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【短編小説】絶望した人を



彼女がいつもトイレで泣いているのを知っていた。


ただいまと廊下の方に声をかけ靴を脱ぐ。蒸れた靴からの開放感を感じつつ、ネクタイを緩めて足早に自室に向かう。最近は帰るとすぐ着替えるようにしている。就職当初は格好いい、似合っていると言ってくれたスーツも、今は新人なりも仕事を任されて「上手くいっている」僕と何もできない自分とを比べてしまうらしく、少し前から、玄関で出迎えてくれるとき(本人は気づいていないだろうけど)辛そうに笑うのだ。


今日のように少し早めに帰宅すると、大抵彼女はトイレに入っている。僕の帰宅時間に合わせて、必要最低限、外向きの自分を出しているのだろう。だから急に早く帰るとこうしてまだ泣いてばかりの、他人からすればただ「面倒くさい」だけの自分の機嫌を取ろうと調整中なのだ。知っていたけれど、知らないふりをした。彼女はきっと、僕に知られることを好まない。


ジャケットをハンガーにかけたところで、遠くで水を流す音がしてドアの開閉音。部屋のドアの後ろから、お帰りと聞きなれた彼女の声がする。


ただいま。

ドアを少し開いて彼女が顔をのぞかせる。
もう一度、今度はちゃんと顔を見てただいまと言ってトレーナーをかぶった。夜ご飯どうする?とそれとなく訊く。


ごめん、今日、まだ何もやってなくて。

申し訳なさそうに彼女が下を向く。まだ寝癖の残る髪が頬にかかっていて、邪魔そうだなあとふんわり思うけれど口には出さず、じゃあ今日はカップ麺にする?と出来るだけ楽しげな声を出す。


ネットでアレンジレシピ見つけたんだよ。今度試してみようと思ってスーパーにも寄ってきたから、すぐ作れるよ。

ほんと?

ホッとしたように、でもちょっと苦しそうに、彼女が笑う。
ありがと。じゃあお湯沸かすね。



部屋着にしている僕のお下がりのスウェットの裾をスッと引っ張って(照れたときの彼女の癖だった)、彼女がそっとドアを閉める。



彼女がキッチンでポットに水を汲む音がする。多分これが彼女にとって、(単なる憶測にすぎないけれど)今日一番能動的な作業だろうと思う。それでもいい。何かをこなして、ぎこちなくても笑う時間が、人には少なからず必要だと思う。


脱いだシャツを手に洗面所に向かう。洗濯物のカゴはかなりいっぱいになっていた。本当は天気のいい今日こそ洗えれば良かったけれど仕方がない。明日出勤前にパパッと終わらそうと予約をセットする。彼女が好きだと言った柔軟剤を入れるようにしているけれど、彼女は気がついているだろうか。不安を消すように洗濯機の蓋を閉めた。


いつものように自信のない思考が浮かぶ。もし明日、日が昇り切ってから彼女がベッドから起きだしたとき、ベランダに洗濯物が干してあったら彼女はまた、何もかもまかせっきりだと罪悪感に苛まれるだろうか?買い物にも行かず、ベランダにさえ出ずにずっと部屋とトイレと冷蔵庫を往復する日々。それが辛いと、少し前に泣いていたじゃないか。

そのときはいつの間にか彼女が泣き止んで深夜に音楽を聴きながら寝落ちするのを、隣で見ていただけだった。





彼女を支えられること、他の誰より彼女の弱さを知っていること。大丈夫だよと抱えて眠れることを、手放そうとは思わない。だけど本当に彼女にとってプラスの存在になれているのか、自分に自信がなかった。

