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「池田大作 すでに死んでる説」が間違いだと言えるこれだけの理由

■「池田大作死亡説」に説得力はあるのか

本稿では、創価学会の名誉会長である池田大作氏の死亡説に反論したい。

ただ、といっても、その目的は池田氏が生きていることを証明したいというものではない。

筆者は創価学会4世であり、いま現在も教団で活動している現役信者ではあるが、池田氏に対して特別な感情を抱いているわけではなく、とはいえそれなりに信仰心はあるという中途半端な人間である。なので、「多くの人が池田先生が死んでいると言っているのが許せない!」みたいなモチベーションがあるわけではない。

正直、池田氏の生死についてはあまり関心がない。ただ、世の中に出回っている死亡説は社会制度や常識を無視した都市伝説でしかないと考えている。のちほど触れるが、そのような都市伝説レベルの説にもかかわらず、多くの人がほとんど事実のように認識していることについては憤りすら感じる。

そこで、本稿で論じたいのは、世間に流布されている「池田大作死亡説」が成り立つ場合の具体的な状況とその実現可能性、そして都市伝説レベルの説を創価学会員に対して問うことがいかに問題であるか、という二点である。

■死亡説が囁かれるのも分からなくはない

そもそも池田氏とはどんな人物なのか、という説明は省くことにする。各自ググって欲しい。

まずは、彼の死亡説がささやかれはじめた経緯を整理しよう。たしかに彼は、2010年6月以降、公の場に姿を現していない(*1)。彼の活動実態と近況は創価学会の機関紙である聖教新聞で発表されている彼の文章と、数年に一度公開される彼の写真でしか確認できない(*2)。姿を消した2010年の時点で82歳、いま現在は95歳なのでかなりの高齢だ。

そんな状況で、聖教新聞などでは「お元気な先生と共に」といった言葉が頻繁に用いられ(*3)、イベントなどでは「我々弟子たちに広宣流布を託すためにあえて姿をあらわさなくなった」などと説明しているため、死亡説がささやかれるようになったと考えられる。Googleで「池田大作」と検索しようすると「生きてる」「現在」などのワードがサジェストされることから、世間の関心がそれなりにあることが伺える。

たしかにこのような状況を考えてみると、世間で池田大作死亡説が唱えられるのも理解できなくはない。82歳の老人が突然公の場から姿を消し、そこから10年以上にわたって動画やイベントには登場しておらず、教団からは「先生はお元気です」といった趣旨の説明が繰り返されていれば「すでに亡くなっているのでは?」と勘繰られるのは仕方のないことだろう。

言ってしまえば、創価学会側の対応が「池田大作死亡説」を作り出しているとも言える。

だが、そのような状況だからといって死亡説の説得力が高まるわけではない。なぜなら、「死んでいるかもしれない」という主張だけでは、「どうやって死を隠しているか」という重要な問題を説明できないからだ。

仮に池田氏が、2010年6月以降からいま現在までのどこかで亡くなっているとすれば、創価学会はその死を隠していることになる。だが、池田氏がとつぜん姿を消したことや教団側の説明不足を指摘したとしても、周囲がいかにして死を隠しているのかということは説明できない。この点についてはのちほどで詳しく指摘する。

【脚注】
(*1)https://www.j-cast.com/2010/11/17081137.html?p=all
(*2)https://www.dailyshincho.jp/article/2020/12311101/?all=1
(*3)ほんの一例でしかないが、冒頭に「お元気な先生とともに」とある
https://www.seikyoonline.com/article/6AEB2FF8D7A80673CD49A5148F538911

■"公然の秘密"となった死亡説 

筆者は職場などで創価学会員であることを公言しているし、さまざまな事情で非創価学会員から創価学会について質問される機会が多かったので実感があるのだが、創価学会について質問したいという人がほぼ100%聞いてくるのが「池田大作死亡説」だ。

