宗教問題に取り組むにあたって隔離型という教団類型を使わないほうがいい理由

はじめに

令和5年6月11日、東京大学の島薗進名誉教授に引用リプライをいただいた。
筆者は昨今の報道・言論状況における特定宗教団体への過剰な攻撃を憂い、ダッヂ丼平という筆名でnoteにいくつかの文章を公表している。とくに個人的な利益があるわけではない活動をおこなう動機と背景は、母親がエホバの証人の信者だった家庭に生まれ、自分自身も高校生の時期までその宗教コミュニティに所属していたということが半分、自由で民主的な社会に価値をおく自由主義者であるからが半分といったところだ。

要するに、母親がエホバの証人だったけど自分は信者じゃないただの一般市民である。ところがいくつか宗教関係の文章をnoteで発表しているうちに、そのうちの1つがネットで知りあったお友達の皆さんのおかげで拡散され、島薗進先生のお目に留まるまでになったのである。改めてnoteを読んでいただき、RTをしてくれた皆さまに深く感謝の意をあらわしたい。

さて、島薗先生がコメントしてくださったのは「ジェンダーと「宗教2世問題」:エホバの証人の例を中心に」というタイトルの記事だ。筆者は当該noteにおいて、1970年代後半から90年代にかけてエホバの証人の信者数が伸長していった要因を、子育て中の母親たちに聖書が子どものしつけに役立つとする勧誘文句がアピールしたことに求めた。そして信者となった専業主婦が熱心に布教活動をおこない、それをまた別の子育て中の母親たちが聞くことで教勢が拡大したのだと述べている。加えて「宗教2世問題」の文脈ではエホバの証人の家庭は母親だけが信者のケースが非常に多かったことを当事者の観察として報告し、教団内では夫が妻の信仰に反対している場合を反対者、容認している場合は理解者と呼んで区別していたが、夫がどちらの態度をとるにしても家庭での宗教面での不一致は子どもの日常に緊張を与えていたのだと論じた。

この記事への島薗先生の感想ツイートを以下に掲出する。なお本稿では読みやすさを考慮し、ツイートをそのままリンクで貼ることはせず、注でURLを示すことで出典を明らかにしたい。

新宗教研究者としては、ジェンダーの重要性という論点には賛成だが、60年代までの新宗教の布教の主役となった女性たちとエホバの証人の女性たちの対比が聞きたいところ。霊友会系教団も女性中心だがエホバの証人のパターンとはだいぶ異なる。当惑者も多いのでは。当惑者を次第に巻き込んで行くのが従来の新宗教。「夫を尊びながら仲間にしていく」という教育的なモラリティがあって、社会適応的な信仰活動と歩調が合う。ところが、エホバの証人の場合、そうではなくて社会からの隔離と閉鎖的共同性を志向する。そのために夫は理解者か反対者のどちらかにならざるをえない傾向があるのかも。これは、女性信徒の家庭に対して、教団の宗教性に由来する強い亀裂力が加わりやすいということでもある。そのように女性信徒を通して家庭を脅かす作用が生じやすいのが、「痛む宗教2世」多出要因の1つでは?

@shimazonoにより令和5年6月11日に投稿されたツイート【注1】

一見それほど難解なことが書かれているようにはみえないかもしれないが、実はそこそこ新宗教研究の文脈への理解が必要とされるコメントである。太字にしたところが難しいポイントだが、これくらい分かるだろうと見込んでいただいたのは光栄にも感じる。しかし島薗先生は筆者のことをちょっと買いかぶりすぎな気がしなくもない。感想をいただいてから内容を把握するための勉強に2か月近くも時間がかかってしまった。

本稿ではまず島薗進先生のコメントへ筆者に可能な範囲で応答をし、応答をすべく勉強した過程で気づくことができた、ある問題点を指摘する。そしてその問題点の検討を通じ、島薗先生が30年ほど前に提示された教団類型論を、現在の宗教問題をめぐる議論にそのまま採用するのはよしたほうがいいと、読者に感じていただくのが本稿の目指すところである。

■「夫を尊びながら仲間にしていくモラリティ」の有無

まず、上掲のコメント(以下、6/11コメントとする)には当惑者という言葉が登場するが、これは拙noteで紹介したエホバの証人の教団用語の理解者・反対者という表現に引っかけて「妻の入信に戸惑う夫」という意味で用いられていると考えられる。
つまり霊友会系教団には夫を尊びつつ仲間にしようとする教育的なモラリティがあり、女性信者たちは妻の入信に戸惑う夫を次第に巻き込んでいくことができたがエホバの証人にはそうしたモラリティがない、という主張だと言いかえていいだろう。これにはいくつかの点から反論を申しあげることが可能である。
以下に引用するのは、エホバの証人の発行する出版物のうち、信者たちが集会でクリスチャンとしての心構えを学ぶためのテキストである『王国宣教』1993年2月号の「未信者の家族を援助する」という記事からの抜粋だ。

