「他者の不合理性」を語ることの無意味さ〜櫻井義秀氏の論考に寄せて〜

はじめに

『月刊住職』という雑誌がある。「宗派を超えた寺院住職実務情報誌」という、いわば仏の道のプロ向けの月刊誌である。仏教界の話題に限定せず、ひろく宗教に関係した記事も掲載するこの雑誌に、北海道大学大学院の櫻井義秀教授は「現代日本の宗教最前線」というタイトルの連載を持っている。連載7回目となる2023年4月号では「キリスト教信者が増えぬ日本でなぜ新宗教が教勢拡大できたか」と題し、旧統一教会とエホバの証人という2つのキリスト教系新宗教の布教戦略を比較して論じた。

筆者は母親がエホバの証人の信者であった家庭で育ち、高校生までその宗教コミュニティに参加していた経験から、この教団の教勢拡大(信者数の増加)の歴史について、1970年代から90年代にかけて子育て中の母親たちに聖書が子どものしつけに役立つとする勧誘文句が効果的に入信をうながし、教勢が拡大していったのだと解説するnoteを書いたことがある。下掲の記事を公開したのが2023年の3月のことだ。

ゆえに偶然『月刊住職』4月号の広告を目にしたとき、30年にわたり統一教会を研究してきた櫻井教授による両教団の布教戦略の比較論という宣伝に興味をひかれ、僧籍もない一般人でありながらこの記事のためだけに雑誌を購入して読んでみた。後述するが、実はある理由から読むまえからどんな内容であるかはある程度見当がついていたのだが、読んだ結果、予想どおりの部分と予想外に問題の多い部分とがあることがわかった。

当初は、問題のある箇所を論駁したところで「カルト宗教」の元関係者が高名なカルト問題の専門家を批判するためにわざわざ一般人が買わないような専門誌を購入していちゃもんをつけているとみられるのがオチだろうから、スルーするつもりでいた。だがしばらく考えてみて、この記事は昨今の宗教をめぐる報道と言説状況について改めて考えてみる手がかりになるのではないかとおもいつき、批判的な検討をnoteとしてまとめることにした。あらかじめ断っておくと、本稿の批判の内容はエホバの証人の教勢拡大の要因についての拙論との見解の相違ではない。

とはいえ、筆者が人文研究の訓練を受けたのは学部の史学科であり、宗教学や社会学のディシプリンを身につけているわけではない。筆者にとってはダメな議論におもえても宗教の研究者共同体においては妥当なものである可能性はある。もし本稿での批判や異論に見当違いなものがあれば潔く撤回したいとおもう。では批判的検討をくわえる前に『月刊住職』4月号の櫻井氏の論考を要約してみよう。

■キリスト教系新宗教が日本で教勢拡大できたわけ

さて、記事の冒頭には「統一教会は異端とはいえキリスト教であるのになぜ、日本で信者を増やせたのか」という問いが掲げられているのだが、まず「キリスト教であるのになぜ」という部分の意味が説明される。すなわち、日本のクリスチャン人口は全人口の1%にすぎない上にそれすら長期低落傾向にあり、そもそも日本社会ではキリスト教とキリスト教文化は普及力と求心力の弱い宗教だという事実が紹介される。

そして、正統なキリスト教ですら苦戦する日本においてなぜ異端である統一教会が信者を増やせたのか、それはもう一つのキリスト教系の新宗教であるエホバの証人の伝道方法をみればわかるとして、櫻井氏は山口瑞穂氏の『近現代日本とエホバの証人ーその歴史的展開』という本をもとに解説をする。山口氏の研究の成果として紹介されるのが以下の説明だ。

山口氏の答えは極めてシンプルであり、エホバの証人の「本部志向性」こそ教勢拡大の原動力でした。 この教団は外来宗教として土着化などは一切図らず、日本では徹底して本部の指令に従順な信者に教化することに成功したのです。
(中略)結論としては、時代ごとに揺れがあるものの、エホバの証人は本部志向性が強く、従順な信者となって週ごとの伝道時間を捧げものとして布教に邁進したために急成長したとされます。 [櫻井2023:115-116]

