【小説】朦朧
救急車のサイレンが聞こえてきたと思ったが
違った。実際には自分の頭が勝手に記憶のど
こかから引っ張って来て鳴らしているサイレ
ンの音だった。そう思っているとエンジンの
唸る音が聞こえてくる。これもまた幻聴かと
思うと、駐車場から聞えてくる実際のエンジ
ン音だった。どうも意識が浮ついてしまって
いる。これはすべてここ数日間私を悩ませて
いる高熱のせいである。遠ざかるエンジンを
聞くとは無しに寝返りを打ちながら頭を動か
す。底に砂でも堆積しているかのように重た
い頭が半回転したことにより、その砂が一気
に攪拌されたような、澄んでいた上澄みが無
くなっていく感じがして、視界が回転してい
るような錯覚に陥る。それはゆっくりと回転
しているということではなく、針金をペンチ
で少しずつ折り曲げて丸めているような強引
さを伴っていて、こちらが無理矢理視界を正
そうとすると、逆に今度は身体が回り始める
のではないかという感覚になる。視界と身体
のバランスの崩れた、まさに船酔いのような
状態になり、怖くなって目を閉じる。このま
ま眠ってしまえれば楽なのにと思いながら、
それでも意識はあらゆる扉を手荒にノックし
ていく。浮かんできたのは会ったこともない
女の姿だった。いや最近会ったかもしれない。
お互い裸で風呂に入っている。ああ、あの店
のと思っていると、壁に黒い影が過ぎ去って
行くのが見えた。この時期にまさかと思って
いるとやはりまた黒い影が白い壁紙の真ん中
にいるのは見える。何もこんな時にと思い、
やっとの思いで起き上がって殺虫スプレーを
探すが、見当たらない。そうこうしているう
ちに黒い影は消えていた。再びベッドに横に
なろうとするが、自分はずっと横になったま
まで、一切起き上がっていなかったことに気
が付く。そうなると今起き上がったのは夢だっ
たのか。それよりも黒い影に気を取られて消
えてしまった女のことを考えるがもう顔すら
思い出せない。そのときインターフォンが鳴っ
た。また幻聴かと思うと再び鳴った。誰だろ
うと思い、ベッドから上半身を上げる。次鳴っ
たら今度こそ対応しなければと思っていると、
また鳴った。しかも間を開けずに二度連続で
だ。こちらが高熱でうなされているとも知ら
ず、なんて迷惑なやつなんだと怒りが湧いて
きた私は、どんな用件だろうともう居留守を
決め込んでやろうと思ったのもつかの間、私
の中からもう一人の私が玄関へと飛び出して
行き、インターフォンを鳴らした人物を部屋
の中へと連れ込んできた。その人はアパート
の管理会社の人で、近々外壁塗装工事をする
旨を伝えにきたというのだが、私には一切理
解の出来ない言葉で話していて、詳細の書か
れた紙を渡されたが文字が滲んで読めなかっ
た。私が質問しようとすると、管理会社の人
は大声で叫び出し、それは人間の声というよ
りも、エレキギターをかき鳴らした音に近く、
このギターリフどこかで聞いたことあるなん
て思っていると、私の中からギターリフに合っ
たドラムリフが溢れ出し、その場は一瞬のう
ちにスタジオセッションへと早変わりした。
次々と浮かんでくるギターリフに合わせ、こ
ちらも最適のドラムを叩く。そして生まれた
セッションは今だに誰もが聞いたことのない、
最高のロックへと昇華していく。もし私に楽
譜を書く能力があったのなら、このセッショ
ンをすべて書き残せただろう。だがそんな才
は私には無く、ただただ生まれていくギター
とドラムのセッションに身を任せるしかなかっ
た。これはすべて幻聴で、ここで鳴っている
ギターもドラムも、過去に私が聞いたことあ
る曲の断片を適当に並べているだけなのは分
かってはいるが、それでも頭の中でギターと
ドラムを演奏しながら、未知の曲を作り上げ
ているのはとても楽しかった。今私は眠って
いて夢を見ていたのか、それとも起きている
状態で思考だけが異様に働いて幻覚幻聴を起
こしているのか、それは分からない。スマホ
のカバーを開くと、それに反応した画面が目
を刺す強烈な光を放つ。目を細めて時間を見
ると救急車のサイレンを聞いた時から少しも
経っていないことが分かる。いや、救急車の
サイレンはいつ聞いたのだろう。あの時の私
は時間なんて確認していないはずである。サ
イレンを聞いたのはいつだったか。そう思え
ばギターとドラムのセッションも今初めて体
験したものではないように感じる。そうなの
だとしたら、私が今見ていたものは、私が今
見ていたものか不安になってくる。私が今見
ていたものは、私が今見ていたものであると
いう確証はない。私が今見ているものは、ゆっ
くりと回転していく天井だけだ。
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