子どもの権利をまもるために〜荻上チキ編著『宗教2世』の問題点〜

このnoteでは荻上チキ編著『宗教2世』の問題点をいくつか指摘していく。
しかし本稿はその内容を批判すること自体を目的としていない。
目標とするのはこの本が映しだしている現下の社会的風潮から、このさき起こりうると予想できる事態に警鐘をならすことにある。

僕は母親がエホバの証人の信者だった家庭でそだったアラフォー男性である。
だが25年以上まえの高校生のときからその宗教コミュニティからは離れている。
これはこのnoteを執筆するおおきな動機のひとつだ。

というのも『宗教2世』という本にはすでに浅山太一さん(タサヤマさん)によってかかれた書評がある。

本を批判する内容だったものの周到に準備されたことがうかがえる抑制のきいた文章で、指摘されていた問題点もほとんどが妥当だったと思う。
だから本来であれば僕のような海のものとも山のものともわからないようなシロウトがでる幕などないはずだった。

だが書評のあとに公開された荻上さんからタサヤマさんへの応答文を読むと、荻上さんに批判の中身があまり理解されていないというか、そもそもなぜそこが問題とされているのかがうまく伝わっていないことが明白だった。
そしてそのすれ違いの原因は、タサヤマさんが創価学会の3世の現役信者だということに荻上さんが過度にとらわれているから生じているように見うけられた。

そこで、はばかりながら親の宗教も現在の信仰心もちがう立場から、なぜこの本が「宗教2世問題」を考えるさいに有害となりうるか論じてみたいとおもう。
とはいえ生育歴や個人情報について詳細を開示するつもりはないので、本当に僕が現役の信者でないのかどうかはこのnoteの内容からご判断をいただきたい。

荻上さんの応答からわかること

まずタサヤマさんの書評への荻上さんのレスポンスから話をはじめたい。
なぜならこれを読めば『宗教2世』が問題のある本になった原因がわかるからだ。

確認しておくべきなのは、タサヤマさんがこの本のもととなったWebアンケートに協力しているということだ。創価学会の3世で信者であるタサヤマさんは荻上さんが「宗教2世」を対象としたアンケートを実施することを知り、現役信仰者を排除していないことと伝統宗教の2世も対象としていた点で賛同できると感じてその拡散にも協力し、自分もアンケートに回答したと書評の冒頭で書いている。
その上で発売された本を買って読み、この内容だと「宗教被害者としての宗教2世」以外の像は浮かんでこず、自分たちのような宗教2世の姿はまったく見えてこないという書評を公表した。

それにたいして荻上さんは『宗教2世』という本は宗教的虐待を受けた「宗教2世」当事者にフォーカスをしたもので、可視化されてきにくかった「宗教的虐待」の実態をあきらかにするとともに広くそれを発信することを目的としていて、これには社会的意義があるという応答文を発表した。

この一連のやりとりをみて「被害経験のある『宗教2世』と信仰者・信者である『宗教2世』の議論」と総括している人もいた。
それはそういうふうに荻上さんが認識して応答文をしたためたからそう思われてしまったのだが、まずここが間違っている。

これはある面で社会調査のデータ解釈の問題なのだ。

たとえば「子どものころ母親に伝道活動に連れていかれて、クラスメイトに見つかるとひやかされるのが辛かった」という文章は、伝道に連れていく母親に注目すれば宗教による被害だが、ひやかすクラスメイトに注目すれば宗教者への社会からの加害になる。
実はどっちの意味にもとれるはずなのにこれらすべてを「宗教虐待」とみなしているのではないかというタサヤマさんの視点はとても重要だ。

そしてチキラボの調査ではアンケートの回答者のうち教団を「脱会していない」と答えている人が56.3%で過半数を超えているのだ。
この割合から考えても、さっきあげた例のような子どものころの辛い体験を、回答者がどっちの意味づけでとらえているかは実はあまり明白ではない。
さらにいうと上の文章のような状況をすべて「宗教虐待」としていたら、いつまでたってもクラスメイトは異質な存在を次から次に見つけてひやかしつづけるけど、はたしてそれは多様性のある社会なんだろうかという問題でもある。