僕がもう少し弱ければよかった?仕事には特別やりがいがあるわけではないし、なぜか先輩に嫌われていたりする。…でもやっていけている。そう、やっていけているのだ。とりあえず月曜日にネクタイをして、玄関を開け、電車に乗り、タイムカードを切っておはようございますと自分の席に座ることができる。先輩に多少強く詰られても、隣の席の同期と苦笑いして顔を見合わせて、週末誰かと愚痴を言い合えば、また月曜日は何もなかったようにタイムカードを切れる。それができている僕と、どうしても無理になって辞めてしまった彼女と。君が、自分にできなかった「普通」をこなせる他人を見るのが辛いというのなら、本当は僕も君の傍にいない方がいいんじゃないかって、(きっと彼女はそんなこと思っていないけどそれでも)考えてしまう。




お風呂ためといたよ。


キッチンに入ると、彼女が二人分のカップ麺の蓋を半分開けて待っていた。


“ありがとう。”


ふたり声が重なる。以前はここで一緒にふっと笑い合ったりした。今では慣れた緩やかな沈黙の中で、キッチンに並んで一緒にトッピングを用意する。もちろん、不満はないし、二人で同じ空気を共有している安心できる時間であることは確かだ。でもときどき、ふっと笑い合った頃が懐かしく思えたりする。


スマホのタイマーをセットして、カップの側面で指先を温めながら待つ。テレビは最近つけなくなった。タブレットをダイニングに持ってきて、契約している配信サイトで映画を物色する。彼女の好きな洋画を見つけて再生。彼女が何も言わないのは正解の合図だ。当たり障りなく、ストレスのない平和な作品。



タイマーがなる三秒前に停止を押すのはアラームが心臓に悪いから。
平和な時間を極力壊さないように。



三分たったよ。


それぞれ、蓋をはがしてトッピングを乗せて混ぜる。
湯気と一緒にチーズの香りが立ち上る。



美味しい。

彼女が静かに、本当にちょっとだけ口角を上げた。



この瞬間のために今日があったというくらい、たまらなく幸せだった。


また作ろう。

そう言って僕ももう一口麺をすする。







絶望した人を、救う術はない。
絶望した君を、救う術はない。


僕が隣にいたところで、君の光になれるわけじゃない。どこかで聞いた歌詞がずっと忘れられなかった。明るい光が作るのは明るい世界じゃなくて、もしかしたら真っ黒な影かもしれない。その影に君が飲まれてしまうくらいなら、その明日をもっと平和で幸福なものにしたいと思う。思うけれど、無理をして頑張る君も、絶望した君も、他人の僕がどうこうできるものではなくて、ただ君の光彩がまた開くのを待つほかに、今の僕にできることは何一つなかった。


絶望した君の隣で、僕も道を見失いかける。


君の隣でただ君を守っていたいのは僕のエゴで、君に前のように笑ってほしいと思うのもエゴだった。照れて服の裾を引っ張る癖を見せてほしい。今はぎこちなく引っ張るばかりで、君が君自身を説得しているみたいで苦しかった。


絶望した君を救えない僕に、僕は絶望している。それでも、君がもう少し元気になるまでは君の周りの世界を優しく守っていたかった。好きな柔軟剤の匂いに癒されたり、ベランダで夕日を楽しんだりできるようになるまでは。


時折見せるもともとの君の姿に幸せを感じてしまう。今の君を否定するつもりはないけれど、心のどこかで君の笑顔の鱗片を探している僕を許してほしかった。




こんな僕が今の君の隣を許してもらえているという事実を、僕はときどき実感する。

本当は、

君にまた、スーツがよく似合うと言ってほしかった。
君の無造作なポニーテールが見たかった。

立ち上る湯気を見て、二人で笑ってカップ麺をすすりたかった。




本当は解っている。
絶望した君を救う術がないのは、僕が本当の意味で絶望したことがないからだ。君の傍で僕自身に絶望してもまだ、僕は君の隣には立てない。





君を救えないのは僕のせいなのに、君と眠れる今日を手放せない。

トイレで泣きはらす君に知らないふりをして、また君とカップ麺をすすりたかった。







***

↓文中で触れられている歌詞はこちら(youtubeに本家様ないためカバーで失礼します)

『それがあなたの幸せとしても』/ダズビーCOVER


↓聴きながら書きました

ユアネス『紫苑』


最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。