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帰国後一ヶ月半、生活感に飽きた

帰国後15日の私はこんなことを言っていた。

日本に帰ってきて、地元の日々の生活が営まれてる感じがたまらなく豊かだ、と。おそらくこの時はいい意味での逆カルチャーショックというか、新鮮さが抜けていなくて、目をキラキラさせていたんだろう。

ところがいったん日常が始まると、今度はその閉塞感や理想との違いに愕然とするのだ。さっき洗ったのにまたシンクに溜まってるお皿たち。すぐ散らかる部屋。時差ボケで奇跡的に治っていた生活習慣も、気づいたらとんでもないことになってて、すぐ日は暮れちゃうし、いくらコーヒー飲んでもなかなか目が覚めない。バイトは飲食よりはキツくないけど、ストレスがないわけではない。

そうだった、日常ってたまらなく途方もないんだった。

そして生活って、その途方もない日常の繰り返しなんだった。

そりゃあその連続の苦しさを知れば、パートナー作って誰かと日常を共有したくもなろう、と。それは完璧であろうとなかろうと、一種の救いでもある。

そしてこの一種の諦めは、「ホーム」においても同じことだ。自分の居場所を感じ、そこに居続けるということは、自分の存在の定義をその場所に委ねることでもある。その場所の規範や期待から自由になることはほぼ不可能だ。

さっきネットフリックスで「VILLAGE 」という映画を見たんだけど、それはとある古い村の話で、若者たちは自由を求めて、大人は村・伝統の存続と利益を求めて傷つけあう話だった。これを見ていて、留学中に出会った民族コミュニティのことを思い出していた。「居場所」を求めて心が彷徨っていたときに友達を介して出会ったその場所は、みんな顔見知りで、血縁と地縁で結ばれたあたたかさはあるんだけど、同時にゴリゴリのジェンダー規範やゴシップ文化に息苦しさや違和感を感じていた。あんなに求めていたコミュニティなのに、なんか苦しいな。わたしはその時この感覚を言語化するのをためらっていた。でもやっぱりモヤモヤして、この記事にした。

私はまだ夢の中にいるんだろうか。帰国前に、友達とロードトリップした二週間があまりに温かく刺激的だったせいで、そのときの(この友達とならどこへでもいけるという意味での)全能感というか、安心感みたいなものにまだ浸っているのかもしれない。助手席に乗り、安いモーテルに泊まり、ファストフードで凌ぎながら、20年前の幼稚園の先生を含めたいろんな人に会った15日間。帰国後二週間くらいは、その一緒にロードトリップした友達とよく連絡を取っていたんだけど、ひょんなきっかけで突然途絶えてしまって、それで私はやっと、この夢は終わったんだと思い知らされた。それはじゃっかん失恋に近いような、目に見えないけどズキズキと痛む傷をもたらすものだった。

痛みって、感じないようにすると膨らんでいく気がする。そして伸びてゆく。未来へ。痛みに蓋をすると見えなくはなるんだけど、ほんとはずっと身体のどこかにしまわれて未来まで付いてくる。そしてことあるごとに、無意識に自分の言葉や行動や意思決定を左右するんだろう。村上春樹の「ドライブマイカー」で、妻の死に向き合うことを避けてきた主人公が「僕は正しく傷つくべきだった」というセリフがあった。「おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ」とも。

海と文化と言語を超え、関係性の始まりと終わりを経験した自分の痛みを、私は喜んで受け入れようと思った。いやうそ、傷つきたくなんかないけど、でもこの傷さえも自分の経験の一部なんだと、そのままで認識したい。そりゃ、人になかなか言えなかったり、理由は自分のせいなんじゃないかなって思っている傷の一つや二つ、誰にだってあると思う。でもそれらは同時に自分の殻を破って挑戦したり、だれかを信用したり、関係性を築いたりしたことの証でもあるのだ。

さようなら、アメリカでの日々。走り始めた飛行機の窓からお別れは言えたつもりでいたけど、どうやらまだ心の中では終わっていなかったみたいだ。

もしかしたら、この日本での日々を成り立たせていく、そして近い未来のために準備していくというプロセスそのものが、アメリカでの日々に別れを告げる行為だったのかもしれない。

そんなタイミングで、とある友達がとある動画を送ってきた。その動画によると、鷹は、40年ごとに全身の羽を抜いて生え替わりを待つ苦しい90日を探すらしい。でもそれを超えると、生まれ変わったかのように強くなれる、と。

留学開始直後、終了直後のトランジッションはすごくつらい。特に帰国後は、楽しかった日々の終わりや関係性の変化、逆カルチャーショックの中で、身体の一部をもぎ取られるかのように、留学中の愛着を取り外してゆく必要がある。それは鷹が羽をもぐ行為に似ているかもしれない。それに伴う痛みは、もっと強い羽を生えさせるために必要な過程である。同じように、記憶や愛着から静かに距離を置いてできた余白には、きっと新しい関係性、機会や経験が巡りくるのだろう。

最近感じていたことを、思い切って言語化してみた。次は、これを全身で感じて、全部の感情を、それでいいんだよって受け入れていく、embodiment(体現)のプロセスな気がしている。頭でっかちにならず、ジャッジせず、ゆっくりでいいから、留学の思い出という名の羽をもいでゆくことにしよう。

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