タサヤマさんは書評の中で、それぞれの当事者が癒されて救われるためには、上記の文章のような状況の解釈は傷つきを経験した当事者本人の意味づけが優先されるべきだともいっている。
その上で56.3%もいる自分たちのような2世による体験の意味づけがあまり本に反映されていないのではないかと著者に問いかけをしたのだ。
それなのに荻上さんは色々と理屈をこねつつ、タサヤマさんの書評そのものが「納得している2世」からの「宗教被害者としての2世」への二次加害になりうるとほのめかすような回答をした。

荻上さんが「宗教2世問題」についてどんなご意見をおもちだろうと、ごく単純にこんなことは社会調査をおこなう人がインフォーマントにたいしてやっていい仕打ちではない。
それに自分が前もって準備したストーリーにそわない当事者の証言は無視するというならば社会調査なんかはじめからやる必要はない。

ナラティブのぶつかりあい

「宗教2世問題」が注目されるようになって以降、日本には宗教が原因となった傷つきをかかえる当事者の「あんな宗教さえなければ」という気持ちで語られたナラティブがあふれるようになった。
そうした当事者が自分の経験した過酷な体験を、「宗教被害」とか「宗教虐待」という言葉でとらえて自己分析をし、回復の糸口をさぐることはとても重要であるという意見に僕も完全に同意する。
それぞれの宗教体験をかえりみる行為では、傷つきを経験した当事者その人が救われるためなら、その人のどんな解釈も否定されるべきではない。

でも当事者による自己の体験のナラティブを否定するのが二次加害になるということと、マスコミやメディアが特定の見方をする当事者のナラティブをそのまま広めることを批判することとはまったく別の話だ。
荻上さんのような第三者が、「あんな宗教さえなければ」という思いの当事者の気持ちに寄り添いすぎて、彼の影響力でそれを広く社会へ拡散すると色々とマズいことが起きますよ、というのがタサヤマさんの書評のテーマのひとつだったと僕はみている。

この意見にたいして「宗教全般やそれぞれの教団とか信者個人への偏見を助長する恐れがあるっていうんでしょ? そんなのわかってるし気をつけてるよ」という反応では、やっぱりことの重大さがわかっていないとおもう。
荻上さんは「宗教2世」という言葉を、傷ついた当事者同士をつなぐタグとか、語りへのエンパワメントをうながす言葉だとレスポンスで位置づけておられるけれども、実は「宗教2世」をキーワードにすること自体がかなりの問題を孕んでいるのだ。

「宗教2世問題」とは、おもに子ども時代に親からや親の所属していた宗教コミュニティの内外で体験した出来事により、傷つきを経験したり生きづらさを抱えることから生じる。
その性質上、体験したことそのもののちがいだけでなく現時点での親や親の信仰していた宗教との距離によって、まったく同じ出来事でもその解釈や意味づけが異なることがある。
さきほどあげた伝道の辛い思い出が当事者によってそのとらえかたが異なるであろうことがいい例だ。
これらを全部ひっくるめて「宗教体験の一枚岩ではなさ」ができあがっている。

だから千差万別の当事者の違いによって、当事者それぞれの宗教体験のナラティブがぶつかりやすい。
こうしたコンフリクトはとても複雑なものだ。
それに「宗教被害者としての宗教2世」の当事者どうしですらぶつかりが発生してしまうからこそ、自助グループなどでは相手が体験したことの告白に否定的な発言をすることをきびしく禁止するルールがあるのだ。

なかには教団とつながりのある現役の信者じゃなく、すでに脱会した元2世信者が自分はそんなに辛い思いをしなかったという個人的な体験をベースに、過酷な体験をSNSで共有している「被害経験のある宗教2世」のアカウントに突撃しているケースも散見される。
ここでいって届くかはわからないが、本当にそれはやめたほうがいい。
だがこのnoteもそうしたもののひとつとみなされる可能性があると思っているし、ここらへんはいくら気を配っても十分に配慮できているか心もとない気持ちがする。