論考の終わりに統一教会とエホバの証人の比較がなされ、統一教会にも同じように、エバ国家である日本がアダム国家である韓国へ服従するという形での本部志向性があることを櫻井氏は指摘する。そして本部志向性を備えた二つの異端視されるキリスト教系新宗教が日本において教勢を拡大できた理由を、日本人の文化的特性に求める。
すなわち、①指示に過剰適応して真面目に徹底してやり抜く権威主義・同調性と、 ②温情的・家父長制的支配を好むパターナリズムという日本人の文化的パーソナリティに適していたことが両教団の信者数拡大の要因であった。信仰の自由度や自律性を重視する主流派の日本のキリスト教は、西欧的な個人主義を宗教の骨格にしているので社会の中上層にハイカルチャーとして受け入れられても、なかなか信者数は伸びないのである、というのが記事の結論だ。

■〈本部志向〉を拡大要因とだけみなすことの妥当性

以上が『月刊住職』に掲載された櫻井氏の論考の要約である。筆者は雑誌を買って読む前から内容の見当がついていたと先に述べたが、その理由は山口瑞穂氏の著書をすでに読んでおり、おそらく櫻井氏が依拠するのはこの研究だろうと予想していたからである。これは2022年に出版された日本のエホバの証人の通史であり、山口氏の長年の研究が結実した労作である。日本では脱会者のエッセイ本や反教団の立場から批判する書籍は数多いが、エホバの証人についての研究はこれまで複数の研究者によって若干の論文があるのみだった。ゆえに、まとまった研究書としては本邦初といえる。上掲の拙noteでもエホバの証人を理解するための必読書の一冊としてあげた。

さて、『月刊住職』の記事で櫻井教授は山口氏の本の内容から、エホバの証人という教団が拡大した理由を〈本部志向〉に求める要約をするのだが、〈本部志向〉を単純に拡大要因としてのみ取りあげることには大きな問題がある。なぜならば山口氏はエホバの証人の〈本部志向〉について、序章で以下のように分析枠組みを設定しているからだ。

本書における議論は、〈本部志向〉の定義を、「海外に本部などの組織をもつ宗教集団における本部/支部間の恭順的な関係性」とした上で進める。エホバの証人における本部/ 支部間の恭順的な関係性とは、世界本部が各国の支部や信者たちに忠節や服従を要求し、これを請けた各国の支部や信者たちも、世界本部の方針に自発的に応答することを最善とするような関係性である
[山口2022:29−30]

エホバの証人における信者数の増加は、世界本部が指示する布教活動と、離脱者の少なさによって初めて成立するものであるため、信者数の増加をもって個人レベルにおける〈本部志向〉が集合的に成立している場合の指標としたい。
[山口2022:32]

〈本部志向〉であるから信者が増加したと説明し、信者が増加しているならば〈本部志向〉とみなすことができると主張するならば、これはただの循環論法である。山口氏はこの誤謬を避けるため〈本部志向〉を分析概念として用いるための工夫を色々としている。支部レベルと信者個人レベルの〈本部志向〉を分けてみたり、4つに区切った日本における教団史の各時代について支部と信者たち個人レベルの〈本部志向〉を類型化してみたり。
そして最終章で結論として「拡大要因/停滞要因としての〈本部志向〉」という見解をうちだす。これは〈本部志向〉が信者たちを布教活動へと駆り立て、新たな入信者を見つける拡大要因になったのと同時に、有無をいわさぬ本部の指示に従うのをやめる多数の脱会者を産み、停滞要因にもなっているという結論である。だがこうした試みは筆者のみるところでは、およそ半分しか成功していない。

そもそも山口氏の議論はエホバの証人の教団本部が公開している信者数の統計に依拠しており、教団がどういった人々を自教団の信者だと定義してカウントしているかに規定されている。一般的に宗教団体が発表する公称信者数は誇張されているのが当然のものと思われているので、その数字も参考程度に扱われるが、エホバの証人の場合は少し事情が違う。
エホバの証人の教団がある人物を自教団の成員としてカウントする条件は「毎月一定程度の時間を布教活動に費やしそれを教団に報告すること」なのである。このことと山口氏が提示する「布教活動をしているならば〈本部志向〉である」という命題からは必然的に、統計上にあらわれる全てのエホバの証人は〈本部志向〉である、という結論が導かれる。つまり「エホバの証人は〈本部志向〉であるから布教活動をしている」という主張は、その当初から論点先取となっているのだ。

以上のことから、筆者は山口氏が著書で示した〈本部志向〉という概念が、エホバの証人の信者の宗教実践についてなにがしかの説明を与えうるものだとはおもわないし、この本から拡大要因としての〈本部志向〉のみを取り出して紹介した櫻井氏の論考も同じように妥当な解説だとはおもわない。