上記のように死亡説の疑惑が深まる状況が続いていることもあってか「池田さんって死んでるんでしょ?」みたいなことを聞かれるわけだが、そのときに質問者側の態度に共通点があることに気付いた。それは、彼らが「池田大作は死んでいる」ということを確定した事実として認識しているということだ。

死んでいるか生きているか気になっているのではなく、死んでいるという前提に立って信者である筆者に質問しているような印象を受けることが多いのである。彼らにとって「池田大作死亡説」というのは”公然の秘密”なのである。

さきほども確認したように、池田氏は10年以上も公の場に姿を現していない。創価学会という戦後最大の新興宗教の実質的な指導者が、とつぜん姿を見せなくなったのであればそれはなにかしらの重大な理由があるに違いないと考えるのは当然のことではある。しかも、教団側は「先生はお元気です」のような通り一遍の説明を繰り返している。これは明らかに怪しい。      

とまぁ、そんな感じで「池田大作死亡説」は広まっていったと考えられるが、そもそもこの説は妥当なものなのだろうか。 

もっとも有効な反論は直接的に池田氏が死んでいないことを立証することだが、それができればすでに筆者以外の熱心な信者がやっているだろう。というか教団が証明すれば済む話なのだが、それがなされていない。

そこで、まずは日本において人が死亡した際の手続きと、その手続きが正常になされなかった場合にどのようなことが起きるのかについて論じることで「池田大作死亡説」に応えるところから始めたい。

■人は死んだらどうなるか

さきほども指摘したように「池田大作死亡説」を主張している人たちはどのようにして教団が彼の死を隠していると考えているのだろうか。過去に週刊誌が具体的に死因まで指摘した記事を出したこともあったが、教団が池田氏の死をどのように隠しているのかという点にまでは言及したものを見たことはない。

まず、死亡説を検証するうえで欠かせないのが死亡後の手続きだ。仮に池田氏が亡くなっているのだとすれば、なにかしらの手続きが行われている可能性がある。あるいは、手続きが行われていないのであればどのようなことが起きるのか。この点を確認したい。

人が亡くなった場合、通常であればどのような手続きがなされるのだろうか。病院で亡くなった場合であれば医師による死亡の宣言があり、そこから死亡診断書が作られることになる。自宅でなくなった場合はかかりつけ医がいれば医師によって死亡診断書が発行され、かかりつけ医がいない場合は警察署に連絡し事情聴取と現場検証を受けたうえで事件性なしとされれば死亡診断書と同様の効力を持つ「死体検案書」が発行される(*4)。

このとき、届出義務者は死亡の事実を知った日から7日以内(国外で死亡があったときは、その事実を知った日から3カ月以内)に死亡者の死亡地・本籍地又は届出人の所在地の市役所、区役所又は町村役場死亡届を提出しなければならず(*5)、この際に死亡診断書、あるいは死亡検案書が必要となる(事故死の場合などはどちらも不用になることもある)。

期日以内に死亡届を出さなかった場合、5万円以下の罰金が科される(*6)。遺体の火葬を行う際には「市町村長の許可を受けなければならない」と定められており(*7)、許可を受けるためには死亡届が受理されていることが条件となっている。

つまり、人が亡くなったあとの通常の手続きに則っとれば、病院の医師、かかりつけ医、警察のいずれかに死亡確認をしてもらう必要があり、原則的には死の事実を知ってから7日以内には死亡届を提出し、火葬を行う際には市町村長の許可を得なければならないことになる。

かりに「池田大作死亡説」が正しいのだとすれば、この関係者すべての口を封じなければその事実は世間に漏れてしまうだろう。葬儀や埋葬を行う段階になれば、たとえ極秘裏に進めたとしてもそのリスクはさらに高まる。

また、葬儀を延期しエンバーミング処理と呼ばれる防腐処理を行ったとしても、「処置後のご遺体を保存するのは50日を限度とし、火葬または埋葬すること」(*8)という基準が定められているため、一時的な対策にしかならない。