早い時期から積極的に努力する: (中略)未信者の夫を持つ妻は,まず夫を真理に導こうとする真剣な願いを持つことが大切です。なりゆき任せにしたり,良い機会が訪れるのをただ待つだけでは良い結果は望めません。夫がクリスチャン会衆の仲間の成員たちを親しく知る機会を設けてください。夫を遠ざけないようにしましょう。そうするなら,夫が見捨てられているように感じて疎外感を持ったり組織に対する不安を抱いたりして反対することを防ぎ,安心感を抱かせるのに役立ちます。(中略)
夫婦および家族の絆を強める: たとえ宗教面での違いがあるとしても,聖書は現在の家族関係が引き続き神に受け入れられることを示しています。(コリント第一 7:12-16)そうであれば,夫婦の絆を強め,家族関係をより良いものとするようクリスチャンの妻は最善を尽くすべきではないでしょうか。【注2】

引用部分前半では夫を同じ信仰の仲間にするための努力をするよう、女性信者にうながしていることがうかがえる。さらに引用部分後半では、たとえ宗教面での違いがあっても現在の家族関係は神に受け入れられるとし、夫が同じ信仰を選ばなかったとしても妻は夫婦関係の維持に最善を尽くすべきだと書かれている。それに加えてエホバの証人の聖書解釈では、配偶者の不貞行為以外の理由での離婚は聖書的ではないとされているのだ。(マタイ19:9)
この資料からは少なくとも教えのレベルでは夫を信仰の仲間にすることを理想とし、そして家庭内に宗教面での違いがあったとしても夫婦関係の維持のための努力を信者である妻のほうに強くうながす規範がエホバの証人にあったといえるだろう。

さらに、信者に配られていたテキストだけで実態は把握できないとするならば、信仰が原因で起きる家庭内の葛藤を観察するのは手がかりになるはずだ。例えば、四半世紀前の時点でいわゆる「宗教2世問題」を取材していた米本和宏の『カルトの子』では、先に入信した母親が子どもだけでなく父親も宗教活動に誘い、それが原因で家庭内に摩擦が起きている様子を描写している。[米本2000:81ー146]

最後に、もし他教団との比較を試みるならば生存者バイアスについても考える必要があるだろう。なぜ夫が理解者か反対者かのどちらかにならざるをえないかといえば、エホバの証人の女性信者が夫婦間や家庭内で宗教の違いがあったとしても信仰するのをやめない例が多かったからだ。
たとえ比較対象としてどんな教団があげられようとも、もし任意の教団に入信した女性信者がみんな家族を巻き込むのに成功し、家族ぐるみで信仰生活をおくったようにみえたとすれば、それは夫や家族を巻き込めずに、自分自身も宗教実践をやめてしまった女性信者が観察できていない可能性のほうが高いのではないか。そしてそれは特定の教団とは関係なく日本社会に存在した、あるいは今も存在する、夫婦や家族が宗教面で一致していたほうが望ましいという価値観の影響によるものではないだろうか。
もちろん「宗教2世問題」について、家庭内での宗教の不一致が子どもの日常に緊張をもたらしていたと論じた上掲のnoteの執筆者として、そのような意見には共感できなくもない。だが筆者は冒頭にも述べたとおり自由主義者であるので、家族間の宗教の一致が個人の信仰の選択よりも優先されるのが、必ずしも望ましいとはいえないという考えだ。
それに親の宗教がなんであろうとも、子どもにはそれを信じない自由があるべきだとする主張は、たとえ家族でも個人として信仰の違いを互いに尊重しあうほうが望ましいとする考えに基づくものであるはずだ。一見すると社会適応的にみえたとしても、家族間で宗教の違いがなくなれば軋轢は避けられるという考えからは導きだせないだろう。

以上みてきたように、まぎれもなくエホバの証人という教団にも夫を信仰に巻き込もうとするモラリティは存在した。にもかかわらず、夫も信者になるケースが少数にとどまったのはなぜだろうか。確かな結論には改めてリサーチと考察が必要だが、すぐにおもいつくものとしては、週に3回の「集会」と呼ばれる勉強会への出席や布教活動の義務などの宗教実践が、就労している成年男性には負担だったことがあるだろう。しかしこうした仮説にもきちんとした検討が必要であり、それには信者だけでなく信者を取り巻く人々への調査も含まれることだろう。
ちなみに補足情報として、現在は集会は週に2回に減り、コロナ禍をきっかけに2020年からは各家庭からオンラインで集会に参加できるようになった。2023年に対面での集会が再開された後も、地域や会衆によって差はあるものの、そのインフラが活用されているとのことである。

