ジェンダーと「宗教2世問題」〜エホバの証人の例を中心に〜

2022年11月24日の朝日新聞に掲載された「新興宗教と女性」と題した時評で、東京大学大学院の林香里教授はこの年の夏から注目されだした「宗教2世問題」にジェンダーの視点をとりいれて論じた。宗教2世をテーマにした菊池真理子さんのマンガを読んだ林さんは、まず次のようなことに気づく。
「それは、ほとんどの場合、母親が信仰を主導し、子どもたちに強引に活動に参加させていることだ。父親はいないか、見て見ぬふりをするか、アルコール依存症の者もいた。」
そしてこう続ける。「統計的な把握は難しいが、菊池の描く漫画を通して、一部のいわゆる新興宗教団体は、日本の女性たちの生きづらさの受け皿になりながら、彼女たちを巧妙に利用していると感じる。」

このあとは論壇時評として数冊の本の内容を紹介しつつ論がすすめられるが、その内容をまとめると次のようになる。いわく、日本社会にはいまだ構造的なジェンダー不平等が存在しており、家事や育児などの家庭内無償労働も女性たちにおしつけられている。そうした不平等がもたらす悩みから女性たちの一部は新興宗教に「救い」を求め、かたや宗教の側は信者となった女性たちを集金や布教活動に動員して搾取し、勢力を拡大してきた。宗教にまつわる問題の抜本的な解決のためには、ジェンダー平等社会の実現が不可欠である。このような提言だと僕は読んだ。
ちなみにこの記事には“「信仰」通し搾取 社会の縮図“という見出しがつけられている。

この林教授の時評を皮切りに、他のメディアでも宗教と女性をテーマにした記事がいくつか書かれている。『女性セブン』2023年1月5・12日号、『AERA』2023年1月16日号ではいずれも新興宗教と女性という言葉をタイトルにとりいれて、新興宗教は女性を勧誘のターゲットにしており、その勧誘戦術が効果的なのはそもそも日本社会が女性にとって生きづらいからだ、という論調で解説する記事を掲載した。
いつまで有効かはわからないが、ネットでもAERAの記事は雑誌と同じものが、女性セブンのほうはダイジェスト版が読める。女性セブンの記事は前半がこちら後半がこちらで、AERAの記事はここここでそれぞれ読むことができる。

林先生がいうとおり統計的な把握は難しいが、日本の新宗教の信徒に女性のほうが多いことは、おそらく多くの人にとって経験的な事実である。だから新宗教についての学術的な研究やジャーナリスティックな取材に、ジェンダーへの視点が導入されるのは、とても大事なことだと僕も思う。
しかし注意深くやらないと、こうした論はたちまちのうちに単純な反宗教感情と、女性への慈悲的差別の混合物に堕してしまう。

虎視眈々と獲物を狙う「カルト宗教」と、その被害者としての女性という構図からは、自ら主体的に信仰を選びとった個人の姿は浮かびあがってこない。
でもそれぞれの女性たちが、あまたある宗教の中から他でもないその宗教を選択したのは、それなりにそこから得られるものがあったからでもある。
霊的・宗教的価値観と女性との、危ういバランスの上で成立する持ちつ持たれつの関係と、そうした価値観が必要とされる状況に女性たちを追いやる、日本社会の構造的問題について分析した近年の学術的達成のひとつに、橋迫瑞穂さんの『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』がある。

橋迫さんは上記の『女性セブン』2023年1月5・12日号の記事でインタビューも受けており、そこでスピリチュアリティや新宗教が女性たちに必要とされてきた理由についてもふれている。(リンク先を参照
宗教的なものへ女性が惹かれていく背景にある、社会の性差別構造を批判することと、宗教やスピリチュアリティの価値観を批判的に検証しつつ、それらが果たしている役割についても分析すること、これらを併存させるのはとても難しいことだ。しかし『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』を読めばわかるように、それは決して不可能なことではない。

さらに「宗教2世問題」と「新興宗教は女性を搾取して拡大した説」を単純に接続することには、過度な単純化にとどまらない問題が存在する。
なぜなら「宗教2世問題」とは「親子問題」でもあるから、母親に限らず親たちの入信の理由や背景を分析的に(共感的にではなく)理解することは、親から宗教虐待を受けたという自認がある宗教2世の心の傷の克服のためにも必要なはずだからだ。
これは親子の和解や許しのためにわかりあうことが大切だ、というようなきれいごとではなく、むしろ正しく罪を裁くためにも犯人の動機の解明が必要とされることに近い。女性、つまり宗教2世たちにとっての母親を、男性優位社会の構造的差別と「カルト宗教」の犠牲者としてだけみていては、彼女たちの選択や行為の責任について考えることもさまたげてしまう
そしてまた、最近再び取りざたされるようになったマインドコントロール論を、宗教2世問題へ適用することが、かなり問題含みである理由とも共通している。
親である1世信者は「カルト宗教」によるマインドコントロールの被害者であるが、宗教2世にとっては加害者でもある、というような雑なストーリーを提供するのは「宗教虐待などの被害を受けた宗教2世」にとって有害だとすら僕は思う。