くりかえすがそれぞれの宗教体験をかえりみる行為では、傷つきを経験した当事者その人が救われるためなら、その人のどんな解釈も否定されるべきではない。

これを大前提としながら、荻上さんをはじめとするマスコミやメディアが「あんな宗教さえなければ」という気持ちの当事者のナラティブばかりを取りあげることで生じる、とても大きな問題がある。
結論をさきにいうとそれは未成年の信仰者への一般社会からの同調圧力の高まりである。
このままでは子どもの安全や権利が侵害されるのではないかと僕はまじめに危惧している。
この点について僕の「エホバの証人の子ども」としての体験から説明をしたい。

子どもの信仰を争点にするのはやめたほうがいい

荻上さんは本書の冒頭で出版の目的を「幅広い宗教のもとでの2世体験を把握することによって、宗教に関する人権、特に子どもの権利を考えるためである」(18頁)と書いている。

エホバの証人は発祥国であるアメリカにおいて、第二次世界大戦中に公立小学校での星条旗への忠誠の誓いを拒否したことからはじまり、未成年の信教の自由という権利の話題では常にど真ん中に存在する教団だ。
これが僕が「宗教2世に信教の自由を」というハッシュタグをみたときに、まったく自分のこととしてピンとこなかった理由のひとつだ。
なぜなら僕は未成年のときに公立学校をつうじて国家から信教の自由を認めてもらった経験があるからだ。

小学生のときも中学生のときも僕は「バプテスマを受けていないエホバの証人」として、校歌をうたえないとか、いろんな行事に参加できないとか、その「聖書的な根拠」もふくめて説明するため職員室に自分から“証言”しにいった。
それは親から教えこまれた宗教的価値観だったかもしれないが、まぎれもなく自分の口で“証言”をしたのだ。
だが冒頭にも述べたように、僕は成人する前にはすでにエホバの証人ではなくなっている。
だから職員室で僕の“証言”を聞いて、学校行事に参加しないことを許可してくれた先生がたに「結局お前の信心はうそだったんじゃないか」といわれると弱ってしまう。

でも僕はまだ自己の確立していない子どもだったし、あのときは親から教えられた宗教的価値観を信じていたけど今は信じてないとしか表現のしようがない。
そしてここがもっとも重要なことだが、僕と同じように自分の口で先生に“証言”をした過去の体験を「あれは自分の意思ではなかった」とか「本当は親にいわされていた」と意味づけをする当事者のナラティブを、マスコミやメディアは広めることを控えて欲しい。
彼らのような当事者が自らの体験をそう意味づけして語ることを否定はしないし、そんなことをする権利は誰にもない。
だからそれを伝えるメディアのほうに配慮をお願いしたいのだ。
どうしてかというとエホバの証人の子どもは本当は自分の意思で“証言”をしていないという認識が浸透することは、未成年の信仰者への社会からの圧力を高めて彼らの心の傷を深くし、生きづらさを助長させてしまうからだ。

職員室にエホバの証人の生徒が国歌をうたわないとか学校行事に参加しないと自分の口でいいにきたら、先生たちにはそれをすんなり認めてあげてもらいたい。
学校関係の職についておられる人は、冗談でもエホバの証人の子どもに「お前はマインドコントロールされているんじゃないか」とかいったりしないでほしい。
これは本当に切実なお願いだ。
もしそんな目にあう子どもがでたらと想像するだけで、僕は胸を刺されるような思いがする。

おおざっぱではあるが統計的にみると、小学校で職員室の先生に“証言”をしたエホバの証人の子どもが10人いたとして、そのうち20歳をこえてもエホバの証人の信者でありつづけるのは2人か3人だ。
エホバの証人の2世の定着率は本当に低い。
当然といえば当然で、もうすぐハルマゲドンがくるからあらゆることを禁欲して、世俗内で宣教のためだけの生活を送りましょうとか、普通の人ならつきあってられないに決まってる。
それに宗教とはそもそも不合理なものなのだから、職員室で“証言“をした10人のうち8人があんなことをさせられたのはまったくの無駄だったと過去の体験を振りかえるのは当たり前である。
だけどのちに教団を脱会することになる8人の子どもだって、先生たちに“証言”したことをすんなり認められたほうが心の傷は浅くなるはずだと僕は思うのだ。
今でも僕が“証言”しにいったことの全てを認めてくれた先生たちには心から感謝をしている。

