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残機ゼロからの性善説

どうも、加齢による早起きを都合良く解釈するマンです。

最近……というか、ここ5~6年くらいを振り返って、ひとつ思うことがあるんです。

「なんとか、法の裁きを受けずに生きて来れた」と。

……いや、僕は特段、規範に背いた手口で稼いでいるとか、倫理に悖る問題を起こしているとか、そういったクチではないですよ。
「な~んにも問題ありません(法的には)」的な、グレーゾーンで脱法な行為を働いておるわけでもありません。
そういう知恵は回らないし、度胸も持ち合わせていないのです。

なんの話をしたいかというと。
ある、ニュースを見たんですよ。

トヨタ 10車種出荷停止 豊田自動織機エンジンで認証取得の不正
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240129/k10014339221000.html

昨年に大きく話題となったダイハツの不正に続き、トヨタでも大規模な問題が見つかってしまったそうです。
正確には「トヨタ自動織機」というフォークリフト等を作っている会社で、僕ら一般人が馴染み深いトヨタ自動車とは若干違う話……
だったのですが、程なく「アルファード」「ランドクルーザー」といった巷の大人気&ご長寿カーにも波及しました。

本件については
「トヨタはどう責任を取るんだ!」
「なにを見て検査を合格させてたんだ!」
「国交省は今までなにしてたんだ!」

といった責任の追及はもちろん、
「なんで不正が常態化してたのかを調べろ!」
「やった人よりやらせた人が悪い!」
「まともに基準守ってたら成り立たない仕事なのか!」

といった、体制の見直しを求める声もありますね。

情報が高速で多方面に行き来する今の時代、一昔前よりも”多様な”意見を、素早く誰もが表明できるようになっています。
ただ、とはいえ主力の視点というのは依然としてあるようで、その座がマスコミからネットメディアやインフルエンサーらに取って代わられており、そうした群雄割拠がいわゆる「逆張りや露悪による炎上商法」であるとか「私刑や社会的制裁の過度な信奉」を引きおこしてしまってもいます。

まあ、今回はそういう現代社会に鋭く切り込むつもりなど毛頭なくて、この一連の騒ぎにハッとさせられることがひとつあったので、そっからダラダラ話を広げちゃおうかな~という魂胆です。


そういうわけでまず紹介したいのが、このニュース。

【不正発覚】ダイハツ出荷停止 その背景に「認証は性善説のものが多い」自動車ジャーナリストが指摘「抜け道があるなら考え直さなきゃいけない」【MBSニュース解説】(2023年12月21日)
https://www.youtube.com/watch?v=laDAGToh8bc&ab_channel=MBSNEWS

このニュースでは、先述のダイハツ問題について
「検査官が立ち会って試験するわけでなく、メーカー側に試験を任せ、その結果を提出させて合否を出す。これは要するに性善説に基づくシステムである。今回のスキャンダルは、こうして無条件にメーカーを信用する現行制度の問題をあらわにした」
てな感じのことを言っています。

これは、国交省が立ち合いのコストをかけずに検査という体裁だけを維持したがったせいなのか、その隙に付け込んだメーカーが悪いのか、それとも人手不足・安全基準厳格化・コストカットの嬉しくない相乗効果が生んだ悲劇なのか。
まあ、全部でしょうね。

これ以上この問題を語ると無限に続いてしまうので、特に目立っている
「性善説」
に注目していきたいと思います。


性善説とは、原義はどうあれ現状では
「悪いことができる状況でも、しない」
という、人間の良心を信じる的な考え方を指すことが多いようです。
回転寿司いたずら問題も、コンビニコーヒーこっそりラージサイズ問題も、無人販売餃子万引き問題も、この性善説の脆弱性を突いてしまっているわけです。

いろいろと余裕が無い現代、みんなが”善人”でいてさえくれれば支払わなくてよいコストが目立っています。ちゃんとお金を入れてくれるなら店員を雇わなくていいし、悪事を働かないならお目付け役を用意する必要もないわけですね。
今まではそうしたトラブルを監視するのに結構な金額がかかったわけですが、IT技術の発展がそれを簡単にしました。
オンラインカメラは手軽で安価に用意できるし、高性能なので人相なんかもクッキリハッキリです。

これらは総じて、犯罪抑止と経費削減の両立を成す称賛すべき進歩と言っていいかと思います。ありがたいことですね。
ただ、こうして整理整頓されてゆく世の中を、僕は正直「怖い」と思ってもいます。


もちろん「万引きなんてみんな経験ある」とかなんとかの寝言を言いたいわけではありません。僕は人生で一度もやったことがないし、それは誇ることでもなんでもないと思います。

気になっているのは、テクノロジー社会である現代では、ルーリングが従来と大きく変わってきている、という点です。

平成初期に生まれた僕が子供のころ、お店には当然ながら店員さんがいて、レジは100%手作業でした。コンビニでやってくれることは今よりずっと少なかったし、無人販売所なんて電気とは無縁の、リアカーに並べた野菜の横にケースがあり、募金箱の要領で代金を投げ込むっていう印象でした。

あのころ、悪いことをしようという気持ちが芽生えたとき、「やってはならない」という倫理や道徳と同じくらい強力だった(と、僕は思う)のが、人の目です。

もし今、仮に万引きをするとして、
・棚の商品をサッとポケットにくすねる
のと、
・コーヒーボタンを押すその一瞬に「レギュラー」でなく「ラージ」へ指を向ける
のと、どっちが簡単かというと、それは後者と言わざるを得ないと思います。

