると、思いのほか手に馴染んだ。きっとこういう細かいところの気配りが天音らしさなんだろうな――。走り出し、剣を引いて構え、振りかざし、そして、明後日の方向に投げ捨てた。
「泰人、君は――」
 怒りの声を上げようとする天音を、泰人は抱きしめる。
 小さな体だった。震えていた。言葉では強がっていても、天音が正しいのであれば、天音の存在は消滅することになる。それが恐くないはずなんかない。それをおくびにも出さず、泰人が迷わないよう魔王だなんて悪役の衣を着て、強がっていたのだ。その天音を斬ることがもしかすると正しい治療なのかもしれない。でも、泰人にとってはそんなものくそくらえだった。
 正しい治療なんてない。ここで正しいのは、おれたちがここで生きている、そのことだけだ。
 泰人は壊れゆく空に向かってそう叫んだ。
 なあ、泰人。僕は一体誰なんだ。何者だと名乗ったらいいのかな。
 天音は泣きじゃくりながら、泰人の胸の中でそう訊いた。
 お前は相棒だ。お前はおれで、おれはお前だ。
 口にしていて、その言葉が飾りではないことは泰人は分かっていたけれども、思ったよりもすとんと胸に落ちた。それは天音も同様だったようで、泰人の胸の中から顔を上げると、ぐしゃぐしゃになった泣き顔を擦って、「僕は、君?」。
 泰人はそうだ、と頷く。
「壊れた『泰人』の欠片であるお前を、ア、アバなんとかのおれが見つけ出す。それが正解なんじゃないのか」
 なんだ、と安堵の息をついた天音の体が緑柱石色の光を帯び、徐々に砕けてその欠片が泰人の体に触れると、雪のように溶けていく。
「僕たち、とっくに出会っていたのに。随分と遠回りをしたんだね」
「そうだな。すぐに分かってやれなくて悪かった。おれ、頭悪いからさ」
 天音はくすくすと笑って首を振った。
「いいんだ。僕は君なんだから、そこを織り込んでおかないといけなかったんだよ」
 なんか馬鹿にされた気がするぞ、と泰人がふくれっ面をすると、天音は声を上げて、心底楽しそうに笑う。
 そろそろ行こうか。僕。
 天音の声は微かになっていた。体のほとんどが泰人と溶け合っている。
「ああ、いつでも一緒だぜ、相棒」
 空が崩れ、大地が崩れ、そして一つになった泰人と天音も崩れ、すべてが消え去った。

 最初に見えたのは真っ白な天井だった。体は動かない。意思はあっても動かせるほどの力が体にないようだ。
 天音はどこだ?
 瞬きをする。一度の瞬きが長く感じられる。それだけ力がない。しばしの闇。
 ここにいるよ。
 声が返ってくる。いたか、と泰人は安堵する。
 ばたばたと自分の周囲が慌ただしくなる。白衣を着た男や女が狼狽した様子で駆け回っている。
 英雄の凱旋だ。
 そうだね。君は英雄だ。
 違う。おれたち二人、だ。
 僕も?
 ああ。誰がなんと言おうとな。おれたちは二人で一つだ。もう別れたりしないからな。
 目を開けた。長い、長い夏休みだった、と泰人は自嘲した。

〈了〉

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