【脚注】
(*4)https://www.mhlw.go.jp/toukei/manual/dl/manual_r05.pdf
(*5)https://www.moj.go.jp/ONLINE/FAMILYREGISTER/5-4.html
(*6)https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=322AC0000000224
(*7)https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/seikatsu-eisei15/
(*8)http://www.embalming.jp/embalming/interpretation/

■遺体を放置すれば「死体遺棄」になってしまう

では、池田氏が亡くなったという事実自体を秘匿するということは可能なのか。言い換えれば、医師や警察に死亡確認をさせずに、戸籍上は生きていることにすることは可能なのだろうか。

おそらく、やろうと思えば可能だろう。例えば北京にある毛主席紀念堂に安置されている防腐処理された毛沢東の遺体のように、永遠に腐らないミイラのようなものに加工して保存することも選択肢のひとつに入ってくるかもしれない。

ただ、人が死んだという事実を隠すこと自体に問題はないのだろうか。というよりも、人の死を隠すことに違法性はないのか。

まず、第一に考えられるのが死体遺棄罪だ。死体遺棄といえば殺人犯が殺した遺体を山に埋めたり海に捨てたりすることで問われる罪のようなイメージがあるが、遺体を隠す意図がなくとも自宅で亡くなった家族などに対して適切な火葬・埋葬の手続きを取らず放置したままにすることも遺棄にあたる指摘されており逮捕者も出ている(*9)。

医師や警察による死亡確認を避け、人が亡くなったという事自体を隠すことは死体遺棄に問われる可能性があるということだ。極秘で葬儀や埋葬を行わないという選択肢を選ぶということは、違法の疑いがある行為に手を染めるということを意味する。

また、人が亡くなったことを隠すことの問題はそれだけではない。仮に池田氏がなにかしらの年金を受け取っていたとすれば、死亡後に振り込まれていた年金を受け取ることは不正受給になってしまう。実際に、親の遺体を長期間にわたって放置し続け多額の年金を不正受給し、詐欺の容疑で逮捕され有罪になった事例は少なくない(*10)。人の死を隠すというのは、常に違法性と隣り合わせなのだ。

【脚注】
(*9)https://www.saitama-np.co.jp/articles/41472/postDetail

この記事にも詳しい
https://toyokeizai.net/articles/-/321055

なお、死体遺棄については令和5年3月24日に最高裁判決が出ており、「遺棄」の定義が改めて確認されている。https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=91943

(*10)
この事件や https://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/20230516/8010017664.html
この事件など https://www.khb-tv.co.jp/news/14835902

■常識的に考えて人の死を隠し続けることはできない

さて、以上のような実情を踏まえたうえで、教団が池田氏の死を隠しているのかについて考えてみたい。

おそらく、池田氏の死を完璧に隠し通すことを考えれば極秘に葬儀や埋葬を行うということは考えられないだろう。医療関係者を教団の人間で固めたとしても行政には彼が亡くなったを知られてしまうし、大々的な葬儀は行わなかったとしても火葬場を手配しなければならない。

彼の死を裏付ける多くの痕跡を残してしまえば、池田死亡スクープにも食いついてきた週刊誌や、他紙には絶対に抜かれたくないというプライドが第一の大手マスコミ、敵対している宗教団体などにバレずにいられるだろうか。

また、池田氏の葬儀が信者なしで行われたことが発覚すれば、熱心な信者であればあるほど、教団に対する信頼を失っていくだろう。極秘で葬儀や火葬を進めていくことは死を隠すにはリスクが大きく、バレた際のダメージも非常に大きい。

では、池田氏の死そのものを隠すアプローチはどうだろうか。

このアプローチは極秘葬儀に比べればバレるリスクは非常に低いと考えられる。対外的には生きているという情報を流し続け、教団が保有する施設で彼の遺体を毛沢東のように永遠に腐らないものにしてしまえば保存にも困らず管理のコストも下がる。おそらく、漠然と死亡説を信じている人たちがイメージしているのもこのような隠し方だろう。ただ、これは犯罪だ。