しかし、『近現代日本とエホバの証人』は山口氏が佛教大学に提出した博士論文を元にした本であり、多くの研究者の審査を経て公刊された研究書である。専門家たちの厳しい評価の視線がありながら、なぜこうした瑕疵が見過ごされてしまうのか。
ここには構造的な問題があり、社会から批判の的にされる新宗教の研究にまつわるアポリア(難問)が露呈したものだと筆者は考える。

■宗教研究における「外堀からの調査」の登場

2022年に開催されたシンポジウムで、1990年代以降の宗教学の軌跡を回顧した大谷栄一教授は現代宗教研究の起点を1995年に見いだす。いうまでもなく阪神淡路大震災とオウム真理教事件のあった年だ。
オウム真理教事件の衝撃は日本の宗教研究に転機をもたらした。特に島田裕巳氏がオウム問題への発言を批判され大学を辞職に追い込まれた事例は、カルト視される教団を研究するリスクを研究者たちにおもいしらせ、それまでの研究方法へ問い直しがなされることになった。それは「内在的理解」とよばれる、信仰者の意味的世界をフィールドワークにより調査者が明らかにするという調査方法への反省である。

また、宗教社会学者の弓山達也教授はカルト問題を扱ったシンポジウムにおいて、現代宗教を論じようとすると宗教トラブルへの言及を避けて通れない以上、こうした宗教を調査して記述する研究者にはカルトか反カルトのどちらの陣営にくみするかという自らの立場性への自覚が強く求められるのであり、その自覚なしには、いくら研究者の良心に基づいて真摯な信仰者像を描いても、それはカルトに「荷担」することになるのだという。 そして研究者は自らの立場性を表明するところから記述は始まるのではないだろうか、とも述べている。[南山宗教文化研究所編2002:171−172]

つまり、研究手法の見直しと研究者の立場性への問いかけという2点がオウム事件以後の宗教研究に突きつけられた課題だった。
本稿で検討している記事の執筆者である北海道大学の櫻井義秀教授はカルト問題研究の第一人者であり、反カルトの陣営にくみするという自らの立場を旗幟鮮明にしている代表的な研究者である。加えて宗教トラブルを抱えるような教団の研究における、「内在的理解」にかわる「外堀からの調査」という手法の提唱者でもある。その方法論の具体的な中身を櫻井氏は以下のように説く。

これは研究対象である教団の外側から内側に迫ろうとする調査であり、筆者は「外堀からの調査」と呼んでいる。具体的には脱会者や教団に批判的な信者から資料を提供してもらう、 裁判資料に当たる、法廷で傍聴する、当該教団を批判する団体に加わりながら、 なぜ、その教団を批判しなければいけないのかという活動の意味を理解していく。信仰者や教団本部の規範的物語を重視してきた従来の宗教研究とは一線を画す。[櫻井2006:22]

要するに、教団の提供する資料に依拠したり、研究者自らが参与観察をして共感的に信仰者の意味世界を理解しようとする内在的理解と呼ばれるアプローチを捨て、外部からの情報を元に当該の教団を研究する試みである。
そして、『近現代日本とエホバの証人』も「外堀からの調査」という方法論で書かれた本だ。教団に依頼せずとも入手できる刊行物と、4人の脱会者のインタビューをもとに日本におけるエホバの証人の歴史展開を描いている。

櫻井教授との統一教会についての共著もある中西尋子氏は、『近現代日本とエホバの証人』の書評の中で、ないものねだりになると前置きしつつ、本書からは信者の信仰生活の実態があまり詳細には見えてこなかったとコメントしている[中西2022:132]。
しかし「ないものねだり」とは研究が掲げた目標や問いの外側から、それとは関係ない別の事柄の欠如を指摘する外在的な批判を意味するが、おそらくこの場合はそうではない。

なぜならば本書で山口氏が設定した問いとは「日本のエホバの証人がこんにちの教勢を築けたのはなぜか」というものだ。この問いに対して山口氏は〈本部志向〉という分析概念を設定するのだが、この問い自体と深く関係している信者の信仰のリアリティを捨象しているため、説得力のある議論になっていないことは先に指摘したとおりである。
どのような問いであっても研究の方法論がずれていれば有意義な答えは得られないだろう。この場合は、外部条件によって「外堀からの調査」を採用するほかなかったのだとしたら、問いのほうをその調査手法で答えられるものに設定するべきだった。

