【短編小説】結晶。
電車の中、終業直前に対応した人のことを思い出していた。最後に書類の一番下にサインをもらって。そういえば、ファーストネームがあの人と同じだった。書類をまとめる段になってやっと、そのことをふわっと思いだしたのだった。
――すぐには気がつかなかった――
その事実に、何故だか少し動揺していた。忘れかけるほどの時間が経ったとは思えなかった。けれど確かに、あの頃の記憶が遠のいていた。あの人と出会わず平凡な日々を、今まで過ごしてきたかのような。
あなたと同じ名前にふれても記憶がザラつかなくなって、そうして訪れた平穏を、私は退屈と呼ぶのだろう。
あなたが好きな色を見かけてもあなたを連想しなくなって、やがて私の好きな色ばかりの部屋に、つまらないと泣くのだろう。
あなたが好きそうな服を見かけても、ふわっと咲く笑顔を思い浮かべなくなって、素直な気持ちで素敵な服ねと相槌を打つんだろう。
スーパーに行っても作ってくれた料理を思い出さないこと。
街を歩いていてあなたに似た影を探さないこと。
ピアスを見てあなたの耳に揺れるのを思い描かないこと。
ふとした言葉にあなたの面影を重ねないこと。
あなたなら、なんて想像しなくなったこと。
あなたと降り立った場所をもう意識しなくなったこと。
改めて実感した。時間の流れを。更新された記録を。今付き合っているあの人との時間の方が、もうずっと長くなってしまった。薄れた記憶を自覚しても、不思議と涙は出なかった。涙を流すほどの、何か強い感情はきっともう風化してしまっていた。だからふんわりとした記憶の断片を浮かぶままにして、ただ夕陽に染まる海を眺めていた。乾いた私の頬と反対に、心の中で誰かが、静かに涙を流している気がした。
小さな頃、わーんと声を上げて泣いたことをふいに思い出していた。小さい頃は、誰かに助けてもらうために、誰かに気づいてもらうために、無意識にそうしていたのかもしれなかった。それはきっと生き残るための術で、そうやってみな守られてきたのだ。そんな風に考える冷静な自分もなく、ただただこみ上げる涙に任せていたあの頃の、純粋な感情はどこかに置いてきてしまった。
メイクが崩れないようになんて、そんなことばかり考えて、ついに涙もこぼれなくなった今の私は、きっと大人になってしまったんだろう。
誰に見つけてほしいわけでもなく、ひとり夕陽を前に胸に溢れたこの感情が、ガラスのように透明な結晶であればいいのにと願った。たとえそれが、あの頃の純粋さとは違うものだとしても。
確かに私は、あの人と出会った世界線を生きている。
透明な結晶を小さな瓶に集めて抱えて、忘れて。人前では何でもないような顔をして、君におかえりと言って、私は明日も生きるのだろう。
それを美しいと、今は言い切ってしまいたかった。
【短編小説】結晶。
***
最後まで読んでくださってありがとうございます。
少しだけ後書きです。
小説が上手な方はたくさんいらっしゃるのに僕ごときが何を、とも思いますが、今回は僕の描きたかったものを文字にできたような気がします。
僕は小説を書くとき、あるワンシーンが浮かびます。逆に言えば、そのシーンを描くために小説を書くんです。今回は、夕陽に染まる海を前に泣き崩れる女の子。時間を更新してしまったことに、ひとり涙する女の子。
どうしてもそれを描きたくて、この小説を書きました。
その結果、泣いていたのは心の中の彼女だったようです。海に沈む夕陽を前に、誰にも知られぬ涙がこぼれて、その結晶をガラス瓶にしまい込んだ、心の中のもうひとりの自分。
”あなた”がいなくても生きていける自分を少しだけ悲しんで、そうしていてもやってきてしまう明日をまた生きて。
そうして少しずつ、”あなた”を忘れていく。
それを決して、嘆いたりしないわ。
*
昨日眠る前と、この小説を書く際に聞いていた曲を載せておきます。
宇多田ヒカル『初恋』
この曲は、ときどきふいに聴きたくなります。実るはずのない片思いか、気持ちの離れてしまった恋人か。そんな風に僕は感じます。
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読んでくださった皆様の明日に、明るい色がありますように。
明日に風が吹きますように。
どうか、良い一日を。
(リンクはそのうち消すかもしれません)
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