とはいえ、“宗教的な回心“とは共有するのが困難な個人的体験でもある。
それに親たち自身に聞き取りをしても、現役の信者ならば教団の広報パンフレットに書かれているようなものと、あまり変わらない内容だったりするかもしれない。
宗教社会学には、いまマスコミで「カルト宗教」と名指しされているような教団それぞれについて、入信の経緯についての研究の蓄積がすくなからずある。でも多分こうした問題は、天才学者が一発で結論をだすようなものではなく、いろいろな立場の人が自分の目から見たことをごちゃごちゃいいあうことで、ようやく輪郭が浮かんでくるような類の話だろう。
ということで、本稿のこのさきでは女性と新宗教の関係について、多少は知識のあるエホバの証人のケースに限定して論じてみたいと思う。

申し遅れたけれども、僕は高校生のころに棄教してかれこれ25年になるエホバの証人の宗教2世である。宗教コミュニティに所属していた期間こそ短いが、現役信者である母親とどう付き合うかも含め、この宗教については人生の少なくない時間をついやして考え続けてきた。その一部を本稿でまとめてみたい。
でも、本論に入る前にちょっと寄り道して、エホバの証人についてなにか言ったり考えたりする際の基本文献だと僕が考える本を2冊だけあげておこう。

一冊目は
森本あんり『反知性主義ーアメリカが生んだ「熱病」の正体ー』新潮社、2015年

アメリカのキリスト教史の大家の手によるベストセラーであり、この本を書かれた森本あんり先生は岩波書店『キリスト教辞典』の“エホバの証人“の項目の執筆者でもある。
ただし、この本を隅から隅まで読んでもエホバの証人のえの字も出てこない。
なのになぜこの本が必読書なのかというと、アメリカの歴史における信仰復興運動(リバイバル)について解説された、日本語で読めるもっとも手軽でわかりやすい書物だからである。アメリカに「土着化した」キリスト教の性格を踏まえるか否かで、19世紀のアメリカで発祥したこの宗教団体への理解度はまったく違ったものになる。
それにエホバの証人に一切興味がなかったとしても、めっぽうおもしろい本であることは販売部数が証明している。だからまずはこの一冊から読まれることをおすすめする。

もう一冊は
山口瑞穂『近現代日本とエホバの証人ーその歴史的展開ー』法藏館、2022年

新進気鋭の宗教社会学者による日本のエホバの証人の通史である。なんと2022年に出版された最新の学術的成果だ。エホバの証人はめったやたらに出版物の多い教団である。おそらく注にも参考文献にも載せられていない膨大な量の資料を読みこんだことがうかがえる、地に足のついた研究で、本当に頭が下がった。
加えて全体の問題設定がとてもいい。「日本人にはわかりにくく、魅力の乏しい救済観しかもたないエホバの証人がこんにちの教勢を築けたのはなぜか」というものだ。これには“新新宗教“という概念の再検討に繋がる重要な論点が含まれていると僕は考えるのだが、これについてはまた別の機会に述べたいと思う。

ではこの先から本論へはいるけれど、本稿にはエホバの証人の宗教2世の人たち、特に宗教虐待を受けた自認のある当事者の人が読むといやな思いをするような記述も出てくると思う。
なぜなら僕はこのnoteでみずからの体験談を語っているのではなく、エホバの証人の2世問題についてかなり一般化した説明をしている。これを読む当事者によっては自分の固有の体験や境遇を無視されたように感じるかもしれず、自分がうけた苦しみを矮小化されたように感じるかもしれない。
もしそのように感じたとしても、ここでの説明はあくまで僕の目からみた宗教2世問題の一側面に過ぎず、いかなる当事者の証言も否定する意図はないことはあらかじめ断っておく。

■エホバの証人の家庭の3つのパターン

消しゴム版画家のナンシー関は1991年に発表したコラム記事で、エホバの証人について「まずお嫁さんが信仰しはじめて、そのうち例外なくダンナさんもオルグされる」と書いている。しかし、実はこの観察は半分しか当たっていない。
ほとんどの場合、まずエホバの証人に入信するのは既婚の女性だというところまでは正解なのだが、その先はダンナの態度によって3種類の典型的なパターンに分岐するのだ。そしてそれらのパターンそれぞれに、教団の中でだけ通用する呼びかたがある。

1.夫も入信するパターン=神権家族しんけんかぞく
夫婦だけではなく、子どもがいて家族ぐるみでエホバの証人の家庭だとこう呼ばれる。
2.夫が入信した妻を迫害するパターン=反対者