これは過去のことを振りかえって「納得している2世」と「被害だと思っている2世」の体験の意味づけの主導権争いなどではまったくない。
「宗教2世問題」を考えるさいに、最優先に配慮されるべきなのは現時点での未成年の子どもだという原則の話である。

荻上さんには現時点で未成年の宗教2世を、救済の対象とみなすこと自体が一般社会との葛藤のレベルを上げることに自覚的になっていただきたい。
これはぜったいに“両立“しないことなのでどっちの立場をとるか、覚悟の問題なのだ。
そして僕のみるところ、荻上さんはとっくにルビコンを渡っているのに、それに無自覚であるかあるいはわかっていてそれを誤魔化しているだけだ。
それは次のような記述によくあらわれている。

ただし、「信仰の自由を奪う」(信仰を押し付ける)という一点に絞る場合、「霊的虐待」「宗教的虐待」といった言葉でのみ、把握可能な侵害の実相がありうる。さまざまな行為や手段を駆使することを差し引いても、「信仰を押し付ける」「特定の信念を持つように強要する」こと自体が、子どもの権利を奪うものであることは、より広く知られるべきだろう。
荻上チキ編著『宗教2世』2022年、太田出版、57-58頁

引用した文章では行為や手段が悪質であるかどうかを考慮に入れないとおっしゃっているので、結局のところ荻上さんがここで「押し付けることそのものが虐待だ」と主張しているのはマイノリティの価値観を教育することだ。

マイナーな宗教を教えられて育った人間として、「うちの子はまだサンタクロースを信じてます」というSNSの幸せな投稿が絶対に宗教的虐待だとみなされることがないことは身にしみてわかっている。
それに僕だってよつばと!でとーちゃんがよつばのうそつきむしを退治してもらうために仁王さんのところへ連れていったエピソードを、霊的虐待だなどと思ったことは一度もない。

だけど子どものころにエホバ神以外への崇拝はすべて偶像崇拝だと教えられ、成長してそれを克服するために一時は新無神論に傾倒した人間の目からすれば、マジョリティの価値観にべったりとはりついている霊的・宗教的価値は試薬で色をつけたようにはっきりとよく見える。
でもそれらが荻上さんが押し付けてはいけないと主張する「信仰」だとか「特定の価値観」として有徴化されることはぜったいにない。
子どもが成長して社会にでたときに、多数派の価値観とちがうから苦労してしまうような価値観を親が教育することが虐待だとすれば、全体主義へまっしぐらではないか。

落語家の立川談志は「教育とは価値観の強制的な共有である」という言葉を残している。
もちろん自らの意思で入門してくる芸能の弟子と、親を選んで生まれてこれるわけじゃない子どもとでは許容される強制の程度はちがってくる。
でもパターナリズムをまったく否定したら子育ても教育も不可能だ。

「宗教2世問題」を信教の自由の私人間効力の問題としてとらえる議論があるようだけど、僕の考えでは信仰継承もしくは家庭内での宗教教育とは、どこまでいってもどれくらいのパターナリズムが許容されるのかの程度問題にしかならない。親のパターナリズムが社会によって否定されて介入されるべき場面は間違いなくある。エホバの証人でいうと子どもに輸血が必要なのに親が同意しないならば親権が停止されて児童が保護され、行政の保護のもとで適切な医療処置を与えられるようになるといった事例がそれだ。
しかしここで理解しておかなくてはならないのは、親のパターナリズムに代わって子どもにどんな治療をほどこすか決定すること、それもまた社会のがわのパターナリズムであるということだ。

