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沖縄差別どころではない!朝ドラ「ちむどんどん」に見られる「無敵の人」出現のプロセスと現代差別思想

毎週のように炎上して話題に事欠かないNHK朝ドラ「ちむどんどん」だが、炎上マーケティングだとすれば私も残念ながら、まんまとその罠にはまっている。視聴率も低迷しているが、なぜかネットの批判記事は盛んに積み重なる昨今だ。

さて、以前も「にーにー」こと竜星涼が演じる賢秀や主人公暢子の働くイタリアンレストランのオーナーの無能さについて記載した(下リンク)が、今回はそれどころではない。クリミナル・マインドが伺える現代病理や現代差別思想の根源に似たものを作中に発見したので、それについて記載したい。

ITの出現以降、急速に効率化が図られた現代社会はコロナ危機を経て、リモートワークなどさらなる効率化が進展した。この中で、今までなんとか保っていた「ゆとり」という概念が、とくに都市部、さらには首都東京では完全に崩壊したといって過言ではない。働かないおじさん、老害といったキーワードの頻出が増えているこの世界で、生産性がないことはイコールで社会的蔑視の標的となる。
なかでもそれに拍車をかけた張本人こそ、IQの高いリアルジョーカー成田博士である。(下リンク参照)

それはさておき、なぜ賢秀に批判が集まるかといえば、一つには倫理的に社会にいてはいけない犯罪予備軍の人間だからだ。いや、すでに詐欺事件や窃盗、暴行事件を起こしながら刑務所に入っていないという点で社会に潜んでいる犯罪者という言い方のが正しい。
我々まともな現代社会人はこういう存在をミュートしたいし、この世の中から消えて欲しいと切に願っている。
もう一点は、消えて欲しい存在、つまり生産性がなく、社会的な不良債権が賢秀という人物なのだ。
日本は、すでに成長が止まり、横ばいか右肩下がりの下方修正の先進国になりつつある。
こうなると、社会的な不良債権に目を瞑る余裕はないのだ。
この生産性がないイコール悪の構図が賢秀という登場人物への批判に繋がっている。
中でも、母親役の仲間由紀恵は「なぜ叱らないのか?」というクレームが興味深い。
江戸時代や明治、大正、昭和と、近代に至っても、日本は地域という共同体が一眼となって、コミュニティーやこの世の中全体をよくしようという思想があった。それは江戸時代においても、士農工商という身分や階級がありながら、実はどの身分もほかの身分への共感や理解、シンパシーやエンパシーをもっていた。それが歌舞伎や花火という伝承された文化から伺える。「三丁目の夕日」にAlwaysという名前がつけられたのも、その共同体的平和や治安維持思想が根底にある。
しかし、80年代以降日本もバブルなど高度成長によって、アメリカと張り合うような近代国家となり、経済力と工業生産力をつけた一方で、それは失われ、90年代にバブル崩壊後もさらなるアメリカ化、競争社会化によって、敗者イコール悪の構造に転換していく。
それは田畑の減少とともになくなった点も興味深い。
この敗者への配慮や再生産、説教や保護による公正の装置が社会的になくなってしまったことこそ、賢秀という犯罪者を誕生させる土壌であり、この犯罪者が自分が無能であると気づけないのも、無能であると気づかせる一方で、誰一人希望を与えるということができる大人がいない世界になった日本という社会の縮図なのだ。
一方、賢秀が働く農場の親父さんこそ、実はこの日本という社会における唯一の治安維持および共同体の回復装置なのだ。彼ほどこのご時世に求められる救世主的な存在はいない。

加えて、暢子の以前の同僚であり、先輩だった料理人は7/29放送分では「無敵の人」となり、再登場する点が興味深い。ようやくここで無敵の人の誕生プロセスが我々凡人にも理解できるようになる。
暢子の先輩でありながら、年功序列以外に保てる面子もなく、結果料理の腕も才能も乏しく、おまけにマネジメント能力も情報処理能力もないといった具合で、逆上して店を出ていく。そして、結果どこにいってもやはり使い物にならないのか、ノコノコかえってきて復讐という身勝手な動機で犯罪を犯す。
これこそ現代社会におけるアメリカの銃乱射事件や日本の地下鉄の無差別暴行事件発生のトリガーなのである。
能力主義の競争社会では敗者のが多くなる。
一度競争の決着がつくと、勝者は過剰に肥え、敗者は過剰にジリ貧になる。
これが行き過ぎると正当な手続きでは、敗者は生活さえも手に入れられないという社会になる。
だが、実はこれはアメリカでは現実になっているが、日本はまだそれになりつつあるかもしれないが、そういう状態に至ってはいない。
しかし、臆病な人間はそれを危惧して慌て、ことを荒立てる。こうして、実は平和であり、敗者復活可能な社会でありながら、勝手に自分を敗者と思い込む、あるいは無能であるのに無能と気づけず、ある日嫌気がさして犯罪に手を染めるという構図を朝ドラの放送とそれに集まる批判の流れは教えてくれているように私は思う。

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