DVもしくは経済DVなどの手段で妻の宗教活動をやめさせようとしている時に夫のことをこう呼ぶ。
3.夫が妻の信仰を容認するパターン=理解者

夫が妻の宗教活動をどれくらい容認するかの度合いはピンキリだけど、反対者ではない非信者の夫のほとんどがこう呼ばれる。

教団内部ではこれから信者になりうる人という希望的意味合いをこめて非信者である夫たちのことを「未信者」と呼ぶ。これに習い、ここから先では未信者という言葉を使うことにしよう。
妻が入信してから夫も入信するまでにはとても時間がかかることが多い。
そして、統計的に把握することは難しいが、最終的にダンナさんもエホバの証人に入信するケースは2割そこそこ、といったところだ。
信者の人数については信用できる数字を公開しているこの教団も、その男女比などは明らかにしていない。けれど、間違いなく日本のエホバの証人の信者は女性のほうが圧倒的に多い。
それにこの教団に女性の信徒が多いことは、意識されてないだけで世間一般にもイメージとしてすでに浸透している。阿佐ヶ谷姉妹だから「玄関あけたらいる人」がおもしろいのであって、男性ブランコが同じネタをやってもきっとピンとこないだろう。

そしてこれがなにを意味するかというと、「宗教2世」や「カルト家庭」といえば一般的に下のイラストのようなものを想像しがちなんだけど、日本のエホバの証人の家庭は母親だけが信者で父親は未信者のケースが大多数なのだ。

そもそも家族とだけいったらパパママ子どものファミリーのことが頭にうかぶはずなのに、わざわざ父親もエホバの証人の家庭を指示する言葉が教団内部で発明されたことからも、少数派であることがおわかりいただけると思う。いわゆるひとつのレトロニムというやつである。

■語られることのない未信者の父親たち

エホバの証人の脱会2世の人が話す体験談のほとんどが母親との葛藤であるのもこれが理由で、当事者も宗教による被害にクローズアップするために父親のことはあまり語らないことがほとんどだ。
でも実は未信者である父親をぬきにしてエホバの証人の2世問題を語ってもあまり意味がないのだ。
両親とも揃ってエホバの証人の信者である「神権家族」が何割かは存在することは前提として、多くのエホバの証人の2世問題には、信者である母親と未信者の父親との間にある様々な緊張関係が深く影響しているからである。

例えば夫婦の間で宗教的な価値観が違うことは家庭内の不和の原因にもなる。
はっきりいって、妻が宗教活動をするのにたいして、夫があまりいい顔をしないくらいでは反対者なんて呼ばれないのだ。
そう呼ばれるような夫が、エホバの証人の信者である妻にどのようなDVをしていたかは、壮絶な話もかなり多い。
そして子どもは母親の信仰が原因で夫婦げんかが絶えなかったり、父親が母親に暴力を振るう一部始終を目撃するという環境に置かれることになってしまう。
こうした家庭で育った子どもが大人になって教団から離れた場合、「あんな宗教さえなければ」と考えるのは当然のことだろう。

だけど、こうした家庭内不和はどこからどこまでが「カルト宗教」が引き起こした問題なんだろう?
これはエホバの証人に限らず差別的な扱いをされやすい新宗教全般についてあてはまる問いであり、ジェンダーの視点を取り入れて考えるべき問題である。
なぜなら、このような暴力が振るわれる背景には間違いなく女性への差別意識が存在する。そしてそれは「カルト宗教」に入信するような女性の主体性は認められないという慈悲的差別の延長線上にあるものだ。
ジェンダー平等社会の実現を訴える言説が、ともすると「カルトにハマるような女房は殴られて当然」という意識を正当化するものになってしまうのは、とても皮肉な話だと思う。

だが暴力も辞さないような反対者の夫というのも少数のケースであり、もっとも割合が多いのは理解者と呼ばれる、自身はエホバの証人ではないけれど妻が子どもたちを連れて宗教活動にいそしむのを認めている夫たちだ。
冒頭で引用した林香里教授の表現を借りると、「母親が信仰を主導し、子どもたちに強引に活動に参加させ、父親はいないか、見て見ぬふりをするか」という家庭である。
こうした家庭への処方箋として、そもそも夫たちが家事や育児などの家庭内無償労働を女性たちにおしつけたりしなければ、妻たちが新興宗教に入信することもなかったのだ、というのが冒頭で紹介した「新興宗教と女性」論だ。
確かに過去にさかのぼって、父親たちが宗教虐待を受けた自認のある宗教2世たちの育児と子育てに積極的にかかわっていれば、被害が軽減されたケースもたくさんあっただろうと思う。
だが妻たちの入信の動機が、家庭内にとりのこされたがゆえの孤独や疎外感という解釈は、少し的をはずしていると僕は考える。この説の弱点は2023年の、少しリベラル寄りなジェンダー意識を過去の出来事に投影しすぎている点にある。現実に過去に起こってしまったことについて考えるには、歴史的な視点が必要だ。
未信者の父親がもうちょっとどうにかしていれば宗教虐待がくいとめられたという想定が正しいとして、過去においてそれができなかった理由はなんだったのだろう?