だが、調査方法を制限する外部条件が学問そのものとは関係のない社会的なものであったならば、つまりカルト視される教団の信者の信仰に理解を示すような研究など許容されないことが自明だったならば、結論が不十分な結果におわったとしてもしかたがない側面もあるだろう。こうした認識でいたので山口氏の研究を紹介した『月刊住職』の記事の中で、櫻井氏がする次のような発言にはやや鼻白んでしまった。

日本におけるキリスト教的文化の土着化という難題が、戸別訪問と伝道時間の投入だけで正面突破が図られ、成功したという山口氏の結論には、そんな簡単なことだったのかとあっけにとられてしまいました。[櫻井2023:116]

筆者は〈本部志向〉という概念がエホバの証人という教団の教勢拡大の要因として意味のある説明だとはおもわないが、山口氏の分析が「そんな簡単なこと」にとどまらざるをえないのには、研究をとりまく社会を含めた複雑な原因があるのであり、櫻井氏は宗教研究の重鎮として単にあっけにとられてていいはずがないとおもったからだ。

しかし、筆者は拡大要因としての〈本部志向〉には否定的な意見だが、停滞要因としての〈本部志向〉にはみるべきものがあると考える。この説明が脱会者のリアリティをきちんと捉えているとおもうからだ。次節で説明しよう。

■〈本部志向〉≒〈組織崇拝〉?

まず次の文章を読んでいただきたい。

ものみの塔の出版物が最も重要なこととして強調することは、組織との関係である。 エホバの証人が伝えようとするメッセージを一言で言うなら、それは「ものみの塔に入りなさい」ということになろう。(中略)エホバの証人は明らかに、組織崇拝者である。(中略)ものみの塔が推進する「組織崇拝」 に対して、一般のキリスト教会はあくまでも、イエス・キリストとの個人的な関係を強調する。具体的に言うと、誰でもイエス・キリストを救い主として信じて、祈りによってキリストの名前を呼び求めれば、その場で救われる、という教えである。どこの組織に入っていようといまいと、関係ない。大事なのは、キリストとの「霊的な出会い」だ。[ウッド1993:200-202]

これはアメリカから来日した宣教師であり、キリスト教の正統の立場から異端としてエホバの証人を批判し、脱会をうながす活動をしているウィリアム・ウッド氏の本からの引用である。書名は『エホバの証人ーマインド・コントロールの実態』というもので、これのほかに彼には『エホバの証人ーカルト集団の実態』という著作もある。
ウッド氏に限らず、組織崇拝という言葉はエホバの証人を批判する際の定番ワードであり、この言葉を検索してみると結果のほとんどがエホバの証人を批判する個人運営のブログであることがわかる。

さて、筆者は山口氏の提示する〈本部志向〉という概念はこの組織崇拝という言葉に影響を受けたものだと推測する。それには次のような根拠がある。

宣教者Xは、教団刊行物を駆使するだけでは「神」が「みえなくなる」とAに助言した。 しかし当初のAがそうであったように、支部レベルにおける〈本部志向〉が成立した後は、むしろ、教団刊行物や世界本部の指導なしには神を知ることも救済されることもない、と考えるような信者育成がなされていく。そして、日本で育成された信者たちは、神と個人という、ある意味本来的なキリスト教のあり方だけでなく、拡大家族やコミュニティの機能的代替としての宗教帰属という二重の拘束性に規定され、世界本部の布教方針とコミュニティの規範に合致すべく、布教活動中心の生活にコミットメントしていくことになるのである。

ここの記述には山口氏が〈本部志向〉を、ただ単に支部や信者個人が世界本部の指示に恭順している状態を示すばかりでなく、本来的なキリスト教のあり方から逸脱した信仰のかたちだと考えていることがあらわれている。そしてそうした理解は教団を批判する他宗教の聖職者の主張、あるいは教団批判者の主張をなぞる脱会者の解釈と軌を一にするものである。

もし〈本部志向〉が組織崇拝という非難と近似する概念であるという推測が正しければ、停滞要因としての〈本部志向〉とは、1990年代半ば以降の多数の脱会者はエホバの証人が組織崇拝に堕しているがゆえに離脱をしているという分析として解釈しなおすことができる。
そして実は、脱会を手引きする教団外部の人たちが提供する断絶の通告書のテンプレートにも、「エホバの証人は聖書の神を崇拝しているというけれども、実際はそうでなく組織崇拝になっているので脱会する。今後自分とは関わりを持たないでほしい」というような文面のものもあるのだ。

