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「いまを生きる」とは、どういうことか?

いまから数年前。
新卒社員研修は禅寺で、二泊三日の禅僧体験だった。
私語厳禁だったり、笑顔もダメだったり。
携帯も人事に預け、外界から遮断され、
食事もいろいろとルールがあったりと、
なかなか非日常な生活だった。

朝昼晩と読経と座禅の時間があり、
そののちに和尚による講話がなされたのだが、
まぁまぁ、眠い。
研修プログラムの一環だからか、「お説教」にしか聞こえない。しかも無実の咎のお説教だ。
僕の心はそういう操作主義の香りがする言葉は遮断するようにできている。

でも、心に残っているメッセージがあって、
それは、"いま" を生きてください というものだ。

「いまを生きることと、享楽的に過ごすことの違いはなんだろうか?まさか仏教が、享楽的に生きることを推奨しているわけではなかろう」
という疑問が湧いた。
プログラムが終わったあと、和尚に聞いてみたのだけれど、
「その答えは自分で見つけなさい」と一蹴されてしまった。

ヒントくらいくれてもいいのにと思ったからか、
定期的に反芻する問いとして僕の中に残っている。

「いまを生きる」とはなにか?
自分ははたして「いまを生きて」いるのか?

仮説①
過去にとらわれない=いまを生きる

ワンピースで好きなキャラは、ジンベエとドフラミンゴ。
極端な、世界観のあるキャラに惹かれる。

兄・エースを亡くし、失意のルフィに対して、
ジンベエがかけた言葉は1つ示唆としてあるかもしれない。

過去を振り切っていまを見つめ、
自分にとって大切なものを大切にする。

たしかに「いまを生きている」。
しかしながら、これでは享楽的な生き方を否定できない。

仮説②
選択をし、結果も伴っている=いまを生きる

いやいやまてまて。享楽的に生きていても構わないのじゃァないかとする向きもある。
肯定される「いまを生きる」在り方と、
否定されるべき「いまを生きる」在り方があるんじゃないのかと。

例えば、過去の失敗経験を引きずり、
傷つきたくないがために快楽に身を委ねているような状態はNG。
でも、それが自分なんだと、享楽的に生きることを進んで選択しているとしたら、OKだ。

ある意味、それはもはや享楽的でないのかもしれないが、
アリストテレスの説く「よく生きる」に似て、
自分自身を、人間として、最大限活かすうえでの選択であること、
そして、その選択の結果として、実際に各人がパフォーマンスを最大化できているのならば良しとする考え方もできるのかもしれない。

しかしながら、なにをもって「最大化」できていると判断するのだろう?
個人の主観だろうか?
そうであるならば、自己欺瞞を許す。そうした定義は実用的でないだろう。

仮説③
未来に向けて変化している=いまを生きる

いまの僕の中で、しっくりきているのは、
未来に向けて変化していることが、いまを生きるということだ。

そもそも、"いま" という概念は、
過去や未来といった概念のなかでしか意識しない。
ふつうの人間は、いまこの瞬間に「いまを生きている」など考えずに鼓動が続き、脈を打つ。

だから、過去や未来との関係性の中にこそ、
「いまを生きる」ことがあるように思う。

そして、生きることの本質は、移ろうことだと考えた。
人に限らず生物は、産声を上げたときから死に向かって変化していく。
また周囲の環境と対峙し、適応し、生き延びるために自らを自らの手で変化させるのだ。


これらをつなげ、余分なものを省いたときに、
「いまを生きるとは、未来に向けて変化することである」という定義になった。

この定義だと、過去にとらわれるルフィを否定することができるし(笑)
享楽的に生きるひとも、ただの自己保身を断罪しつつ、自己実現として捉える(裏で維持のための努力をしている)面々はそれとして肯定でき、見分けもつく。

進むべき未来はあるのか、
それをどう選ぶのか、などまだ明確にしなければいけないことは残るけれども、
今日はいったん筆を置くことにしよう。

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