私たち親ができる子育ての努力は!?

ペンシルママです。今日は「子育ての努力」について考察してみたいと思います。参考にした動画はYOUTUBE「誰も言わない本音を言う塾講師」のチャンネルで拝見した、「親が子を勉強好きな性格に育てることはできないという衝撃事実の根拠に納得!?」という動画です。ここでは親が子どもを「勉強好きに育てたい、ストイックに何かを極めて欲しい、友達をいっぱい作る子に育てたい~」といった人格形成にかかわる努力について語っているものだそうです。

自分=遺伝+環境(教育)でできていますが、性格の中で勤勉性という部分は「非共有環境」(つまり家族以外の影響)が半分近く影響を受けているとのこと。なぜ子育ての努力が無駄なのかは、人の生存戦略によるものだそうです。それは旧石器時代の子育てまでさかのぼります。人の母親は約1年もの一人子にかかりきりとなりますが、乳時期が終わると、母親はその子にばかり関わるわけにはいかなくなります。母親の生存戦略はできるだけ多くの子どもを産むことだからです。父親は狩りに行き、母親は次の子どもの子育てにかかりきりとなるので、授乳期を過ぎた子供は、同世代のグループ集団の中で学んでいくことになったはずです。それが「非共有環境の正体」だそうです。生き残るためにその集団の中で立ち位置を決めることが重要だったのです。この話を現代に置き換えると、同世代のグループ集団は「学校」や「そこでの友達関係」「部活動」などとなり、「非共有環境」となるということです。その中で生きていけるように自分を最適化していきます。性格も生まれつきの遺伝+友達環境の中で決まっていくそうなのです。

ペンシルママは振り返ると勤勉タイプ寄りの人間だと言えます。コツコツ勉強して努力していくそんなタイプでした。しかし、成績は、いわゆるボリュームゾーン(偏差値50~60))難関大学には届かず、浪人しましたが希望の大学へは手が届きませんでした。受験勉強が好きか分からず、それでもただコツコツ勉強するタイプでした。
しかしそれは親の影響だとは全く思えません。少なくとも妹とは全く異なるタイプですし、兄弟で全く性格やタイプの違う人など、この世の中いっぱいいるでしょう。

ペンシルママはもともと人とのコミュニケーションも上手ではありませんでしたし、クラスでもお友達の少ないタイプでした。お友達が学校を休んでしまったら他に話す子もいない、たくさんの人とコミュニケーションを取ることが難しいタイプだったので、空いた時間(昼休み等)を勉強する、本を読むしかなかったのだと思います。だからこのような勤勉な性質が出来上がったのでしょう。自分の生存戦略として、「勉強を頑張る人」になったのだと思います。

このような話を聞き、自分の過去を振り返ると、やはり親の努力で子どもの性格を変えられることはあまりないのだと実感します。
そもそも「学校の勉強=受験」のような配列となっているのが今の教育です。それに向いている子ばかりでないのに皆がそれに向かって取り組まなくてはならないような状況で、好きでもないものを勤勉に取り組むのはとても労力のいることです。極めて難しいことでしょう。ただ「勤勉性」というのはどんなジャンルの道に進もうとも持っていて損をしない気質だと思うのです。受験しない道へ進もうとも、どんな仕事も活動にも最初があり、こつこつ経験を積み重ねていくしかないのですから。そしてその活動への取り組み方次第で、ある程度皆が身につけられる性質ではないかと思いました。地頭や勉強できるかできないかといったベクトルとは異なる性質だと思うのです。

「「勉強するようになる」方法については、ドーパミンが関係しているそうです。これはペンシルママの別ブログでも書いていますが、「とことんハードルを下げて行い、小さな達成感を日々繰り返すこと」だそうです。

また大人になると受験とは関係なくその勉強に向き合えますし、試験とは違った尺度でその分野に関わることで、過去はそんなに好きではなかったことが好きになることもあります。ペンシルママは今は昔よりもずっと「学習」を楽しめていると思います。本を読むのも好きですし、自分の好きなことを好きなように学べているからでしょう。
ペンシルママの友人で、とあるイギリス人の俳優が好きになったことにより、英語を熱心に勉強し始めたお友達がいます。どの子は学生時代はどちらかというと「歴史分野」が好きで、(それも日本史)あまり英語や海外関連の話は出てきませんでしたが、今はいつかイギリスに行くという目標もできて、英語学習を頑張っているそうです。
夫は学生時代は一切歴史に興味を持ちませんでしたが、大人になって歴史などこれまでと違う分野に関心を持つようになりました。
勉強を、「受験」とか「就職」というベクトルだけで測ってしまうのはとてももったいないと思います。違った見方をできれば学びは本来とても楽しいものだと思うのです。同じように、子どもの習い事も将来の為に、というベクトルだけで選んでしまうのはもったいないと思うのです。

娘の話ですが、娘はどちらかというと外では自分を出しにくい控え目なタイプのように感じていましたが、習い事をきっかけに自分の好きや得意に気づき、自分を表現する手段を得たようで、それは「勤勉さ」だけでない性格面での影響も大きかったと思います。親と先生といる時はほとんど話さないのですが、親がいなくなって先生とお友達と一緒にいる時は「沢山おしゃべりしてくれますよ。」と、先生からよく聞いたものです。

という訳で、学校という狭くかつ特殊な環境だけで子どもたちが生存戦略を決め性格を決定していくのはある程度仕方のないことだとします。しかし学校という小さな枠組みだけにはまって、勉強が向いていない、楽しくない、友達関係も苦手と思ってしまうのはもったいない気がするのです。学校は変えられません。カリキュラムも決まっていて、学ぶスピードもおよそ一律で、置いてけぼりになる子を細かく見てはくれません。逆に出来過ぎる子とってはその子に合ったカリキュラムをくれることもあまりないでしょう。クラスメイトだって先生だって自分ではどうしようもできない縁にふりまわされるばかりです。合わない環境で忍耐力を付ける努力ばかりでは希望は持てません。

そんな状況で親はただ指をくわえてみているだけにはいきません。親も子どもが少しでも良い方向に向かう手助けが出来たらと願うはずです。学校の勉強のスピードと我が子が合っていなければ、親も一緒に見てあげたり解いたりして、また親の力不足な問題は塾の先生の力を借りて、1つでも多く問題に取り組み「解けた」という体験を増やしていきたいですし、非共有環境に大きな影響を受けるのであれば、非共有環境の幅を少しでも広げたいと思いました。学校以外でいかに楽しめるものを作り、場所を作り、人と出会えるか。自分の子ども時代を振り返っても、そう思うのです。


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