このことが発覚すれば、それこそ教団は死体遺棄という犯罪に組織的・継続的に関与したことになってしまう。果たして政権与党の支持母体がそこまでのリスクを冒すだろうか。常識的に考えればありえないだろう。

本稿を執筆する際に大いに参考にした『宗教問題』編集長の小川寛大氏の記事やコメントでも、死を隠すことによってさまざまな法的リスクが生じてしまうことや、信者の気持ちが離れてしまうリスクがあるため、死亡説はあり得ないのではないかと論じている(*11)

【脚注】
(*11)
小川氏が執筆している記事
https://president.jp/articles/-/36264?page=1

小川氏のコメントが掲載された記事
https://www.dailyshincho.jp/article/2021/03221058/?all=1

■著名人であればなおさら難しい

ここで他教団のケースについても考えてみたい。

今年の3月2日に幸福の科学の総裁”である”大川隆法氏が亡くなったという報道があった。死因は明らかになってはいないが、66歳で亡くなったことを考えると予期せぬ死去であった可能性はあるだろう。

大川氏の長男である宏洋氏によると(*12)、死亡届が出されたのは死後1カ月以上も経過した4月8日のようだ。だが、社会的には大川氏の死は確定しているものの、教団はいまでも大川氏の死去を正式には発表していない。

教祖のあまりにも突然の死去は教団にとって大きな影響を与えたであろうと予想できるが、死亡届の提出を一カ月遅らせることはできても死を隠すことはできなかった。それほどまでに、宗教団体のトップのような著名人の死を隠すことは困難なのだ。

【脚注】
(*12)https://www.youtube.com/watch?v=nGLCxglUboI

■「創価学会は国を支配している」というけれど

さて、ここまでいかに人の死を隠すのが難しいかという話をしてきたが、この議論を一発で吹き飛ばす反論が存在していることを筆者は知っている。

それは「創価学会は国家権力やメディアも支配してるんだから、死体遺棄をしようが国は捜査しないし、メディアも報道しない」というものである。基本的には「草」で済ましてもいい話なのだが、少しだけ触れておきたい。

このような類の陰謀論に共通している特徴として、権力の見積もりがガバガバになっているということがあげられる。たとえば、創価学会が完全に政府やメディアを支配しているとしたら、このような陰謀論が出てくる余地もないのではないか。言い換えれば、我々は創価学会に支配されているということにすら気がつかない、ということもあり得るだろう。

だが、現実はおそらく違う。創価学会はメディアからのバッシングに晒され、信者である芸能人はニコニコ動画のネタにされ、教育機関である創価大学は八王子の辺鄙な山奥にあり偏差値も中の下くらいだ。仮に創価学会による日本支配が成功していれば、週刊誌に教団叩きの記事は載らないし、一連の「エア本さん動画」は存在しなかっただろうし、「そうだい」と呼ばれていたのは早稲田大学ではなく創価大学だったかもしれない。

また、もし創価学会が国家権力を支配しているのであれば創価学会にとって不都合な裁判結果は出ないはずである。ただ一方で、最低限のコストで長期的に統治することを考えているので、創価学会による支配に気付かれないためにあえて敗訴判決を出していることもある、という反論もありうるかもしれない。だが、創価学会は絶対に裁判で負けたくない相手であろう日蓮正宗に数多くの裁判で敗訴している(*13)。

創価学会の威信を守ることを考えれば、ほかの裁判は数合わせで敗訴しても構わないかもしれないが、日蓮正宗との裁判で数多く敗訴しているというのは演出にしても派手すぎるのではないだろうか。仮に創価学会に日本を牛耳るほどの強大な力と知性があるのだとすれば、もう少し上手くやるだろう。 