日本のエホバの証人の信者数は、1975年におよそ3万人だったのが1998年までに約7倍の22万人強に増加し、この年をピークにその後は少しづつ減っていっている。2022年の信者数は21万3828人だ。
つまり1970年代後半から1990年代後半がこの宗教の拡大期だったといえる。
そして近年になってたてつづけに刊行された脱会2世の手記や、最近になってメディアでの発言の機会をえた当事者の年齢からみても、エホバの証人の信者による宗教虐待のほとんどが、1975年から約20年間の拡大期に信者となった母親たちによって引きおこされたものと考えてよいだろう。
では、当時の母親たちはいったいこの宗教になにを求めて入信したのだろうか。

■しつけの根拠としての聖書

宗教2世問題がこれだけ騒がれるようになった現在からすると信じられない話かもしれないが、母親たちの多くは子育ての指針を求めてエホバの証人に入信した。
先に紹介した『AERA』2023年1月16日号の記事で、宗教社会学者の龍谷大学の猪瀬優理教授はエホバの証人の脱会した元信者の次のような話を紹介している。(リンク先を参照「自ら信者になった女性らは、子育てに不安や悩みを持っていたが、明確な支援は得られていなかった。だが、エホバの証人とともに聖書研究をしたり、集会に行ったりするようになると、指針だけでなく達成感や満足感が得られた、と話した」。
母親たちはエホバの証人の提供する「聖書の教え」にもとづいて子育てをすれば子どもがいい子に育つと思って勧誘におうじた。でもいったいなんでそんなものが子育てに必要だと思ったのだろうか。

なぜならば日本社会には道徳はあるが、道徳の根拠がないからだ。
そのことは平成の時代に高校生がテレビで「どうして人を殺してはいけないのか」といっただけで、この国のマスコミや知識人が上を下への大騒ぎだったことからもわかる。
質問した学生も、この質問にあまりうまく答えられなかった知識人たちも、殺人がわるいことだとはみんな知っていたし、そう思っていた。
でも問題になったのは道徳の「根拠」なのだ。
これはそれまで宗教と無縁に生きてきた普通の主婦たちが、子育てをきっかけにしてとつぜん聖書に関心を持った背景の、もっとも簡潔な説明である。自分が殺人はわるいと思っていることと、それがわるいことだと子どもに教えることとはまったく別の話だからだ。

とはいえ殺人うんぬんはあくまで極端な例であって、べつに母親たちは聖書の教えがなければ自分の子どもが殺人鬼になるかもしれない、などと考えたわけではない。ほかにも子育てに都合がいいことはいっぱいあったのだ。
エホバの証人とは、独自の解釈に沿った翻訳をほどこした聖書で逐語霊感説をとるアメリカ発祥のキリスト教系新宗教である。逐語霊感説とは、テモテ第二3章16節の「聖書全体は神の霊感を受けたもの」という記述などをもとにした、聖書に書いてあることは一字一句全て正しいとする考えのことだ。こうした立場なので、エホバ神を信仰することになった信者には、彼らのもちいる『新世界訳聖書』の聖句がそのまま従うべき規範として与えられることになる。

例えば世間一般の親御さんたちは、「親のいうことを聞きなさい!」と子どもにいって「どうして?」と聞きかえされ返事に窮したことはないだろうか。そんな時、エホバの証人の親ならば、エフェソス6章1節に「子供たちよ、主と結ばれたあなた方の親に従順でありなさい。これは義にかなったことなのです。」と書いてあるからだと答える。あるいはコロサイ3章20節の「子どもたちよ、すべての事において親に従順でありなさい。これは主にあって大いに喜ばれることなのです。」なんて聖句でもいい。
ガラテア5章22、23節には“霊の実“というクリスチャンが身につけるべき特質が書かれている。「愛・喜び・平和・辛抱強さ・親切・善良・信仰・温和・自制」というものだが、エホバの証人の子どもはみんなこれを「仁義礼智信忠考悌」みたいな徳目として暗唱するのだ。
子どもどうしがケンカをしていたらコロサイ3章13節を持ちだすし、仲直りをさせたかったらマタイ18章21、22節を読ませる。

道徳の根拠を神からの命令とする考えのことを、メタ倫理学では神命説と呼ぶ。エホバ神の存在を認め、聖書全体がエホバ神の言葉であるという前提を受け入れさえすれば、『新世界訳聖書』にこう書いてあるという答えで子どもをしつけることができる。脱会した元信者の女性の語った子育ての悩みの解消とは、こうしたことだったのである。