それが露骨にあらわれているのが僕と同じ教団の信者だった母親をもつ、横道誠さんによる「宗教をR-18にしよう」という提言だ。
これはどう言いつくろったところで国家のパターナリズムによって、すべての日本人を成人になるまでのあいだ信教の自由を制限するということにほかならない。
親と子のあいだの私人間効力どころの騒ぎでなく国家対個人のど真ん中の憲法違反である。

だがものは試しに横道さんのプランを思考実験として実行してみると、この体制が実現した世界では、すべての日本人は誕生から成人するまでのあいだ、経験する宗教的儀礼が日の丸・君が代だけになる。
もちろんそれを望ましいと思う人もいるだろう。
だけどそもそもいま「カルト宗教」が社会問題として取りあげられはじめた理由って、宗教が政治を影からあやつって日本をどんどん右傾化させているからではなかったでしたっけ。

僕が中学生だったとき、職員室まで担任の先生に自分は校歌も君が代もうたわないし国旗への敬礼もしませんということを“証言”しにいった。
先生は僕の話を黙って聞いたあとに、本を開いて日本国憲法第20条をみせ、この国では信教の自由が保証されていて君はまさにいまその権利を行使しているのだ、これはとても素晴らしい憲法である、というようなことをいって僕の肩をポンポンとたたいた。
温和な笑顔が印象に残っているその先生は憲法9条が大好きで、授業のときにあまり脈絡なく天皇の戦争責任について語りだすような人だった。

とはいえエホバの証人はべつに天皇崇拝についてなにがしかの意見をもっているわけではまったくない。君が代を歌わない理由だってアメリカの小学生が星条旗への忠誠の誓いを拒否したのと同じだ。つまりエホバ神以外のものにたいしてする崇拝行為は偶像崇拝だからしてはいけない、というだけ。

昨今なにかと引きあいに出されるフランスの反セクト法だけど、ローマ・カトリック教会の長女を自認しつつ、むしろだからこそ政教分離のライシテを厳格にまもるフランスと、万世一系という権威で国民国家の形成をなしとげ、敗戦をへても象徴としての天皇制が維持されている日本とでは憲法で保証されている「国家からの」信教の自由の意味内容がびみょうにちがってくるのは当たり前の話だと思う。
あの先生のことをひさしぶりにおもいだして、いまどのような政治的スタンスの人たちが信教の自由を制限しようとがんばって活動しているかを思うと、僕は本当に隔世の感を禁じえない。

でも荻上さんはやめさせるための具体的な考えもなしになんでもかんでも宗教的虐待だといってるだけだし、横道さんの案もただの憲法違反なのだから勝手にいわせておけばいいのでは? と思うかもしれない。
でもこうした暴論・極論が心に傷を負った宗教被害者としての宗教2世に届くことは、彼らの癒しや慰めになるのではなくとても害になる危険性があるのだ。

サイバーカスケードの煽動になっているのではないか

タサヤマさんは書評で次のように書いている。

ただ、社会からの「加害」が適切に言語化されないまま、またより問題のあるパターンとして、日本社会に潜在する宗教嫌悪まで内面化されて自己の再形成がなされた場合、被害者であったはずの「宗教2世」が他の「宗教2世」への加害者として振舞ってしまうことが時として起こります。
タサヤマさんの書評noteから

僕もこうしたタサヤマさんの懸念を強く共有する。
とくにインターネットでは、はじめは社会的弱者であったり救済の対象となるべき被害者だった人々が、SNS上で発生するサイバーカスケードに巻き込まれて加害者となってしまうことがしばしばおこる。
そうしたサイバーカスケードのひき金として、専門家や学者などの知識人をはじめとしたインフルエンサーがおおきな役割をはたすことは、SNSをよく観察している人たちがとみに指摘することだ。
とくに学術由来の概念が定義も範囲もあいまいなまま、ネットスラングでいう「概念棒」として提供されると非常におおきな悪影響を及ぼす。

ここにリンクをはった厚生労働省の宗教にまつわる虐待のガイドラインができたことは当事者が声をあげた成果で、僕もとてもいいことだと思っている。

だが荻上さんのいう信仰を押し付けること自体が「宗教的虐待」だという主張は、明らかにガイドラインによる虐待の認定基準からも大幅にはずれている。
こうした極論をたんなる言論活動での問題提起として片づけられない理由は、それが宗教被害者としての宗教2世たちを、ほかの宗教2世への加害者につくりかえてしまう危険性があるからだ。

