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スポーツ競技で実現すべき男女の平等。より良くしていきたいですね。

タイトルと関係ないようなのだけど、宮本武蔵と佐々木小次郎の戦いは、ボクにとっては姑息な手段で宮本武蔵が勝ったなんちゃってイベントに聞こえる。正当な戦いではない。使う武器が違うのだから。宮本武蔵が、二刀流で来る佐々木小次郎を拳銃で撃って数秒で終わらせるのと同じとも言える。生死を賭けた決闘だから、とにかく何があっても勝つことが重要なのかな。スポーツではないものね。正当・品格なんてどうでもよいか。。。

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ところで、男女はスポーツの競技で一緒に戦うべきか。男女平等の現代だし。。。取引先のゴルフ好きな方と飲んでいたら、そんな話になる。

彼のゴルフコースには女性メンバーが少ないが、だんだん増えている。ある女性が男性しか今のところ参加したことがない競技に参加したいらしい、とのこと。でも、男女が同じ条件で戦うべき? 別条件? それが悩ましい、とのこと。。。

男女で平均的な体力差はある。でも、やせっぽちな男性や背の低い男性もいれば、背の高い女性もいる。筋肉がついている女性もいる。男性より上手い女性もいる。男女を気にせず同条件で戦えば別にいいんじゃないのかな、とは思うのだけど。でも、それを女性はどう考えるのだろうか。男性もどう思うのだろうか。個人差出るのか、だいたい同じ意見になるのか。。。

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ふと、アメリカのプロゴルファーのケイシー・マーティンの話を思い出し、彼に紹介。マイケル・サンデル ハーバード大学教授の「これからの「正義」の話をしよう」にあった話。

プロゴルファーのケイシー・マーティンは片足に障害があった。循環系の疾患のせいで、コースを歩くとかなりの痛みがあり、出血と骨折の危険性がきわめて高くなる。そうした障害にもかかわらず、マーティンはゴルフではつねに抜きん出ていた。学生時代はスタンフォード大学の大学選手権優勝チームの一員で、その後、プロになった。

マーティンはプロゴルフ協会(PGA)に、試合中にゴルフカートを使う許可を求めた。PGAはそれを許可しなかった。協会の規則ではトッププロの試合でのカートの使用は禁止されているというのがその理由だった。マーティンは裁判に訴えた。彼の主張によれば、米国障害者法は、活動の「本質を根本的に変え」ないことを条件に、障害を持つ人に妥当な便宜を図ることを求めていた。

「これからの「正義」の話をしよう」(マイケル・サンデル著、鬼澤 忍訳、早川書房)」


ボクが思うに、この問題の重要点は、カートを使ってマーティンが勝ったとして、本当にその勝利に価値があると本人、ライバル、観客含め、素直に皆が思えるだろうか、という点なのだ。

スポーツがスポーツたりえるには「同じ条件で(平等に)競う」ということが死守されること(努力)が必要。もし全員が同じ条件で「ない」ならば、それらの違う条件を”計算”して、選手皆が平等だったかをイチイチ考えないといけない。が、現実的には不可能。だから、条件が違うかもと思ったその瞬間に、試合の意味も、勝利の意味もなくなる。とにかく、選手のみならず、関係者もファンも勝ちを認め、誇りに感じ、賞賛するには、同条件が不可欠。

そして、次の重要点は、それなら皆を同条件にしたらいいじゃない!というほど単純ではない、ということ。同条件・平等にするなら、マーティンのみならず全員にカートを使わせたらいいじゃない、となるが、これこそが受け入れられない。同条件・平等・公平だけの問題ではない。

どのスポーツも同じように、ゴルフも歴史ある「スポーツ」。スポーツのルールを「ラクな方向」に緩めることはそれまでのそのスポーツの品格・美徳を汚すことになる。歴史の中で、厳しいトレーニングを重ね、心身を鍛え、技術を伸ばし、結果を残してきた選手や関係者の誇りを汚す。

ゴルフは走ったり飛んだり跳ねたりしないかもしれない。でも、4日間、1日2万歩以上を登りも下りもある中を歩くのだ。それを毎週続ける。選手も筋力・体力・持久力を鍛えるトレーニングに一生懸命。一流選手はムキムキ。カートが許されるということは、そんな今までの努力いらないよ、とルール改正されることになる。受け入れがたい尊厳、美徳の問題なのだ。

まるで大谷翔平選手は身長2メートル近いけど、身長の低い投手は前から投げていいよ。ドーピングしていいよ。バスケで、日本人は背が低いから日本人が攻める方のゴールは10cm下げてイイよ、と言うかの如くに類似している。ありえない。

歴史の中で固まってきたルール・規則(条件)があって、その枠の中で選手は心身・技術を自ら高める。背が低いけど強い選手がいるし、痩せていても、太っていても強い選手がいる。公平な条件の中で、切磋琢磨し、結果を残して来た各スポーツの歴史が作り出してきた正当・品格・美徳・尊厳の問題なのだ。ルール・規則(条件)を簡単にラクな方向に緩めるなんてことはできない。挑戦・努力・愚直などの美徳をくじく。

で、冒頭の男女問題も同じように議論できるかもね、と話が続く。

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ゴルフ場というのは男性ばかりが競技してきた、という、しょうがないながらに”悲しい”歴史があるから、男性用に試合が条件付けされている。で、コロナもあって、嬉しいことに女性が増えてきている。ので、どうにか皆で楽しく競争したいのだ。

ありえる選択肢1:
男女が一緒に競う。ただ、違う条件で一緒に戦うと、その勝利に価値があるかがわからなくなる。そもそも勝負の駆け引き・妙・様相が変わる。違う競技になりえる。本質も変わりえる。だから、男女一緒でも「ラクな方向」に条件は変えないで、同一の条件下で戦う。

ありえる選択肢2:
男女が一緒に競う。女性と男性で条件は変える。だから、結果は、男性での順位、女性での順位を分けて決める。つまり、時と場は一緒だけど、女性は女性と、男性は男性と競っていることになる。

ありえる選択肢3:
男女が一緒に競う。女性と男性では条件は変える。でも、順位は混合で出す。こうなると上述の通り、条件が異なるから本当に誰が勝ったのか正確にはわからなくなるが、ま、プロの試合ではないのだから、いいのでは、と、割り切る。そのゴルフ場の過去からのその競技の正当・品格・美徳・尊厳などは無視する。

ありえる選択肢4:
普通のプロの世界と同じく、男性の試合、女性の試合を分ける。男性は男性と戦う。女性は女性と戦う。でも、女性が少ないと困るね。

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SNSで、映画タイタニックのパロディを見た。沈むタイタニックで、救命ボートにまずは、子供と男性が優先的に乗ってください、とアナウンスされる。そしてジャックが助かり、ローズが沈んでいく。くだらないパロディ。

男女平等と、このような壮絶な危機が迫ったときにどうするかは関係ない。その他の条件にも左右されるし、個別性が強い。

で、ゴルフ場の方針もそれぞれに個別性があるのでしょう。他のスポーツも色んな悩みがあるのでしょう。どうにか男女に関係なく皆が楽しく、運動しながら、努力・挑戦などを続けられるといいですね。スポーツはどれもステキな偉大な人間の発明品。祖先からの英知をより良い未来につなげないとです。



読んで頂きましてありがとうございます。
(v8_5)


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