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過去を教訓に!過去に学ぼう!よく聞く話。でも本当に過去からは学べるの?


1.「過去を教訓に」「過去に学ぼう!」という主張。そうですね、とても大切。


過去に学ぼう。大切です。そして当然にも思います。だって未来はまだ来ていないから学べないし、現在ってのは、あるようで存在しないですものね。一瞬にして過去になってしまうのだもの。だから、学べるとしたら過去、しかない。。。

なんて、こんな屁理屈はいいのですが、これらの主張は、学ぼうとしない姿勢ではなくて、学ぼうとする姿勢が大切よ、という主張ですね。過去なるものがせっかくここにあるのだから、そこから学ぼうよ!

温故知新。大切です。


2.そして、自分の過去(経験)のみならず、他者の過去(歴史)からも学ぼう


さらには、自分の経験だけに限定しないで、他者の過去から学ぼうね。よくある主張。同じくこちらも大切。人間の知恵は過去から脈々とつながっていますもの。

愚者は経験から学ぶ。賢者は歴史から学ぶ。大切です。

でも、いずれせよ、当たり前です。学ばなくていいこと、ってないんだもの、人生に。だから、学ぶ × 未来 / 今・現在 / 過去 だと、過去しかないし、そして、学ぶ × 自分の過去 /  他人の過去 という条件なら、両方であるべきです。


3.でも、本当に過去(歴史)から学べる? あやしいものです


今日、お昼休みに本を読んでいたら、「過去から学びましょう」という主張に出会った。うん、そうね。その通り。と、いつも通りに思う。でも、今日の本には続きがあった。

「でも、過去を覚えているならば、ですけどね。過去を振り返って、正しく事実を思い出せ、且つ、因果関係も正しいならば。そして、思い出せた過去だけに縛られず、他の過去も思い出すならば…」、とそんな感じ。

立ち止まってしまった。むむむ。そう言われると、過去から学ぶって難しいのかも。もしかして「学ぶ」という言葉が適切ではないのかな。そう思ったのです。


4.過去に学ぶと言っても、”今”、思い出せたことだけに限定される


当然に、過去については「思い出せること」からしか学びえない。自分の経験も、歴史も。教科書で読んだのか、本で読んだのか、SNSで見たのか、色々あるけれど、”今”、思い出せたことに限定される。

そして、その経験と教訓はセットになっているはず。思い出せた経験からどんな示唆を得ようかを今、自由に考えるならば、それはそもそもその経験に縛られる必要ないですし、過去に学んでいる、とは言えないもの。 

ということで、将来に向けて、”今”、何かを判断しようという時に、過去から学ぶためには、”今”に適切な過去を思い出せるかにかかっている。が、そんなことはありえないと思うのです。

というのも、怖いのは歴史といっても「裏表」。類似の出来事で正反対の教訓が得られる。どっちを思い出したのか。それは今の自分の心に左右されていると思うのです。

二度あることは三度ある、なのか、三度目の正直なのか。

もし同じ出来事での「裏表」「正反対の教訓」を両方思い出して、比較しているなら、別に過去に学ぶ必要がないかな、とも思うのです。だって”今”まさにそのどちらかで悩んでいるのだもの。。。


5.過去に学んでいない。今の自分の主張を支える教訓を意図的に探しているだけ?


ということで、思ったのです。過去に学んでいるのではなくて、”今”の自分の主張が先にあって、それを補完できる・支持できる歴史上の出来事と、そのセットになっている教訓を、探しているだけだと。

で、うまく思い出せたら、それを有効活用。思い出せなくても、主張は変えない。うっかり反意の教訓を思い出してもそれは、気づかなかったことにする。と、そういうことかなと。

だから、過去になんて学んでいない。


6.もし「過去に学べる」としたら


でも、もう一踏ん張ってみた。やっぱり過去に学べる、と。

自分の今の心の想い・判断に左右されるのはしょうがないかな。だって正直な気持ちだもの。で、ここであえて、それに反する教訓を持つ過去の出来事・歴史をたくさん思い出すのです。がんばって。

で、それでもやっぱり、今の想いでいいやと決心できるなら、どうでしょう。とっても「過去から学んだ」と言えないかしら。結果は、過去の教訓の通りか、それを打破できたのか。楽しみです。

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趣味として、歴史や過去の出来事、歴史家の表現する教訓、それが現在にどう影響しているか、などを知るのは個人的には面白いのですが、なんせ活かせるかどうかは記憶に左右されますね。。。


読んで頂きましてありがとうございます。
(v8_64)


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