そしてこのときに加害の対象になってしまう宗教2世とは、「現在まさになんらかの宗教を熱心に信仰する親に養育されている未成年者」のことにほかならない。
荻上さんの「信仰を押し付けることそのものが宗教的虐待だ」という極論に煽動された脱会2世たちが、“善意”と“義憤”にかられて子どもが参加している宗教活動を攻撃することは十分におこりうることではないだろうか。

表現がすぎたらとても申し訳ないが、一般的にいって特別な傷つきを経験した人たちは自他境界があいまいになりやすい。
きっと自分の体験の強烈な記憶から、自分がいやだったことは似た経験をする他の人もいやに違いないと思ってしまいやすいのではないかと思うが、これ以上の言及はさける。

最近になって、元JWとbioに書いてSNSで繋がったエホバの証人の脱会者のコミュニティでは、さきほどの厚生労働省のガイドラインとこの“勘違いでもかまわない“という基準をもとに、伝道活動をしているエホバの証人の子どもを見かけたらすぐに通報しようという空気が醸成されてきている。

はっきりいって25年も前にエホバの証人のコミュニティと縁をきっている僕には、2023年時点で未成年の子どもたちが体罰や脅し・ネグレクトのような虐待によって宗教活動に参加させられているのかどうか、正確な判断はできない。
だからエホバの証人の子どもが伝道をしているところを見かけたらすぐに児童相談所に通報することの是非についても、ここではっきりとした意見をいうことはできない。
通報があったら児童相談所にきちんと虐待かどうかをみて判断してもらうしかないのではないか。

ただこれはあきらかによくない兆候だと思う。

児童相談所への通報だけならまだしも、通報したという投稿がバズることでどんどんエスカレートしていくことは考えられないだろうか。
「宗教的虐待の現場」などというキャプションでSNSに子どもの写真や動画が投稿されるようなことはないだろうか。
おそらく、ことはエホバの証人の宗教活動にとどまらなくなる。
荻上さんの基準だとどんな宗教であろうと礼拝に親子で参加したり、宗教コミュニティの集まりに子連れで行くことだけで宗教的虐待となりうる。

荻上さんは応答文において宗教2世という言葉が教団を特定せず、宗教による傷つきを経験したおおくの人たちをつなぐタグとして機能したことを評価するが、僕にはこれがいいことばかりとは思えない。
自分の出身教団ならば被害や傷つきを実体験として想像できるが、ぜんぜん違う教団による被害をうったえる宗教2世の話でしか知らない傷つきはリアリティがないぶん過大に見積もられやすいと思うからだ。
そういったリアリティのない知識は「宗教的虐待の報告」をSNSで見かけたさいに義憤や憎悪へと容易に転化してしまう。
杞憂におわればいいのだが、こうした状況を俯瞰して子どもの宗教活動をめぐるサイバーカスケードの発生のおそれを本当に心配している。

僕はこのnoteで子どもを盾にして宗教被害をうったえる宗教2世の口を塞ぐようなまねをしたいわけではない。当事者が語りをつうじて回復にむかおうとするのを邪魔する権利など誰にもないからだ。
それに同じ教団の信者だった過去があるからといって、傷つきを経験した被害者がそこの信者の子どもに特別に配慮する義務があると主張しているわけでもない。

余談になるかもしれないが信者の生活を戒律で厳しく制限していた教団も、世俗化と統制のゆるみからその内容がだんだんとゆるく変化していることもおおい。
しかし2023年に親に養育されている未成年者の宗教2世にとっては朗報でしかないこの事実が、宗教被害者としての宗教2世の被害感情を亢進させてしまったりもする。
例えるなら「今の野球部は1年から水のんでいいって本当かよ、俺たちのころは……」と同じ現象が宗教活動でも起こりうるということだ。
ことほどさように当事者の心理とは複雑なものだ。