ここで気をつけたいのは、べつに母親たちは子どもをどう育てたらいいか皆目検討もつかないから指針がほしい、という状態ではなかったということだ。聞きわけがよくて落ち着きのあるいい子に育てたいという、目指すべきイメージは聖書を読む以前からあった。さっきから「根拠」を強調しているのはそのためである。そもそもエホバの証人が聖書から取りだしてくる道徳基準に、まだ信者ではない時点で共感したり賛同したりしないならば、それが入信の動機にはなりえないからだ。
ただ、母親らとその子どもたちにとっての致命的な誤算は、これは“いい子の育てかた“ではなくて、エホバの証人の考える“理想的なクリスチャンとして子どもを育てる方法“だったことだ。つまりこれがどういうことかというと、「信じない自由がほしかった」「信仰の押しつけはやめてほしい」というのが宗教2世問題の大きなテーマなわけだが、かなりのエホバの証人の家庭の場合、時系列としては“子どもへの信仰の押しつけがさきで、親の入信はあと“なのである。

■日本の戦後と理想の家庭像

1970年代後半という時期が教団の信者数拡大の起点となった理由は、当時の日本の人口構成にある。この時期は第2次ベビーブームの少しあと、ようするに団塊の世代に代表される戦後生まれが相次いで子育てをはじめた時期だ。
戦後に生まれた彼らは、子ども時代や思春期に『パパはなんでも知っている』とか『うちのママは世界一』とか『アイラブルーシー』とかのアメリカのホームドラマをテレビで観ていた世代である。敗戦をへて日本社会全体が価値観の転換を余儀なくされ、親世代がロールモデルとしてまったく役にたたなくなってしまった彼らにとって、アメリカから提供されたこうしたコンテンツが理想の家庭像の原型となった。日本社会に道徳の根拠がなくなってしまった理由とは、敗戦と占領の影響による、戦前と戦後の価値観の断絶にある。
だから当時の母親たちにとっての子育ての悩みとは、自分たち自身はすでに戦後の新しい価値観(=アメリカ的な価値観)を身につけているけれども、それを子どもに教えて理想の家庭を実現するにはどうしたらいいだろう、ということだった。聖書を無料で勉強させてくれるアメリカ発祥の宗教という条件が、こうした時代状況に見事にヒットしたのだ。

だが実際のところ、先ほど僕が示した例みたいな、聖書の聖句をそのまま子どものしつけのために利用するなんてことを、普通のアメリカ人がやってるわけないのである。しかしそんなことは当時の日本の主婦たちが知るよしもない。
さらにいえば逐語霊感説をとると、進化論を否定する創世記の記述だのが自動的にくっついてきてしまうので、子どもをしつけるための代償としては天秤がつりあってないと思う人がいるかもしれない。
でもそんな感想を抱けるのは宗教やキリスト教にもともと詳しい人だけだ。
日本ではいわゆる正統の教会に通うクリスチャンの人数が人口全体の1%くらいで、これをいうと怒られるかもしれないけど、そういう教会のほうがわざわざ「うちはエホバの証人やモルモン教とは無関係です」などと張り紙をしなければならないような、世界でも珍しい国なのである。

ここまでの説明は、1970年代後半の新米ママたちがエホバの証人に魅力を感じた理由だ。これは教団の台頭のきっかけであり、このあと20年間拡大を続けられたのはまた別の理由がある。それはこの母親たちがその後熱心に布教活動に没頭したからである。

■専業主婦たちの伝道奉仕

さいしょのきっかけこそ子育てに「聖書の教え」を役立てたいという気持ちだったけれど、「研究」をして「バプテスマ」を受け、正式に入信を果たした彼女たちは、この宗教コミュニティで熱心に活動するようになった。さきほどの『AERA』の記事の元信者の回想にたいして猪瀬優理教授は次のようなコメントをしている。
「つまり、通常の家庭生活ではこのような実感があまり得られなかったわけです。宗教集団への参加によって、家庭からの一時的な逃げ場や自己実現の可能性を得ることもできるのではないかと思います」
ここでいう「家庭生活では得られない達成感や満足感がえられ、自己実現ができる仕事」として彼女たちが取り組んだのが、戸別訪問による布教活動である。

当時の日本の状況の説明に入る前に、この教団の布教活動の淵源はアメリカのキリスト教の歴史で起きたリバイバリズム、または覚醒運動にあることを指摘しておきたい。これは言葉の正しい意味でのenthusiasm(宗教的熱狂)に根差した社会現象であり、簡単にいうと自分以外の住民も100%キリスト教徒の社会で、「昨日までの私は中途半端な信仰しかもっていなかったが、ついに神の真実の教えに目覚めた」などと隣近所にふれまわる行為が起源なのである。だからザビエルやルイス・フロイスが召命を受けた宣教などとは、その根っこからして性格の違うものなのだ。

