ドラゴン・サーカス(前編)
――ねえ、ガルアン。
少年はベッドの上に腰かけ、窓から覗く雲一つない夜空を見上げていた。
――なんだ、早く寝ろ。明日も早いぞ。
男は毛布を頭まで被りながら忌々しそうに言う。
――あの大きな鳥の影はなに? あんな大きな鳥、見たことないよ。
――そりゃあドラゴンだ。
少年は好奇心に目を輝かせ振り返り、毛布にくるまったままの男を見つめた。
――でも、前はドラゴンなんかいないって。
――うるせえな。冗談だよ。ドラゴンなんかいてたまるか。
少年はそう、と残念そうに言って俯くと、しばらくして再び窓の外を見上げた。そのときにはもう、先ほど彼が見た大きな影は空になかった。
――そうか。見えるのか。お前には。
男は少年に聞こえないよう、小声でそう呟くと、首を振って毛布をかぶり直し、頭に浮かぶドラゴンの映像を打ち消しながら、静かに眠りについた。
少年はカーテンを引き、横になった。天井の染みが、空を駆けるドラゴンに見えた。
新しい年が始まった。いいことも悪いことも、何か人を驚かすようなことが起きるんじゃないかという予感に、集まった群衆はそわそわしていた。
年末の街頭で、「年明けてすぐの朝、我らはやってきてサーカスをご覧にいれます」、そう言って赤や白で顔を塗りたくった、極彩色の派手な衣装を身に纏った道化師がビラを配り歩いた。
「奇妙奇天烈奇想天外驚天動地の妙技が見たければ、我らドラゴン・サーカスのステージへ!」
道化師は声高に、一度もセリフをとちることもなく繰り返した。
ほう。来年は竜の年だ。そこにきてドラゴン・サーカスとは、なんとも縁起がよさそうだ、とみな疑うことなく喜んだ。
年が明ける、過去と未来の狭間の時間、この街では中心にそびえる銀の塔に煌めく、白銀の鐘楼を鳴らすことになっていた。
国から任じられて、たった一人街に駐留している銀の騎士が、巨大な銀の槌で鐘を打ち鳴らすのだ。その音色は天上に昇るような、または天上から降り注ぐ福音のような、得も言われぬ神々しくも美しいものなのだった。
そして街の者が恍惚として十度鳴らされるその音色に聞き惚れている間に、サーカスの天幕の設営は進み、古い年がその皮を脱ぎ捨て、新しい年という皮膚をまとう頃には、サーカスから新年を祝う祝砲が轟き、色とりどりの風船が空を埋め尽くさんばかりに舞って、サーカスの開演を知らせたのだった。
街の者たちはそのあまりの手際のよさに感服して舌を巻いた。本来なら鐘の音を聞き終わった後は、砂糖とクルナの実を砕いて混ぜ込んで焼いた菓子を食べ、子どもは眠り、大人は先祖の墓所に新年を迎えられたことの感謝を告げに詣でるはずだった。だがそれさえ忘れて、大人も子どもも、何かにとりつかれたかのようにサーカスの天幕へと飲み込まれていくのだった。
「お前も行くがよい。ここで年寄りの相手をしていることはあるまい」
銀の騎士は鏡面のように磨かれた銀の鎧を重たげに揺らしながら、豊かに垂れた白い顎髭をしごいた。
「いいのかい。モルガン様」
銀の塔の番人見習いのテッテは嬉しそうに目を輝かせて言った。今年十五になるテッテも、サーカスというものが都にあるのは知っていたが、見るのは初めてだった。
銀の騎士モルガンは重要な年末年始の大役の任をやり遂げて、安堵した老爺の穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「わしの分まで見てきておくれ。明日にでも話を聞きにこようかの」
テッテはありがとう、と叫ばんばかり言って、仕事道具の詰まった革袋を腰紐に括りつけ、一張羅の狼の革のコートを羽織ると、塔を駆け下りた。
モルガンは深くため息を吐き、「そろそろ引退かのう」と名残惜しそうに街並みを眺めた。
通りには既に人気がなかった。出遅れたことを悟って、テッテはあらん限りの力を足に込めて走った。虚しく風を切り、枯れた木の葉が転がっていく。街を包んでいる空気が、いつもより冷たく鋭いように感じられた。
テッテが天幕の入り口に辿り着いたとき、天幕の入り口は閉ざされ、その前には東の国で見かける、裸に薄絹一枚を羽織ったようないで立ちの、筋骨隆々とした二人の男が槍を手にして立っていた。
そーっと二人の間を通り抜けようとすると、目にも止まらない速さで槍がテッテの行く手を遮り、男たちのユニゾンの声が降ってくる。
「岩戸は閉じられた。資格なきものよ、帰るがいい」
テッテは怯みながらも、震える声で「少し遅れたくらい、何でもないだろ」と不平を申し立てると、男たちは同じセリフを今度は語気荒く繰り返した。
槍の穂の無機質で冷酷なきらめきを見て、テッテは息を飲み、天幕から離れた。酒場の入り口に置かれた酒樽の上に腰かけると、「ちぇ、なんだよ。おいらばっかり仲間外れにしてさ……」とぶつくさ呟いた。テッテには後日学校で級友に自慢され、入れなかった間抜けさを馬鹿にされるのが我慢ならなかった。
特に金持ちのマックスは最前列の上等な席でサーカスを見るに違いない。そのふくふくとした頬を紅潮させ、興奮気味にサーカスの素晴らしさの演説を一席ぶつ彼の姿が浮かんで、テッテはムカムカするやら、胃がきりきりするやら、心中穏やかならないものがあった。
「裏口から入るのはどうだろう」