しかしながらここで6/11コメントを見返すと、夫が信仰の仲間になりにくい理由を「霊友会系教団は従来の新宗教だが、エホバの証人はそうではないからだ」という対比で説明する意図が読みとれる。では従来の新宗教とはなんなのか、2つ目となる難しいポイントに注目してみよう。

■「旧」新宗教と新新宗教

従来の新宗教という表現の少し前を見てみると60年代までの新宗教と同じ意味で使われていることが読みとれる。そしてこのことから、6/11コメントで対比されているのは「旧」新宗教新新宗教だと推定できるのである。
「旧」新宗教と新新宗教とはなにかを説明する前に、以下のグラフを見てもらおう。日本のエホバの証人の信者数の推移である。

山口瑞穂『近現代日本とエホバの証人ーその歴史的展開』2022年、法藏館、271頁から転載

70年代を起点に90年代後半まで右肩上がりの信者数の増加があったことがはっきりと見てとれる。そして、新新宗教とは1970年以降に顕著な発展をとげた新宗教のことを指すのだ。このグラフからも分かるように、エホバの証人は新新宗教に分類される。

もう少し詳細に立ち入ると、新新宗教という言葉のもともとの考案者は宗教社会学者の西山茂だった。呪術色の濃い神秘主義を掲げるカルト的な教団と、終末論的な根本主義を掲げるセクト的な教団とが信者を増やしていることに気づいた西山が[西山1986:6]、1979年にそれらを「新しいタイプの新宗教」として半分ダジャレで新新宗教と呼んだのがはじまりだ。[西山1997:26]のちに西山は〈霊=術〉の宗教という概念にこの言葉を発展的に解消し、新新宗教という語を使わなくなるが、これを引き取ってより広範な概念として論を展開したのが島薗進である。
だから正確にいえば島薗進による新新宗教の定義が「1970年以降に顕著な発展をとげた新宗教」ということになる。もしくは第4期新宗教と呼んでもいいかもしれないともしているが、第4期とは1970年以降のことを指すので意味としてはほぼ同じだ。
その新新宗教論は主著の『現代救済宗教論』の第九章「新宗教と新霊性運動」を皮切りに、岩波ブックレットの『新新宗教と宗教ブーム』やその他の論考で発表されたが、それらの大部分はのちに2001年の『ポストモダンの新宗教』 にまとめられ、この本は2021年に文庫化されている。

しかしながら1970年を境界線とし、発展した時期によって新宗教を「旧」新宗教と新新宗教に分ける島薗進の議論は、これまでにもいくつか有力な批判が寄せられてきた。2015年の日本宗教学会第74回学術大会におけるパネル 「新宗教論の再検討:後期近代社会における展開を踏まえて」は、近年における批判的な検討のひとつである。パネルの報告者であった大西克明と塚田穂高の論文から、新宗教を「旧」と新新に区別する目的とはなんだったのか、また区別の試みは成功を収めたのかどうか、後続する世代の宗教研究者の見解をみてみよう。

まず区別する目的についてだが、そもそも新宗教とは「近代化に応答する形で新たに発生・伸長した民衆的宗教運動、という時代的概念」であり[塚田2016:2]、「新宗教論は、「新宗教」を論じながら、同時に、日本にとって近代とは何であったのかを問う時代社会論でもある」[大西2017:42]と捉えることができるという。
このような近代という時代に強く関連づけられた新宗教概念の存在を前提に、1970年代以降に発展した宗教が持ち合わせていた近代性とは異なる要素を、ポストモダンの時代の「文化や思考様式・行動様式の兆候」[島薗1997a:30]として見てとろうとする意欲が新新宗教という概念には込められていたといえるだろう。
とりわけ発展に注目する姿勢も、ある時代に信者数を伸長させている宗教団体の特徴には、その時代の本質が反映されているとする野心的な仮説に由来していると思われる。これは宗教を研究する専門家にとっては、自分たちが取り組む研究の意義として魅力をもつ考えだったに違いない。
とはいえ、よしんば「各時期に顕著に発展した教団をその時代を代表する宗教運動とする見方が適切」[島薗2021(2001):27]だとしても、19世紀のアメリカで発祥したエホバの証人の宗教実践に、1970年代以降の日本のポストモダンの時代相が反映しているとみなすことの妥当性には、やはり疑問を感じざるをえない。

次にかつて新新宗教として区別された諸教団が、近年にどのような状況になっているのかについて触れよう。塚田穂高は平準化という言葉を用いて、新新宗教とされたものと「旧」新宗教とが時間の経過とともにあまり変わらないものになってきていることを明らかにしている。加えてかつて新新宗教の特徴とみなされたものや、「旧」新宗教との差異だと思われたものは、運動の発展段階に拠る面があったと述べる。そして2015年時点での小括として、「今日、特定の運動に対して「新新宗教である」と呼び続けることに意義はほぼ認められない」[塚田2016:23]としているのだ。