前半部分でいったことのくりかえしになるが、当事者それぞれのナラティブを尊重することと、メディアが一面的な当事者の声をそのまま伝えることで問題が起きることに警鐘をならすこととは別問題だ。
当事者は傷ついた体験の記憶と生きづらさに向き合うことに精一杯で、周りのことまで考えるような余裕がないことがおおい。だからこそ傷ついた彼らに寄り添う気が本当にあるのなら彼らのかわりに色々と気を配ってあげる必要があるはずだ。

おわりに

僕がエホバの証人とはどんな宗教かと聞かれれば「聖書に独自の解釈による翻訳をほどこしたうえで逐語霊感説をとるアメリカ発祥のキリスト教系セクト」と答える。
逐語霊感説とはひらたくいうと聖書に書いてあることは一字一句すべて正しい、とするアメリカのキリスト教根本主義者(ファンダメンタリスト)が唱える説だ。ちなみにエホバの証人はキリストに神性を認めないので根本主義からも外れていたりする。

聖書に書いてあると思えば死ぬかもしれなくても輸血を拒否するし、聖書に書いてあると思えば子どもの尻を懲らしめのむちでたたいてしまう、普通ではない人たちである。
でも中学校の先生が僕を元気づけてくれたように、聖書に書いてあるから国家崇拝から距離をおき、聖書に書いてあるから投獄されても兵役を拒否したりする普通ではない人たちでもある。

いま「カルト宗教」を叩いている人たちの政治的スタンスからすると、今後もうすこし日本の周辺で軍事的緊張が高まっていけば「市民的不服従の先例は日本にもあって、戦時中には灯台社の明石順三という人が……」くらいのことはいいそうだなぁとは思っている。
現在の日本支部の歴史と明石順三は無関係だけど、でも彼だって「聖書に書いてある」と思ったから投獄もいとわずに国家への協力を拒んだのには変わりない。

荻上さんは本書で「神のために人がいるのではなく、人のために宗教が作られた。このことを忘れてはならない」(『宗教2世』19ページ)と力強く宣言なさっている。
おっしゃるとおり、宗教も思想もイデオロギーでも後出しジャンケンでありのままの自分を正当化する都合のいい道具として利用できる賢い人間もいるだろう。
でも中には超越的なところから降ってくる規範をうっかり受けいれてそれを人生の指針にしてしまう人もいて、日本にいると見えづらいがそれは決して人類のごく少数ではない。
この複雑な世界を複雑なまま理解しようとするつもりがあるならば「マインドコントロール」だとかいう概念を軽々に振りかざすべきではないと僕は思う。

これは完全に自分の出身教団がセクトであるせいだけど、そもそも社会は宗教を弾圧するのが当たり前で、教団は迫害されてなんぼみたいな素朴な感覚が僕にはある。
それこそが「宗教の残響」だといわれると、そうなのかな? という気はちょっとする。
だけどそんな感覚があるからこそ、信教の自由を教団の擁護のためにもちだしていると受けとめられるのはわりと心外で、あくまで信教の自由とはわれわれ社会の側の問題だという気持ちでこの文章も書いている。
僕は参加するつもりはないけれど、家庭内暴力の原因となった教説を提供したことの責任をとらせるために訴訟の準備もすすんでいるという。
エホバの証人は投票をつうじた政治参加はしないくせに、世界各国で裁判を起こすのが大好きという体質の教団である。たまには裁判を起こされるのもいいことだと思う。

このnoteでいいたかったことは
1.「宗教2世問題」を考えるときに最優先に配慮されるべきは現在まさに宗教を信じる親のもとで養育されている未成年者である
2.結局はマジョリティの意向しだいになる国家のパターナリズムの肥大化には用心する必要がある
3.世の中の宗教が全部チャーチ型だったらそもそも信教の自由なんかいらないと思うという3つだ。
とくに未成年の信仰者の権利の擁護については慎重にも慎重を重ねた議論をお願いしたい。すでに教団を離れて久しい身の上の体験談ではあるが「宗教2世問題」議論の正常化に役立つものがあることを願っている。