ただしエホバの証人という教団は、もともと熱に浮かされて自然発生的にするような行為であった伝道を、全信者が従事するべき「神への奉仕」としてしまっている。1920年代に本国アメリカで戸別訪問による宣教活動の義務化がはじまり、現在も信者は毎月必ず伝道活動にどれくらい時間を使ったかを報告するのが決まりだ。
そして信者たちはこの伝道時間の報告をもって教団の成員としてカウントされるので、さきほど“2022年の信者数は21万3828人だ“と述べた数字はつまり日本で布教活動を実際におこない、その時間を報告した人の数だ。
この数えかたで作成された統計によれば、2022年の時点でアメリカには約123万人、世界全体では約850万人の信者がいるのだが、実は発祥国であるアメリカを含めて世界のどの国よりも日本の信者は熱心に伝道をしていて、信者ひとりあたりの布教時間ではずっとトップクラスだった。これを牽引したのが専業主婦の信者たちである。

基本的に伝道をした時間の報告は個別に行われ、一般信者同士はどれくらい宣教活動をしているかお互いにわからない仕組みになっている。だがこれには例外があって、「開拓奉仕」というものに申し込むとノルマの時間が課されるので最低でもそれだけ伝道をしていることが信者のグループ内で明らかになるのだ。この教団のジェンダー観は非常に保守的なので講演などは男性信者にしかできない。「開拓者」は女性がつくことのできる数少ない名誉をともなった特別な地位といえる。
時期によってノルマ時間は違うが、1980年代だと毎月100時間を宣教奉仕に使う人たちを「正規開拓者」、ある月だけ60時間の伝道をする人を「補助開拓者」としていた。1986年の教団の出版物では総信者数がはじめて10万人をこえたこの年に、日本には約4万人の開拓者がいたことが報告されている。そして1985年の資料によると開拓者の6割が専業主婦であり、彼女らの夫の大半は未信者だった。(山口瑞穂[2022年]144-145頁を参照)

こうした当時の資料は拡大期のエホバの証人の家庭の大多数が母親だけが信者だったということの傍証であり、同時に信者の圧倒的大多数が女性ばかりであったことの裏付けにもなっている。なにしろ残りの4割には男性だけでなく、未婚の女性も含まれているからだ。

1986年といえば男女雇用機会均等法が施行され、女性の社会進出が本格的にはじまった年である。すでに結婚をして子どももいた女性の信者たちは就労による社会参加には間に合わなかった世代ともとらえられ、布教活動のやりがいがその代替になったという説明も成り立つ。
しかし一方では専業主婦という立場だったからこそ「開拓者」という特別な地位を教団内で手にいれられ、布教活動にやりがいをみいだせたという見かたも可能だ。当時、平日の昼間に家庭を訪問して会えるのは布教する側と同じ専業主婦が多かった。女性の信者が子育て中の母親という立場で、「聖書の教えが家庭生活や子育てに役立つ」と宣伝することで、“しつけの根拠としての聖書”は拡散していった。そして関心を持った子育て中の母親が入信をし、彼女もまた布教者になるという正のスパイラルが1990年代後半に日本のほぼ全ての宗教が入信者が減るようになるまで続いていく。1970年代後半からはじまり1998年に最多信者数となる教団の拡大は、子育て中の専業主婦によってになわれていたのである。

さて、エホバの証人には伝道活動を強く推奨する教義と風土が存在していて、信者個人個人を宣教に駆り立てているのは事実である。だがその活動をひとくちに「搾取」とみなすことのできないのは、先ほどみたように呼びかけに応じている女性信者がわの動機にもさまざまな側面があるからである。宣教活動の意義は色々と宗教的な意味が付与されており、少なくともただの勧誘活動ととらえるのは単純化した見方である。加えて自らの回心体験の宣明という覚醒運動由来の歴史的な系譜も存在する。教団側からノルマ時間達成へのプレッシャーはあるのに、宣教活動の成果のほど(=勧誘の成否)があまり問われないのもこうした諸々の背景と関係していると思われる。

しかし母親たちの熱心な宣教活動への没入が教団が意図した「搾取」とは言い切れないのとは別に、家庭内での問題の原因となりえたのは事実だ。特に、母親たちのこうした熱心さが2世問題の温床となった側面は否定できない。

■子どもに期待される「未信者の家族への良い証言」

前半において「多くのエホバの証人の2世問題には、信者である母親と未信者の父親との間にある様々な緊張関係が深く影響している」と述べたが、すでに夫が反対者のケースにおける緊張関係については触れた。これから述べるのは夫が理解者であるケースにおける緊張関係の、一般化した説明となる。

