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最近の自省録(アフォリズム)

・ステートメントありきの作品よりも芸術作品単体が独立して感動を形成している方が高尚と思う。なぜならステートメントは芸術作品単体の意味を補完する役割を果たしており、それは文学に依存するからである。仮に文学や言語が消失して、そのステートメントに書かれている文字列が意味をなさなくなった世界があったとして、芸術作品単体から発する意味や感動を、客体に共有できるモノであった方がいい。その理由としては、人間の感性は経験的もしくはアプリオリからきており、その感性を芸術作品単独の汲み取りにより、作者への共感や感動を得る行為は言語化できず、より人間の共通意識を刺激するモノだからである。

・読書体験には、①今まで自分が感じていたものは他の者でも感じてたのだという共感を得る行為②自分の思考の変化の契機になること の2つのメリットがある。しかし、その本を読んでいる時点では高次すぎて理解できなかった内容はその場では「理解できない」としてスルーされ、未来で理解できる知識感性が身についたときには、その本の中での記述を忘れている。

・芸術とは、作者の思念への共感とその共感を得ようとする姿勢である。

・もしかして影って一番原始的な二次元なのではないか

・自分が主観から出ることはどうしてもできない。しかし、客観に影響を与えることはできる。それが思考を発言したり、行動するなどのアウトプット行為であって、それで初めて客体的な自分ができあがる。その客観が、主観の自分の限りなく似た自分であることが一番幸せと思う。

・日記や手記など個人体験記のことをエゴドキュメントという。それを活用し、客観的に追体験する行為は、感受性が豊かとなる。それはフィクションではなく実際にあった誰かの「体験」であるからである。写真は、自己表現として芸術、アートの路線で客観を意識した写真を撮ることにも意味はあると思うが、最終的に帰着する考えは「写真はエゴドキュメントとしての効用が大きい」

・「分子構造が完全に一致したものでなければ、完全なコピーとは言えない。」という主張は、「瞬間の状態」にしかオリジナルは存在しないことになる。なぜなら分子レベルの移動とぶつかりは瞬間(最小単位)で起きており、常に変化するからだ。ゆえに、その瞬間の単位はとても細かいため、秒レベルで置き換えると1秒前の自分と今の自分は違うことになる。この考え方は自分だけでなくそれを取り巻く環境(取り巻く分子)も自分を構成する要素となるため、自然の恩寵などの信仰があることにも納得する。

・一番根幹となるのは人間の意識であって、意識が受け皿になっていて認識が始まる。その認識は瞬間瞬間の連なりであるが瞬間の最小単位は人間の単位と、世界(事象としての世界)の単位が異なるので、人間が捉える意識には限界がある。人間は世界の事象を捉えることはできず、全て可能性や過程の話で捉えなければならない。

運は解釈。運は、知ることで変えれる。例えば「今日は信号にたくさん止まる」は事実だけ見れば、進行タイミングが赤信号にぶつかるという不可抗力のように感じるが、実際は信号システム自体、人工的に作られたモノ(自然ではない)であるためそのシステムの仕組みを認識していれば運を変えることが出来る。ただし、これは人工的や仕組み、もしくは予測対象が断定されている場合だけであって、自然、もしくは対象が複数になるほどカオス理論的に知っておかないといけない項目が増えていき結果的に「運」の解釈に帰着しやすい。

日記のメリットについて。時間は記憶を風化させる。しかし同時にそれは記憶された対象を客体化させ、その伝達は逆に容易になる。記憶自体はあくまでもその人だけのもので、他人はそれを共有することはできない。しかし、記憶を基にして構成した絵、物語、文章はそれに接する人々に、客体化され、それによって改変された記憶の一端を提示することができる。だが、時間を経由して提示された記憶は、すでにその人の体験した事実ではない。体験者にとっては、客体化されたが風化した体験をもう一度そのまま自分の目で見直す追体験として、そして日体験者には戦争への認識を一つの事実として認識することができる。


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