【脚注】
(*13)
創価学会と日蓮正宗との因縁についてはググってください。

下記の判決は「正本堂訴訟」と呼ばれている創価学会が原告となった損害賠償請求のものである。検索してすぐに確認できた2件のみを掲載したが、この訴訟も含めた一連の「正本堂訴訟」では39件の裁判で争っており、創価学会はそのすべてで敗訴している。
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/328/056328_hanrei.pdf
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/999/007999_hanrei.pdf

■実際には着実に衰退が進んでいる

このような陰謀論は事実として語るにはあまりにも根拠がないのだが、それでも創価学会陰謀論となるとなんとなくそれらしい感じに聞こえてしまうのかもしれない。たしかに、戦後最大の新興宗教であり、政権与党の支持母体であればだいたいのものは支配できそうな気もする。  

だが、実際には敵対教団との裁判にも敗れているし、2022年の参議院選挙における比例獲得票数は全盛期だった2005年8月の衆院選と比べて約300万票も減少している(898万票→618万票)(*14)。そして、さまざま報道されているように、いま現在も日本維新の会の台頭に慌てふためいているようにも見える(*15)。

創価学会も公明党も万能ではない。現実の波に揉まれながら、少しずつ着実に進んでいく衰退と向き合っていくしかないありふれた組織なのだ。

【脚注】
(*14)
2005年8月衆院選での過去最高得票
https://www.komei.or.jp/campaign/komei55/page/26/

2022年7月参院選での得票数
https://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin/20220717-OYT1T50263/
2001年以降の選挙でもっとも得票数が少なかった。

(*15)https://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/20230902-OYT1T50045/

■人格の自律性を否定する返答

といったような反論を池田死亡論者にした際に、よく言われるのが「でも、結局のところは生きてて欲しいんでしょ?」あるいは「そんなこと言っても、どうせ死んでるんでしょ」の二つの返答だ。

この二つの返答は、信仰心のある創価学会員にかける言葉としては非常に問題があると考えている。まず、前者についてだが、これはある程度の論理性を持った反論に対して、「あなたがそのような主張をするのは、池田氏のことを宗教的な文脈で尊敬しているからですよね?」という、信仰をベースとした尊敬の有無に論点を差し戻す働きを持っていることに問題がある。

「生きててほしいんでしょ?」という返答は、筆者が池田氏を尊敬していると一方的に決めつけている。それも議論の内容には直接に返答せず、反論する動機のみを指摘している。筆者からすれば、死亡説に反論する動機が理性的なものではなく、宗教感情に起因するものではないか、と問われているようにしか聞こえない。死亡説が社会的な制度や常識から考えて説得力を持ちえないと理性的に反論しても、それは感情的な問題とされてしまうのだ。

冒頭でも述べたように、筆者は池田氏に対して特別な感情をいだいているわけではない。日常生活やX/Twitterの投稿などで「池田先生」と発話したり書いたりすることもあるが、この「先生」というのは主観的には敬称を意図してはいない。

「池田先生」についている「先生」という敬称は、筆者にとっては「高橋名人」や「マリン船長」や「水道橋博士」のようにそれ自体が固有名詞のように機能しているものであってそれ以上の意味はない。

だが、池田死亡論者からすれば、筆者は「池田大作氏のことを尊敬しすぎているあまり、死んでいることを認められない信者」だということになってしまう。これでは同じ土俵に立って議論をすることはできないし、どんなにこちらが誠実に振る舞ったとしても建設的な議論になることは期待できないだろう。死亡論者がやっていることは、対話している相手の人格の自律性を否定する振る舞いだと言えるのではないか(*16)。

ちなみに、このように「私は池田氏に対して特別な感情をいだいているわけではない」という理由を具体的に説明したとしても、「でも、結局のところは~」という切り返しを避けることは原理的にできない。何度説明しても「でも、結局のところは~」と切り返されてしまったら議論は振り出しに戻ってしまう。相手が納得しなければ何度でもこの言葉は同じように使い続けられる。どんなに言葉を尽くしても、この切り返しからは逃げられないのだ。