いくら理解者の夫とはいっても妻が宣教活動や集会への出席などの宗教活動に、多くの時間を割くことに不満を持たずにはいられない。それに冠婚葬祭などの宗教的行事への不参加を妻が表明することをきっかけに、理解者であった夫が一気に苛烈な反対者になるケースもままあったと聞く。
妻たちの多くはこうした理解者の夫が信仰へ反対に転じるかどうかという緊張関係の中で、宗教活動に多くの時間を使っていることや、自分がエホバの証人の教義に従うことを正当化する理由を、宗教のおかげで子どもが「いい子」に育っていることに求めた。

多くの母親が子どもを連れて宗教活動に参加していたこの時期、教団の出版物でも「未信者の家族への良い証言」という表現が登場する。これは妻自身と子どもの態度によって未信者の家族、特に夫の心象をいいものに変化させましょう、という提案である。
そもそもの入信の目的であった「しつけの根拠」に回帰したともいえるが、今では子どもの普段の振る舞いに、夫からの信仰への賛否もかかってくるようになったのである。こうして家庭の中でこそ子どもが「いい子」であることが母親から求められるようになり、これが子どもにとっては気が休まらないストレスの多い生活の原因となる。そして表面上はどんどん「いい子」になっていく自分の子どもを見て、父親たちは安心して仕事に打ち込めるようになり、ますます子育てから手を引くようになっていった。
このように夫婦間の信仰をめぐる緊張関係は、夫が反対者の場合でなくとも子どもに影響を及ぼすのだ。

■まとめ

以上が僕の考える、エホバの証人の2世問題を考慮するさいにジェンダーの視点が欠かせない理由である。

この教団の2世問題は、松田道雄の一連の著作みたいな育児本の延長にあるもののように聖書をみなし、それを子どものしつけの根拠として利用しようとしたことから発生している。エホバの証人が信者数を伸ばした期間のおよそ半分は、男女雇用機会均等法の施行(1986年)よりも前の時代であり、女性たちが家事や育児を押しつけられていた不満から宗教に走った、とする解釈に僕はあまり賛同しない。むしろ入信のきっかけは専業主婦としてまかされた子育ての責任を立派に果たすことへの、過剰適応とすら表現できるものだ。なにしろ子どもに倫理や道徳の指針を与えるために、自分がそれまで信じていなかった神を信仰しはじめるくらいだからである。

夫たちが家庭内での物事のすべてを妻たちにおしつけてそれを当然と思っていたのは確かである。でも妻たちのほとんどはそうした性別役割分業をあたりまえのものとして受けとめ、専業主婦として自分たちにまかされた仕事である育児の指針として聖書とエホバの証人の教義を選択したのだ。
教義として子どもへの体罰を肯定する、こらしめのムチの問題がなかなか表面化しなかった理由もここにある。そうした体罰のほとんどが、女親の手によって振るわれていたからである。しかも多くの場合、信者ではない父親という存在が家庭内にいたのにもかかわらず、である。

最初のほうで提示した問いに「父親たちが宗教虐待をくいとめられなかった理由はなぜだろう」というものがあった。もちろんこれは家庭によっていろいろだっただろう。仕事でそもそも家にいなかったとか、家庭にまったくの無関心であったとか。そうした理由のうちのひとつに、「母親たちが自分たちの領分である育児と子どものしつけに、夫から口出しをされたくなかったから」ということもあげられると思う。
実はここでは母親たちの自意識と教団の教義との間でねじれが生じている。エホバの証人は男尊女卑が徹底しているので、子どもを立派なクリスチャンとして育てあげることは、一家の頭である父親の仕事だということは繰り返し強調される教えなのである。
だから「ジェンダー平等社会が実現すれば宗教2世問題も解決する」とする意見は、おそらく命題としては真なのだが、そこで想定されている機序は本稿の意見とは齟齬がある。
本稿の想定から導かれる結論だけを述べるならば、男性が子育てに積極的に関わるだけでは不十分で、女性の側も社会から繰り返し刷り込まれる「子育てやしつけは女性の領分」という呪縛から解放される必要があるのではないだろうか。

では母親たちがこのアメリカからきた外来の宗教を子育ての指針として採用する背景にあった、日本社会全体の道徳の根拠の不在についてはどうだろうか。
この問題の解決はおそらく見込みはないと思う。これからも教育勅語の復活を求める人はまれにしばしばでてくるだろうし、口のききかたに気をつける道徳の根拠を氷の結晶のかたちに求めたりする人もいなくならないだろう。そういう社会だと受けいれて、それぞれの個人が自分の倫理について考えながら、あるいはそんなことは考えず周囲と歩調を合わせながら生きていくしかないのではないだろうか。

おわりに

本稿はエホバの証人という教団の教勢拡大の歴史を踏まえつつ、ジェンダーの視点から宗教2世問題について説明する試みだ。だが、ここで取りこぼしているものは両親そろって信者である「神権家族」のケースなどを含め、あまりにも多い。
そしてこれは本稿の瑕疵であるとともに、所属していた教団も、家族構成も、子ども時代を過ごした年代もまったく違う当事者たちを“宗教2世“という言葉でひとくくりにするのがいかに粗雑で乱暴な議論にしかなりえないかを示すものでもある。