しかしながら、「組織崇拝」が批判として成立するのは、神と個人の関係に基づく信仰だけが本来の正しいキリスト教の姿だという、正統から異端への非難という固有の文脈に依存している。これは例えば創唱者が現人神を自認するような全く別の宗教を思い浮かべてみればその特殊性が理解できる。この場合「教祖の指示に絶対服従の中央集権的な組織体制だ」と非難してみたところで、それは当たり前のこととして処理される話だからである(注1)。

だから山口氏が1990年代後半以降に増え続ける脱会者の離脱の理由を、エホバ神の存在の否定や聖書そのものの否定ではなく、〈本部志向〉としてみせたのは実はかなり踏み込んだ分析だ。これは普通に読んでいるだけだと「信者とは教団本部の指示に従う人であり、脱会者は教団本部の指示に従わない人である」という単なるトートロジーにもみえるが、脱会者が自らの脱会の動機やきっかけをどのように再帰的に構築しているのかという視点からは、かなりスリリングな結論になっている。(注2)。

そして、同じ〈本部志向〉という概念でも、なぜ拡大要因としてのそれは無意味で、停滞要因としての〈本部志向〉という概念だけは有意義かといえば、実際に脱会者へのインタビューを通じて、脱会者の論理と意味世界を共感的に理解することができたからである。前節で筆者が調査方法と問いの設定に拘泥したのはこのためだ。もし設定された問いが「エホバの証人の教勢が1990年代以降停滞しているのはなぜか」というものであったならば、万事うまくいっていたはずだからである。

■他者の不合理性を語ることの無意味さ

では批判的検討をまとめよう。
櫻井教授は『月刊住職』の記事でエホバの証人という教団が拡大した理由を山口氏の本に依拠して〈本部志向〉に求める要約をするのだが、煎じつめればそれは以下のような主張だ。

日本のエホバの証人の信者はアメリカの本部の指令に従順にしたがい、伝道時間を捧げものとして布教に邁進したために信者の数が増加した。なぜ彼らがそうした行動をとるのかというと、仮説としては日本人の精神に根付いたうちなるアメリカの影響(山口説)、あるいは日本人の文化的パーソナリティである権威主義と家父長的支配への選好(櫻井説)が考えられる、と。

筆者にはこの説明がなにか意味のあるものにはおもえない。これは特定の宗教を評価する際の、カルト対反カルトの価値判断の争いなどと関係なく、例えどちらの陣営の見解であれ、通俗的な日本文化論に帰着してしまうようなものに積極的な意義を見出すのが難しいということである。

なぜこうした説明が無意味なものになってしまっているかというと、「他者の不合理性」を記述するものになっているからだ。共感的に信仰者の意味世界を理解しようとする内在的理解のアプローチを捨てさったからといって、研究者あるいは研究者が属する一般社会の合理性を前提に、特定の宗教の信者という他者の不合理性をあげつらっても、得られるものは何もないであろう。ましてや宗教研究とは超越的なもの、非合理的なものを対象にしている学問分野だ。信者は不合理だから不合理な行動をしているという記述を容認するのは、分野そのものの自己否定ではないだろうか。

さらにより悪いことに、切り捨てられるべき不合理性と、よりマシな不合理性の比較となれば、それは単なる党派性の問題だ。それは例えば『月刊住職』の記事中で櫻井氏のされた以下のような記述である。

忠実で思慮深い奴隷級14万4千人に従うことになるのです。日本の信者はこの下で楽園においてこの奴隷級の僕になります。これならキリスト教徒になって天国に入れてもらった方がいいのではないかと思うのですが、神はエホバの証人のみ救われるのでキリスト教徒になっても無駄なのです。[櫻井2023:115]

エホバの証人となったものだけが永遠に楽園で生きることができます。生前、エホバの証人にならなかった死者や祖先にも楽園でエホバの証人となる機会は与えられるとも言います。死者の救済のみ、日本人には魅力的ですが、仏教徒になったほうがずっと楽に極楽往生できるはずです。[櫻井2023:116]

なにしろお坊さんしか読まないはずの『月刊住職』の連載記事であるから、筆が滑ったというやつなのかもしれない。しかし、ここの記述にみられる櫻井氏の態度は、宗教を研究対象とする社会学者としては、かなりしょうもない振る舞いのように筆者にはおもえる。

世の中にはさまざまな宗教があり、さまざまな救済観が存在する。それらはそれぞれの宗教の信者にとっては個人の生の意味を決定するような比較不能な価値である。媒体を考慮すれば許容される表現だとはおもう。だが、カルトと反カルトという対立構造が正統と異端、または伝統宗教と新宗教という二項対立を内包しているのは否定しがたい事実であり、反カルトの陣営にくみすると宣言するにしても学者ならば信仰者同士の価値判断の争いからは距離をとるべきではないだろうか。