■「マインドコントロール論」の問題点

このような、相手の人格の自律性を否定するコミュニケーションについて、「宗教2世問題」が語られるようになってから再度注目を集めた「マインドコントロール論」も同様の働きを持っていると筆者は考えている。

たしかに特定の教団の信者のなかには、教団の公式発表を繰り返すだけでこちらの話を聞いてくれない人がいることも事実だ。筆者もそのことはよく分かっているつもりだし、そのような人とコミュニケーションすることの難しさも経験してきた。だが、「宗教の信者=教団の言いなり」というのはあまりにも一方的な決めつけではないだろうか。

どれだけ言葉を尽くしたとしても「教団の言いなりになっている」「ロボットのようだ」「自分の頭で考えていない」などと一方的に決めつけることは、まさに人格の自律性を否定する行為だ。

「マインドコントロール論」は、「理性的な反論がなされたとしても、一方的に相手を妄信的な信者だと決めつけられる」という、非常に強力で残酷な力を持っていることを指摘しておきたい。これは本当に恐ろしい力だ。なにを話しても人格の自律性がなく論理的な力を持たない妄信的な人間だと認定されてしまうという体験は、人から尊厳を奪うものだ。

こうした残酷な経験については、ジャーナリストの米本和広さんが書いた『我らの不快な隣人 統一教会から「救出」されたある女性信者の悲劇』を読めば臨場感を持って理解できるかもしれない。ただし、非常につらく苦しいシーンが続くため、家庭内暴力や監禁についてのトラウマを持っている方はフラッシュバックに注意が必要だろう。

【脚注】
(*16)このようなコミュニケーションの問題についてはミランダ・フリッカーの『認識的不正義』(勁草書房)に詳しい。議論の概要を知りたい場合は下記の論文を読んでもいいかもしれない
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ethics/68/0/68_247/_pdf/-char/ja

■「宗教4世」としての苦しみ

次に「そんなこと言っても、どうせ死んでるんでしょ」についてだが、この”どうせ”というのが曲者だ。

「どうせ」を広辞苑でひくと「 (断定的な気持ち、または投げやりな気持ちを伴う)どのようにしたところで。いずれにしても。つまりは」といった定義が出てくる。「どうせ」という言葉には、それまでの過程をキャンセルする力があると考えていいだろう。

前半の「そんなこと言っても」にも同じような働きがある。というのも、「そんなこと言っても」というのは、どんなことを言っても自分の考えは変わらない意思表示だと受け取れる。これは説明を拒否するコミュニケーションだと言っても大袈裟ではないだろう。

このように、こちらがどれほど説明しても「でも、結局のところは生きてて欲しいんでしょ?」と言って相手の人格の自律性を否定し、「どうせ」や「そんなこと言っても」といった言葉でこちらが述べてきたことを無化するような人たちが、まともに議論をする気があるとは思えない。

もちろん、筆者の「池田大作死亡説」に対する反論を聞いたすべての人が、上記のような返答をしてくるわけではない。筆者の話を正面から受け止めてくれる人や、疑問的点があれば具体的に質問してくれる人、深く共感し理解を示してくれる人もいる。ただ、創価学会4世としていままで生きてきたなかで、さまざまな偏見をもとにした心無い言葉を投げかけられてきたことも事実だ。

「そんなこと言っても、どうせ死んでるんでしょ」や「でも、結局のところは生きてて欲しいんでしょ?」といった言葉は、そんな心無い言葉のうちの一つだということはご理解いただきたい。我々にとってこうした言葉を投げかけられるということは、なにげない日常のなかにひそむ鋭い棘として確実に存在している。