最近、メディアを中心とした宗教バッシングの状況をみかねて信教の自由のほうへコミットしたら、いろいろな教団の宗教2世の人とSNSでおしゃべりする機会ができた。そうしたやりとりの中には「うちの教団もいろいろありますけど、おたくの宗教って禁止事項が多くて大変なんでしょう……?」みたいな反応があって思わず苦笑してしまう。そうはいってもエホバの証人の親たちみんながみんな、子供になんでもかんでも禁止しているというのは多少オーバーに誇張されているといっていい。
道徳の源泉を神や超越的な権威に求める神命説の弱点とは、命令の内容そのものが権威者の恣意に左右されることだ。視点を変えるとこれは、それぞれの親や家庭によって聖典の解釈の適用基準が場当たり的で違うものになっているということでもある。
例えば僕の家でいうと、母親が戦闘シーンのあるものやオカルト的な描写があるものを入念に除外していった結果、『ちびまる子ちゃん』と『サザエさん』だけは子どもが視聴してもいいアニメ番組として認められていた。
ただし、まる子がお母さんのことを「あんた」と呼んだ翌週から、ちびまる子ちゃんも視聴禁止になったけど。(エフェソス6章2節 「あなたたちの父と母を敬いなさい。これは約束をともなった最初の命令です。」)

余談ながら、キリスト教にはこれに対処する方法がもともと用意されてたりする。教団や親の聖典の解釈やその適用基準の恣意性に疑問を抱いた場合、「お前はたかが人間の分際で神様気取りか」というロジックで異議を唱える方法だ。
だけどこれは、そのあまりの切れ味のためにすぐに分派を発生させてしまう呪われた武器でもある。事実、2000年ほど前にこの論法をパリサイ人たちに乱発していたある男性は、ゴルゴタの丘で磔刑にされるという結末をむかえている。

宗教による被害について考えるときの難しさとは、それぞれの個人が被害を被害として認識するプロセスそのものに「信じてたのに、あるいは、親からそう教わったのに真の宗教ではなかった」という怒りや嘆きの感情がかかわっていることにある。そういいたくなる気持ちはわかるが、こうした当事者の訴えをもとに消費者庁が優良誤認として取り締まったりすると、一面焼け野原になってしまう。
「自分はカルト宗教にだまされていた」という個人の気持ちも、宗教を離脱した自己を肯定するための大切な意味づけなので、そう話す当事者を否定したり、たしなめたりするつもりは一切ない。けれども、そうしたナラティブをメディアが社会へ広めるにあたってはそれなりの注意が必要とされると思う。過去に信仰していたけれども今は信仰していない、という当事者の声を集めればいくらでもバッシングが可能となるからである。

時間拘束性の高い宗教でずっと活動してきたけど運動を離脱して、再チャレンジを目指すような当事者の支援で実際に役に立つのは、けっきょく地味で地道なソーシャルワークだ。宗教2世問題の解決や支援を考えるにあたっても、属性に注目するよりも具体的な困りごとの解決をめざすというのが基本姿勢であるべきだと僕は思う。
そもそも日本のエホバの証人がパートタイムで働きつつ宣教奉仕中心の生活を送ることが時代とともに困難になっていったのは、日本の経済状況や雇用環境の変化と無縁ではない。脱会者が再チャレンジしやすい社会を目指すならば、けっきょく脱会しても脱会しなくてもみんなが生きやすくなる社会を目指すしかないのだ。だったら困りごとを抱えた個人が信仰をもっているかどうかチェックするなんてナンセンスだし、それは単純に差別である。

最後に強調しておきたいのは、僕はジェンダー平等社会の実現を求める意見になんら異論はない。それに日本がもっと男女平等な社会になっていけば、現在あるような新宗教の信徒の数はもっと減っていくだろうという見込みにも同意する。だがやはり、我々はどんな社会を目指すべきかという主張と、現在おきている社会問題の原因の分析とは、いったん分けて考えたほうがいいのではと思う。
宗教やスピリチュアルをめぐる話題にジェンダーの視点をとりいれるのはさまざまな困難をともなうものだ。ここまで読んでいただいた方々に、本稿が水準を満たしているどうかのご判断を仰ぎつつ、ここで筆をおくこととする。

参考文献

ナンシー関「有名「新興宗教」について考える」『何はさておき』93-101頁、角川書店、2005年
橋迫瑞穂『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』集英社、2021年
森本あんり『反知性主義ーアメリカが生んだ「熱病」の正体ー』新潮社、2015年
山口瑞穂『近現代日本とエホバの証人ーその歴史的展開ー』法藏館、2022年
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