我々の社会では「まともな宗教」と「カルト宗教」の教義を引き比べて「カルト宗教」の信者の信仰を茶化しても、誰にも咎められることはない。しかし、そうした振る舞いが許容されていることこそが「カルト問題」を社会的に構築しているという視点もあっていいはずだ。

■「脱会者の研究」と脱会者の新たな類型としての棄教した宗教2世研究の展望

実は、本稿における筆者の批判の要諦はすでに専門家によって20年前に書かれている。
宗教学者の渡邉学教授は2003年の「脱会者の研究をめぐって」という論文の結論で、脱会者は脱会した当該団体を知るための情報源としてよりも、脱会者という存在形態そのものを理解するための独立した対象として考える必要があると指摘している。[渡邉学2003:14]

これは信者のいうことと脱会者のいうことのどちらを信じるのか、ということではなく、どちらにもそれぞれの合理性が存在するので、片方の意味世界でもう片方のそれを理解することはできないという、おそらく専門家にとってはあらためて筆者のような門外漢に言われるまでもないようなことであろう。
しかし、本稿では停滞要因と拡大要因としての〈本部志向〉という概念の批判的検討を通じ、研究者が宗教体験の意味づけの政治に巻き込まれると、実際にどのような結果をうむのかを描くことができたのではないだろうか。

この点について示唆に富む記述が社会学者の朴沙羅氏の『記憶を語る、歴史を書くーオーラルヒストリーと社会調査』という本にある。

それに対して、 歴史認識論争に対する社会学的な研究方法の1つは、この 「特定の状況において、過去のある出来事の真偽が問題になる」という現象そのものの成立条件を調べることではないだろうか。 繰り返しになるが、過去の出来事の真偽が問題になることのほうが、日常的には異常事態なのだ。なぜそのような事態が出来したのか、真偽が問題になるときに人々はーその出来事が本当にあったことを肯定する人と否定する人とがそれぞれ、あるいは協働でー何をしているのか。[朴沙羅2023:210]

つい現役信者と脱会者が当該の宗教について言い争うのは当たり前のことと思ってしまいがちだが、裁判沙汰であればともかく、そうでなければなぜそれぞれの個人的な宗教体験を尊重する(言い換えれば、ほっておく)のではなく解釈の争いが起きるのか、そこからみていく必要があるということを読み取れはしないだろうか。

これについて、アメリカの新宗教研究者であるデヴィッド・ブロムリーによる『宗教的背教の政治学: 宗教運動の変容における背教者の役割』という書物では、脱会者、特にカルトからの離反者(apostate)は、カルトに所属していたという負い目を解消するために、自分たちは囚われていたが救われたこと、そして公益のためにカルトに反対するという証言をしがちであり、それは反カルト運動からの支援を受けるため脱会者たち自身が自ら選択した役割であると論じている。つまり脱会者の証言によって反カルト運動が社会的に構築されているという研究である。

筆者は宗教体験の意味づけの政治は、もっと実存的な闘争でもありうると考えているので、脱会者が所属していた宗教を非難するのはこうした理由ばかりではないとはおもうが、ともあれこうした知見も脱会者のナラティブの構築性について考えたり研究する必要性を示唆しているのではないだろうか。

ただ、取り組む人が少ない学問分野だとおこりがちなことだが、脱会者のナラティブの構築性に関する研究の動向に、おそらく日本で一番詳しいのは、こうした研究に対して批判的な立場をとる櫻井義秀教授である。
実はさきほどのブロムリーの『宗教的背教の政治学』の内容も櫻井教授の2014年の著書からの孫引きだ。ただし櫻井氏は要約をしたあとに、ブロムリーの主張を

北米の新宗教研究者たちの基本的見解といってもよいだろうが、カルトの現役信者が誰から物心両面のサポートを得ているのかといった逆の見方に対して多くを語らない。新宗教研究者は基本的に教団側に立つが、それが教団側からの物心両面にわたる支援のゆえでないことを期待したいものである。[櫻井2014:15−16]

というように、内容について吟味することなく、隠された動機を探るような外在的な批判で済ませてしまう。これは残念ながら議論を深める建設的な意見とはおもえない。
しかし櫻井氏が青春を返せ訴訟に巻き込まれた経緯などを知るほどに、日本で職業研究者が脱会者のナラティブの構築性の研究に取り組むのは無理だろうし、それをしないことを責めるのも酷ではないかという気もする。なので職を賭す心配がないような身として、今後も筆者に可能な範囲で研究をフォローしてみようかとおもっている。