■創価学会員にとって"池田先生"はどんな存在なのか

現役信者に対して「池田大作死亡説」をふっかけることの問題はそれだけではない。

そもそもの大前提として、池田氏は信者にとって非常に重要な存在である。筆者の周辺にいる創価学会員の多くは池田氏のことを心から尊敬しており、池田氏がいるからこそ(あるいは彼の言葉があるからこそ)頑張って生きていけると語る人は数多くいる。

創価学会の歴史や教義において、彼はいわゆる「教祖」ではないのだが(*17)、創価学会のことを知らない人に会内における池田氏の影響力をわかりやすく伝えるのであれば、(本当は違うのだが)多くの人がイメージする「教祖」のようなものだと言ってもそこまで大きく間違ってはいないと考えている。

創価学会員からそのような扱いをされている池田氏に対して、「どうせ死んでるんでしょ」と言うことがどれくらいダメージがあることなのかを真剣に考えてほしいのである。

池田氏は信仰生活にとって欠かせない存在であり、「先生にはお元気でいてほしい」という願いを込めて日々日々祈りを送っている創価学会員に対して「どうせ死んでるんでしょ」という言葉を投げかけることがどれほど残酷なことか。

極端な例だが、がんなどの疾患に苦しんでいる家族がいる人に対して「でも、どうせもうすぐ死ぬんでしょ?」と声をかけている人を見かけたら、普通は怒ると思う。関係性によっては激怒されたり、場合によっては暴力を振るわれたりする可能性もあるだろう。

熱心な創価学会員に対して、「池田大作ってどうせ死んでるんでしょ」と言うことはそれぐらいインパクトの大きいことなのだ。

【脚注】
(*17)意外に思う人もいるかもしれないが、創価学会における池田氏のポジションは教祖ではない。あくまでも創価学会の教義の根本は日蓮の思想であり、池田氏は第3代会長であって教団を作った人間でもない。また、創価学会における日々の実践である「勤行」のなかで最後に黙読する「ご祈念項目」を確認すると、帰依の対象である「本尊・仏・僧」とは別に「三代会長への報恩感謝」という項目を設けていることがわかる。これは日蓮系教団における尊崇の対象と、創価学会の歴代の指導者を区別することを意図していると考えられる。なので、本稿でも触れた大川隆法氏のように「神=教団の開祖=指導者」といったポジションにはなく、あくまでも池田氏は人間であり教団の指導者にすぎないということに(現時点においては)なっているのである

■他人が大切にしているものは、大切にしたほうがいい

市民社会で生活するひとりの人間として、他人が大切にしているものを大切にするというのは極めて常識的な道徳であるといえる。

別に大したことを要求しているわけじゃない。親を大事にしている人であればその人の親をバカにするべきではないし、長年野球に打ち込んできた人であれば野球をバカにするべきではない。家に大量に置いてあるのが邪魔だからといって、許可なく旦那さんのガンプラを捨てるべきでもないだろう。これは別に対したことじゃない。

だが、池田大作死亡説ではそのことがいとも簡単に忘れ去られてしまっている。

しかも、「でも、結局のところは生きてて欲しいんでしょ?」や「そんなこと言っても」のような言葉によって反論することもできない。というより、反論したとしても相手は反論として受け取ることはない。これは本当に酷いことではないだろうか。

ただ一方で、創価学会は非常に攻撃的な集団だと社会からは認識されている。昭和20年代から30年代にかけて「折伏大行進」と呼ばれている勧誘キャンペーンを展開し、他教団を「邪宗」と呼んで敵対的な勧誘活動をしていた時期もあった。

また、これは攻撃性とは別の話だが、選挙のたびに友人に電話をかけ「久しぶり! 元気にしてた? ところで今回の選挙なんだけど~」などと頻繁に投票依頼することもよく知られている。本稿の読者にも友人からこのような電話がかかってきた経験があるのではないだろうか。

こういった創価学会員の行動に対して「他人が大切にしているものを大切にしろっていうけど、お前らはどうなんだよ」というツッコミが入るかもしれない。このような振る舞い自体が、そのまま他人の大切にしているものを大切にしていないと言い切れるわけではないが、そういった側面があることもたしかだ。