表には見張りが立っていても、団員が出入りに使う裏口にはまさか見張りも立ってやいやしまいとテッテは考えた。だがいや待てよ。内部の人間だけが使うなら、鍵がかかっているかもしれない。鍵がこの辺りで使われているシンプルな錠前式なら、下水道に住んでいる空き巣のファンテ爺さんから開け方を教わったことがある。でも、東国式の難解なパズル式錠前を採用されていればお手上げだ。
パズル式錠前は鍵穴の中が複雑に入り組んでおり、パズル錠を差し込んで、決められた手順通りに錠前を回転したり変形させたりしなければ開かないようになっている、空き巣泣かせの仕組みだった。だが、その錠前の仕組み自体が東国で秘されているために、この辺りで見ることはまずない。
まあ、まずは行ってみないことには分からないさ、とテッテは樽から飛び降り、門番の男のたちの注意を引かないよう裏道に入って駆けだした。
この街は一本の大通りが南北に貫いて通り、その大通りを大樹の幹として無数の通りが枝のように伸びている。その中には陽の光が届かないような、薄暗い裏通りもあり、家も財もない貧困者や堂々と表を歩けない犯罪者でひしめいていた。それゆえ、真っ当な人間なら裏通りに足を踏み入れることはない。
テッテは裏通りで生まれた。母親は生後間もないテッテを置いて姿を消した。捨てられた赤子は、残酷な話だが、飢えたものたちの食物にされる。ここは人が人を喰らう地獄のような場所だった。だが、最初にテッテを見つけたのは、「騎士殺し」の異名で呼ばれ恐れられていたガルアンという男だった。
ガルアンは裏通りのいくつかを縄張りにしていて、その中に住む者はガルアンに逆らうことができなかった。逆らおうものなら、ガルアンは殺した騎士から奪った銀の剣で逆らったものの首を容赦なく刎ねただろう。
ガルアンは粗暴な男だったが、冷静で頭が切れる部分もあった。所作にもどこか訓練され、研ぎ澄まされたところがあり、ガルアン自身、かつて騎士だったのではないかと噂されていたが、ガルアン亡き今、真実は分からない。
彼がテッテを拾ったのは何かの打算があってのことか、単なる気まぐれか。どちらにしても、慈悲をかけたわけではないのは確かだった。
テッテは成長するとガルアンの元でこき使われた。身の回りの世話は勿論、縄張りの管理まで手伝わされた。弱ければ舐められる、ということで、毎日厳しい剣の修練を強いられた。それは稽古というより、一方的にいたぶられるだけの、苦痛な時間だった。だが、五年も訓練すると、テッテには才能があったのか、ガルアンの剣になんとかついていけるようにはなった。それでもちょっと本気を出されると一方的な展開になることは変わらなかったが。
テッテが十三になる年、ガルアンは死んだ。殺されたのだ。
ある日、ガルアンとテッテが裏通りを巡回していると、藤籠のバスケットが通りの真ん中に置いてあって、そこから赤子の泣き声がしていた。確かめようと足を踏み出したテッテを制して、ガルアンはすたすたと籠の方に歩いて行った。テッテも後を追う。
籠の中には産着にくるまれた、生まれたばかりの赤子が子猫のような弱弱しい泣き声をあげていて、ガルアンは珍しく表情を崩して笑うと、「お前もこうだったんだぜ」と振り返り言った。
ガルアンが籠の中に手を入れ、赤子を抱き上げようとした瞬間、ガルアンは呻き声を上げて手を引いた。テッテが狼狽して見ると、ガルアンの掌から血が流れ、傷口がうっすらと紫色を帯びていた。
舌打ちして、ガルアンは赤子の産着を引っ張って持ち上げると、忌々しそうに赤子を放り投げた。レンガの壁に激突した赤子は泣き声をあげなくなった。
籠の中には、手を差し入れたときに刺さるようナイフが固定してあった。先端にはガルアンの血が付着し、刃は鈍く光っていた。
二人は引き上げ、隠れ家で傷の手当てをしたが、ナイフにはどうやら強い毒が塗られていたようで、ガルアンはあっという間に衰弱していった。
やがてテッテが匙を口元に近づけてもスープが飲めないほど弱った頃、ガルアンが懐から紙の束を取り出してテッテの胸に押し付けた。見ると、手紙らしかった。
「銀の塔は知ってるな? あそこにモルガンという騎士がいる。やつは俺の昔馴染みだ。やつにお前を任せる。学校に行き、仕事をして、真っ当に生きろ。このままここにいれば、俺が死んだ後お前は裏通りの奴らに八つ裂きにされる」
テッテは抗弁したが、ガルアンが「言う通りにしろ。いいな」と元気だった頃の鋭い眼差しと口調で言うので、渋々頷いて、その夜の内に荷物をまとめて隠れ家を出た。
そして銀の塔に行き、モルガンに会い、今では普通の子どものように学校に通い、自分の学費や生活費を稼ぐため、塔守の見習いとして働いている。風の噂でガルアンは死に、その死体は散々いたぶられた挙句鳥に啄まれ、惨い最期を遂げたと聞いた。そしてガルアンという抑止力を失った縄張りは無法地帯になり、強盗や殺人が横行した。縄張りの住人が街にまで出てくるようになったので、治安維持の兵士たちが動員されて多くの住人が処断され、ガルアンのかつての縄張りは人のほとんど住まない、不気味な静けさに満ちた場所になった。
〈中編へ続く〉
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