おわりに

筆者は冒頭で触れたように、歴史学の分野で学問的な手ほどきを受けたので、正直に白状すれば構築主義的な議論にはうっすら反感と警戒感を持っている。だが、それでも重要な思想的潮流としてこつこつ勉強はしてきた。ゆえに、昨今の宗教をめぐる言説を眺めると2000年以降の人文学で積み重ねられた議論とはなんだったのかと唖然とする思いだ。

「カルト」とみなされる宗教にかぎらず、特定の宗教の任意の信者Aの振る舞いが、当該の宗教の教義から必然的にもたらされる実体として存在するといわんばかりの、本質主義的な議論が横行しているのは知的頽落ではないだろうか。それに複数の特定の宗教団体の2世信者を暗黙のうちに前提としながら「あなたの生きづらさについて声を聞かせてほしい」と募集をかけたインタビュー記事やアンケート調査の構築性に鈍感でいられる人文分野の知識人が多数いるとは、筆者が知的訓練を受けていた時代には想像もつかなかった。(注3)

南山大学でのシンポジウムでは「カルト問題」の社会的な構築と文化的ナショナリズムの関係が論じられている。これは反カルト運動は社会内部の異分子を排斥しようとするある種のナショナリズムと関係があるとする議論であり、これも20年前にはすでに知られていたことだ。
「朝鮮カルト」などという言葉が堂々と流通している現状、イスラム教徒のガンビア人が神社の賽銭箱を壊した事件への排外主義的な反応を見るにつけ、専門家によってこうした過去の研究の蓄積に注意が向けられることがないのは歯がゆい思いがする。

「カルト問題」が社会的に構築されたものだという主張は被害者の口をふさぐ目的で利用されるべきではないし、実際に起こった被害への疑いを煽る道具であるべきでもない。しかしながら「当事者の訴えが持つ圧倒的なリアル」ではない、多角的に物事を見る方法のストックがわれわれにはもっといっぱいあったはずではないだろうか。
筆者のような一般人が付け焼き刃の勉強で警鐘を鳴らさずにすむように、人文系の知識人の皆様にはもっと現状への危機感を持っていただきたいと願いつつ、ここで筆をおくことにする。


このnoteは、公開前に浅山太一さんとゆでたまご屋さんに草稿を読んでいただき、彼らのコメントと助言により改善することができました。各氏に深く感謝します。しかし、最終的な内容と結論については全ての責任を私が負うものです。

・注
*1.本稿では反カルト陣営の意見だから分析として不適切だという議論はしていない。他宗教の聖職者による教団批判や脱会者の否定的意見であっても、現実の教団についての妥当な評価であることは十分にありえる。
神と個人との親密な関係という「真のキリスト教のあるべき姿」との比較はおいておくとして、「組織崇拝」をある教団の高度に中央集権的な組織運営と読みかえるならば、これはエホバの証人の組織の体質をある程度とらえているし、それは教団批判とはまた違った文脈からも説くことが可能だ。
例えば、聖書に書かれた一字一句を文字通りの事実として受けとめる逐語霊感説を教義の中心的な柱にしているエホバの証人は、広義のキリスト教原理主義の教団だとみなすことができる。(狭い意味での、20世紀初頭のアメリカでファンダメンタリストを自称したキリスト教のグループには属していない。)
そしてアメリカの宗教学者であるマーティン・マーティらによる「原理主義」 研究プロジェクトを参照すると、原理主義の教団には次のような4つの組織的特徴があるという。それは、第1に選民思想、第2に善悪二元論的な信者と非信者との区別、第3はカリスマ的で独裁的な指導者の存在、そして第4が信者の日常生活に厳格な規律と行動規範を要求することである。
〈本部志向〉、あるいは組織崇拝とされる組織体質は、3番目の独裁的な指導者の存在という特徴に近似するとみなせるだろう。現実のエホバの証人の組織にあてはめれば、特定の個人ではなく統治体と呼ばれる指導者層ということになるが、聖書の解釈権を独占する指導者層の指示が絶対視されているのを独裁的と形容するのは妥当であろう。
だが、エホバの証人の組織の特徴がこのようなものであったとして、外国に存在する本部の指示を絶対のものとする中央集権的な組織運営をしていることが、すなわち教勢拡大の要因とみなすことが本当にできるのだろうか?
マーティン・マーティらによる「原理主義」 研究プロジェクトは原理主義的なヒンドゥー教の宗派など様々な教団を研究対象にしているが、それらの宗教が日本へ進出したらどの教団でも少なくとも数万人程度の信者は獲得できるのか、といえばそうはならないだろう。