とはいえ、かつての創価学会に比べたら攻撃性はかなり低くなっているし、他教団を邪宗と言うこともなくなった。創価学会も丸くなっているのでそこは見てほしい、と言いたい気持ちもなくはない。ただ、ここで重要なのは、創価学会が攻撃的だからといってなにをやってもいいわけではないということだ。

たしかに批判されるべき点については批判されるべきだし、創価学会も反省すべきこともあるだろう。しかし、「池田大作死亡説」のように具体的な根拠のない話で会員の大切にしているものを傷つけるという行為はあまりにも行き過ぎている。

「他人が大切にしているものを大切にする」ということは、少し難しく言い換えれば人権についての話だ。根拠もなく他人が大切にしているものを傷つけるということは、本来であればこの社会で強く批判されるべきことではないか。そのことを理解していただきたい。

■特別じゃなく、いつも通りに

筆者はなにも「本当の創価学会を知って欲しい」と思っているわけではない。「みんなが知らない池田先生の素晴らしさを知って欲しい」とも思っていない。なんなら教えてもらいたいくらいだ。

そうではなく、普段みなさんが多くの場面で気にしている程度でいいので、我々に対しても常識的な振る舞いをして欲しいと言いたいのです。特別に扱って欲しいのではなく、いつも通りに振る舞って欲しいと言いたいのです。

他人が大切にしているものを大切にする。これくらいのことでいいので、創価学会員に対して常識的に振る舞って欲しいというのがこのnoteで伝えたいことだ。

本稿では公然の秘密とされてきた池田大作死亡説が、死亡後の手続きやその犯罪性を検討すればその可能性はほとんどないことや、創価学会に対する陰謀論の問題点について指摘し、最後に「池田大作死亡説」を創価学会員に対して問いかけることの問題について論じてきた。

世の中にバカにされて当然の人なんていない。普段はそんな当たり前のことはわかっているはずなのに、なぜか特定の宗教の信者に対してはそれが適用できないということはよくあることだと筆者は認識している。それは、現在進行形で行われている旧統一教会に関する報道についても同じことがいえるだろう。このことは、マジョリティである非信仰者のみなさんによくよく考えていただきたいことでもある。

普段は当たり前のことが、なぜか宗教に対しては上手く適用できない人が少なくないということについて、少しでも意識を向けてくれる人が増えてくれたら嬉しいかぎりである。筆者の心からの祈りをこめて本稿を終えることとする。

またね。

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本稿は、公開前に浅山太一さん、ダッヂ丼平さん、TKMTさん、正木伸城さん、仏教のアレ編集部、ほかにも複数の匿名の友人に草稿を読んでいただき、彼らの有意義なコメントのおかげで議論を改善することができました。みなさんに深く感謝しています。ですが、本稿の内容や主張の責任は全面的に筆者が負うものです。

本稿の出発点には、「宗教2世問題」についてnoteなどで積極的に発信してこられた浅山太一さんとダッヂ丼平さんの論考があります。彼らがいなければ本稿は書かれなかったでしょう。

本稿に関心を持っていただけた読者であれば、下記の論考も興味深く読んでいただけるのではないかと期待しています。とてもおすすめです。

■浅山さんの論考
宗教2世を宗教被害者としてのみ論じることの問題について~荻上チキ編著『宗教2世』書評~

「宗教2世」に対する同化アプローチと調整アプローチ――荻上チキ編『宗教2世』書評への再応答に代えて

■ダッヂさんの論考
子どもの権利をまもるために〜荻上チキ編著『宗教2世』の問題点〜

ジェンダーと「宗教2世問題」〜エホバの証人の例を中心に〜

「他者の不合理性」を語ることの無意味さ〜櫻井義秀氏の論考に寄せて〜

宗教問題に取り組むにあたって隔離型という教団類型を使わないほうがいい理由


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