そして、「誰かが見ている」のと「カメラに写っている」のとでは後者を軽視してしまうだろうし、「カメラに写っている」より「会計記録を見直して発覚する可能性がある」のほうがより”ピンと来なさ”が高い気がします。

いや、一緒なんですよ。どう監視されているか、いや、監視されているかどうかにかかわらず、等しく万引きは犯罪で、やってはいけないし、やればバレるものです。
ただ、(相応の知識がなければ理解できない程度の)技術によって防犯されているというのは、現に人間が立って僕たちの挙動を見ているよりも、心理的なプレッシャーがありません。
つまり、防犯テクノロジーは、ある種の人にとって「お天道様が見ているよ」の類型にしかならないのではないか、と僕は思うのです。


そして、現状のテクノロジーは簡単に言うと「性善説を人質に取る」ようなタイプのやり方で防犯しています。
「悪いことはできないようにする」より「悪いことをしたら、そのツケを払ってもらう」感じ。
「できるけど、やらないよね? やったら、わかってるよね?」
という、やるリスクをアピールして抑え込む方法ですね。

こういうのの何が怖いのかというと、
「知らないうちに『ツケを払わなければならない事態』になってたらどうしよう」
と思ってしまうところです。


僕は一年半くらい前、セルフレジで危うくレジ袋を万引きしかけました。
有料化以前から買ったものはそのまま自分のバッグに放り込んでいまして、3円とか5円かかるようになってからも買う機会が無くて、つまりは他人事だったんです。
たまたま手ぶらで弁当を買いに行って「袋もらっとこ」と1枚取って、それに会計した豚トロ丼と割り箸を突っ込んで、帰ろうとしたんです。
歩き去る視界の端に「1枚3円」と大きめのポップが見えていて、その意味に自動ドアのところでようやく気付いたんです。
「3円、払ってない。」

ホントに焦りましたね。
バイオハザード級にクイックターンして(わかりづらい例え)奥の店員さんに謝罪しました。
「そうでしたかすみませ~ん、袋だけ会計おねがいします~」
僕がすいませんと言われるのって変な感じだな、これバカ正直に申告してるほうが間抜けなのかな、店員さんに面倒かけただけかな、まわりのお客さんに迷惑かな、でも金額の問題じゃないよな、なんで間違えちゃったんだろ……
3円払ってレシート取って退店して、夏真っ盛りでしたけど、指が氷のように冷たかったのを覚えています。たぶん顔も真っ青でしたでしょうね。汗だけは滝のようでした。


まあ、これは僕がうっかりしてたせい以外の何物でもないんです。
なにが言いたいかというと、
「『性善説』と『不文律』の違いはどこにあって、どう区別できるのだろうか」
ということを、こんなヒヤリハットを契機に考え始めたのです。

なにも「レジ有料なんてけしからん」とかではないですよ。「気づかなかった自分を許したい」とかでもなくて、レジ袋は売り物であるという、(当時)生誕1年そこらの新基準が既に「知っていて当然」の空気で取り扱われていたことを思い出したもので、そうした常識のスピード感への恐怖です。ついていけるかな、ていう。

買い物のレジ袋じゃなくて。
全く縁のない環境で、ルールを知らないままうっかりやらかしをしてしまったら、と、思うんです。
もちろん「袋は買え」というルールがあるから「1枚3円」と言っているわけで、だから袋は配布物でなく売り物なわけで、売り物を買わずに入手したら窃盗なわけで、窃盗という犯罪は法で裁かれるわけで、だから袋を会計せずに持ってっちゃダメなわけです。
という、これは幾分意図的に長ったらしく書いてますけど、こういうステップを国民みんなが踏めていることを以て、セルフレジと有料ポリ袋は社会に浸透していますよね。
これ、ちょっと怖いと思いませんか。

やらかしたのか、知っててやったのか、誰がどう判断するのか。
やらかしだろうがなんだろうが「ごめんなさい」じゃ済まなくなったら一巻の終わりじゃないか。
不意に、一瞬で終わってしまうかもしれない、と思っちゃうんですよ。
まだ終わらないで生きてきてるけど、人生の残機ってゼロですからね。
「知りません」「わかりません」を選んでいると、終わるかもしれない、と、時折不安が湧いてくるんです。


あと、これは多分にわがままなんですけど、
「メニューも注文もスマホでOK!」
っていうの、次世代ならではの便利システムになってきていますが、
「え……ならWi-Fiは用意しておいてほしいかも……」
と、ちょっと思ってしまうときがあります。
そりゃスマホでメニュー見てタップで注文したほうがお互い楽だと思いますけど、その楽をするコストを客のスマホ&通信費だけに乗っけちゃうのかい……?ていう。
いやでもそれを言い出したら、スマホ用サイトを作ってる店の労力はどうなるんだ、ですよね~……
あ~~、あと「電子決済のみ」もね~~、「可」じゃなくて「のみ」まで行くなら、現金を扱わなくていいメリットを少し客に分けてほしい気がするときもある……かも……
ん~でも、そもそも現金を扱わないというコストの軽さがあってこそ出店できているってこと……?
ていうか、そういうふうに思った瞬間には既に、自分の傲慢さを恥じてしまうんだよな……

これもう性善説じゃないですね。
周りまわって、時代についてゆく力の問題、なのかも。


おわり







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