*2.なぜこの結論が面白いかというと、脱会者は反カルト陣営の論理に納得して離脱しているとも考えられるし、離脱したあとに自らの脱会を合理化するためにこうした論理を学習することによって動機があとから創造されているということも考えられ、脱会者のナラティブの創造性や反カルト運動の論理への被拘束性をおしはかる手がかりになりうるからである。
また、もし現役の信者であるうちに組織崇拝という非難が正しい批判だと納得できていたならば、逆説的に神と個人との親密な関係という「キリスト教の信仰の本来のありかた」を、異端でありながらエホバの証人という教団は信者に教化できているとも解釈できる。
筆者の観察の範囲だけでも、エホバの証人の脱会者のなかには、いっしょうけんめい独自に聖書を読みつづけて、ものみの塔の聖書解釈がいかに間違っているかをネットで発信し続けている人がいる。それはさながら「ひとり異端」といった様相で、そもそも創始者のチャールズ・T・ラッセルが再臨派のほかの教派の教えに納得できずに独自に聖書を研究するグループを立ちあげたことを考えると、セクトがセクトを生むダイナミズムが確実に機能しているようである。つまり、もしかすると組織に所属はしていないが、「エホバ神」への祈りによって神との個人的な関係を維持している信仰者はすでに存在していて、我々がそれに気づいていないだけなのかもしれない。

*3.社会調査支援機構チキラボの活動は、こうした方向性を強化するものとして特に注目に値すると考えられる。2022年に行われたインターネット調査に基づいて、調査機構の代表者である荻上チキ氏が編集した書籍では、本来多様な立場を有するはずの集団である宗教2世を「生きづらさを抱えた宗教被害者」として一括りにして取り扱っている。こうした言論活動から生じるさまざまな問題は、社会学の研究者であり調査に協力した当事者でもある浅山太一氏によって具体的に指摘されており、その批判はnoteとしてまとめられ以下のリンク先で公開されている。
・「宗教2世を宗教被害者としてのみ論じることの問題について~荻上チキ編著「宗教2世」書評~」
・「『宗教2世』に対する同化アプローチと調整アプローチ――荻上チキ編「宗教2世」書評への再応答に代えて」

・参考文献

浅山太一(2023a)「宗教2世を宗教被害者としてのみ論じることの問題について~荻上チキ編著「宗教2世」書評~」
https://note.com/girugamera/n/n51a415900c0f (2023年6月1日確認)
浅山太一(2023b)「『宗教2世』に対する同化アプローチと調整アプローチ――荻上チキ編「宗教2世」書評への再応答に代えて」
https://note.com/girugamera/n/n115361eb1617 (2023年6月1日確認)
ブライアン・ウィルソン、粟津賢太訳(1998)「新宗教ーその直面する課題」『東洋学術研究』37巻、東洋哲学研究所、191−211頁。
ウィリアム・ウッド(1993)『エホバの証人ーマインド・コントロールの実態』三一書房。
小川忠(2003)『原理主義とは何かーアメリカ、中東から日本まで』講談社。
岸政彦・石岡丈昇・丸山里美(2016)『質的社会調査の方法ー他者の合理性の理解社会学』有斐閣。
櫻井義秀(2006)『「カルト」を問い直すー信教の自由というリスク』中央公論新社。
櫻井義秀(2014)『カルト問題と公共性ー裁判・メディア・宗教研究はどう論じたか』北海道大学出版会。
櫻井義秀(2023)「キリスト教新宗教教勢拡大の謎」『月刊住職』vol. 585、110-117頁。
中西尋子(2022)「書評: 山口瑞穂『近現代日本とエホバの証人―その歴史的展開』」『宗教研究』96巻3号、126-132頁。
南山宗教文化研究所編(2002)『宗教と社会問題の間ーカルト問題を考える』青弓社。
朴沙羅(2023)『記憶を語る、歴史を書くーオーラルヒストリーと社会調査』有斐閣。
山口瑞穂(2022)『近現代日本とエホバの証人ーその歴史的展開』法藏館。
渡邉学(2003)「脱会者の研究をめぐって」『宗教哲学研究』20号、1-14頁。