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小細胞肺癌がわかってから11ヶ月目に父は死んだ。2年半近く経って、どうしてもあの日のことを書きたくなって書く。

入院して20日くらい経っていた。日に日に、一つ一つ出来なくなっていく姿を見ていると、いなくなった時のための気持ちの準備をしていような気持ちになった。

何回か「危篤です」と呼び出されることがあり、その度に家族で駆けつけると持ち直すということがあった。しかし、その日はこれまでと違って、父から発せられる「匂い」がとても臭かったのだ。私と次男は、鼻が敏感で病室に入った瞬間に「クサイ」と思わず次男が言った。私も同様に感じたが、さすがに言葉には出来ずに父のそばに行った。次男は病室内の出来るだけ遠くにいた。この事を帰り道、夫が次男を叱ったと後日聞いた。

明らかに違う状態に感じたので、そのまま母と1日いることにした。昼間、夕方と朝方よりも落ち着いてきたようにも見えた。夕食を食べに後から来てくれた夫と母の3人で病室を離れた際に、看護師さんが血相を変えて走って来た。

『どこにいくんですか!』

「え?夕食を食べに外に出て来ます」

『せっかくこれまでずっと付き添って来たのに、この瞬間に亡くなったらどうするんですか!!!!』

「・・・・」

ふわっと空気が変わるような感覚

実は、この看護師さん。母と私はとても苦手だった。表情が硬く、ほとんど会話もない。父の処置の時も始めと終わりに声掛けするだけで、マシーンのように淡々と作業する。だから血相を変えて向かって来た時に、正直イラっとしたのだ。

けれども、あまりの剣幕にこれは父の側を離れるのは後々後悔しそうだと思い直して、病室に戻った。父は、酸素量、モルヒネの量も、これ以上増やせないというレベルで入っていた。しかし、私たちが病室に戻ると、ふわっと空気が変わるような感覚があった。やはり、最後まで耳は聞こえているし、気配はわかるんだなあと思った。

結局その日の夜遅く、昼間には感じなかった「匂い」がどんどん強烈になってきた。出来るだけ父の側にいたくて、顔の側に椅子を持って行って座っていたけれど、あまりの匂いにちょっと椅子を下げるほどになった。

その後、何故だか「そろそろかもしれない」というような予感もあった。ジーと父の顔をただ見ていた。夫も反対側で同じように父のことを見ていた。

夫は父と仲が良かった。義理の関係は、基本あまり上手くいかないように思うけど、お酒を飲んだり、一緒に山登りに行ったり、庭の剪定を手伝ったり。2人の間には穏やかな空気が流れていた。それを見るのは、私はとても好きだった。そして何よりも、夫は私のファザコンを受け入れてくれていたし、困ったことがあると「お父さんに相談してみれば?」と言った。ちょっとすごい夫です。

「息、止まったね」

おもむろに母が「トイレに行ってくる」と言った。この時、私は「今はトイレに行かないで」と止めた。不思議だけど、思わず止めた。母が父の顔を覗き込み、ちょうど母、夫、私の3人で顔をしばらく覗き込んでいる時に、父が大きく「ふううーーー」と息を吐いた。

ああ。死んだんだ。と3人が思って、「息、止まったね」と冷静に口にしてた。ほどなくして看護師さん2名が音を立てて病室に駆け込んで来た。それを見て、ああ本当に死んだんだと思った。不思議とその時は誰も泣かなかった。

看護師さん2名がそれぞれで身体を確認して、「先生を呼んで死亡確認します」と。先生は当直の先生で、知らない先生だったし、何を言われたかはあまり覚えていない。その後、処置があるので病室の外で待っていて欲しい。その間に葬儀屋さんを決めてくださいねと言われ、夜間の病棟の待合室に3人で座り誰からともなく、3人ともため息をついた。

母が、夫に言った。「本当に今までありがとうございました。あなた達が支えてくれたから、何とかここまで来れました。ありがとう。そして、この子は本当にファザコンでファザコンで、お父さんの癌がわかってからはあなたのことを放っておいたでしょう。ごめんなさいね。もうお返しします。」と言われ、3人で号泣した。

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2枚の写真は、最後の旅行の屋久島にて次男が撮ったもの。父は写真を撮るのが大好きで、私が生まれてからの写真、そして私が結婚して孫が生まれ、本当にたくさんの写真とビデオがある。私の時もそうだったが、運動会など学校で雇っているカメラマンよりも走り回っているので、私の父というよりもカメラマンさんだと思われていた。友達の写真もたくさん撮ってくれて、友達にプレゼントすると喜ばれた事が私も嬉しかったのを覚えている。孫が生まれて、息子達の専属カメラマンのごとく生まれてからずっと写真を撮ってくれた。私たち家族にとって、父が撮ってくれた写真は宝物。いつもカメラマンだったので、父の写真は少ない。この時は、癌の転移で片腕が完全に麻痺しており、カメラを構えることが出来ず、一眼レフを次男が預かり父と母を撮ってくれた。父にとっては最後の旅行。母にとっては父との最後の旅行となった。もちろん、次男にとっても祖父との最後の旅行。次男の撮った写真もまた味わいがある。

父が死んだ日。

これをnoteに書くのはどうなのかなと思った。

だけど、どうしても書きたいという思いがあり書いていて思った。

父の生きていた証を残したいのかな。

父はこの世からはいなくなった。それが事実。だけど、ふと父を感じることがある。ああ。守られている。応援されている。いつも見ていてくれている。

私は生きている限り、この感覚を持つことが出来る。それで充分幸せだ。

お父さん。ありがとう。

私はあなたの娘でこれまでも、これからも本当に幸せです。





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