以上のことから、6/11コメントの「60年代までの新宗教の布教の主役となった女性たちとエホバの証人の女性たちの対比が聞きたいところ」という箇所については、「旧」新宗教と新新宗教を区別する議論の有効性には疑問が提示されており、個別の教団同士を比較する目的以外で両者を対比させる意義は、現在ではあまりないのではないでしょうか、という意見をもって応答とかえたいと思う。
しかし女性信者の比較については、エホバの証人の例だけに限ればインフォーマントとしてお手伝いができるかもしれませんとも急いで付記しておきたい。

みてきたように、『ポストモダンの新宗教』の出版から20年以上を経て、新新宗教論の土台は揺らいできているようだ。しかし2020年に出版された島薗進『新宗教を問うー近代日本人と救いの信仰』という新書では自説の新新宗教論に立脚した通史的説明がなされており、必ずしも専門家コミュニティでこの研究テーマについて、合意が形成されているわけではないようである。
だが、非専門家の筆者としてはこれでは少し困るところがある。
なぜならば、新新宗教論がまだ有効な議論かどうかは、6/11コメントの太字で強調した最後の難しいポイントである「エホバの証人の場合そうではなくて社会からの隔離と閉鎖的共同性を志向する」という箇所と深く関係しているからだ。
それというのもここの記述は、新新宗教論をもとにした教団類型論を適用したものをそのまま説明として述べているのである。

では、本稿のここから先ではこの教団類型論についての筆者の勉強ノートを公開しつつ、特に隔離型という類型についてその概念の妥当性について考えてみたい。
しかしそれは、新宗教研究という学問分野での確からしさの議論に参加することが目的ではない。あくまで筆者の問題関心のありかは、この教団類型論が現在の宗教問題をめぐる社会的な議論に持ち込まれた時に、どのような影響があるかという点にある。
だが結論を先取りしてしまえば、タイトルにあるとおり“宗教問題に取り組むにあたって隔離型という教団類型を使わないほうがいい“と読者に思ってもらうのが本稿の目標とするところである。

■新新宗教の教団類型論と隔離型という分類の概略

島薗進の新新宗教論は、はじめから教団類型論とセットで展開された。『現代救済宗教論』の第9章「新宗教と新霊性運動」ではすでに信徒共同体の緊密さの度合いを基準に新新宗教を「隔離型」「個人参加型」「中間型」の3つに分類する議論が提出されている。以下の引用にあるとおり、エホバの証人は隔離型に分類される。

新新宗教にはさまざまな教団が含まれるが、緊密な信徒共同体を作っているかどうかという点から、次の3つのタイプに分けることができよう。 まず第一のタイプは、一般社会から隔離されたたいへん緊密な信徒共同体を作ろうとする隔離型の教団で、エホバの証人、統一教会、山岸会、オウム真理教などが含まれる。[島薗2006(1992):228]

それでは共同体の緊密さの度合いが何によって測られているのかといえば、隔離型の場合は信徒が世俗の職業や家族生活を放棄し、道場やホームと呼ばれる場所で世俗社会から隔離された信徒だけの共同生活をおくっていたりするという、信者たちの行動の観察にもとづいている。ただし、1992年の『新新宗教と宗教ブーム』の以下の引用にあるとおり、それには次のような例外が認められる。

なお、エホバの証人は共同生活の場を設けているわけではありませんが、頻繁な集会や厳しい生活規範や伝道活動の義務のために、世俗社会との間にかなり厚い壁が築かれています。エホバの証人は隔離型の教団にふくめてよいでしょう。[島薗1992:21]

このように、はじめから半ば例外的に隔離型として分類されたエホバの証人だが、信徒が集団生活を送っていることと、宗教実践によって世俗社会との間に厚い壁が築かれていることを、どちらも同じ「隔離」と表現することの妥当性は問われてよいだろう。
では、隔離された場所で共同生活をしているわけではないエホバの証人を隔離型にふくめてよいとする判断の根拠はなんなのか、どうやらそのヒントは「現世離脱」とか「現世否定」という言葉にあるようだ。それは以下のような文章から推察できる。

【二】現世志向から現世離脱へ
これも隔離型の教団に典型的に見られる特徴だが、「旧」新宗教の現世志向に対して、新新宗教では現世から離脱することや、現世外の霊的世界での生に高い価値を置こうとする傾向が見られる。[島薗2021(2001):62]

エホバの証人も現世否定的な教えが強く、悪にまみれた現世に間もなくキリストの再臨があり、終末が近づくと唱える。千年王国主義的、終末観的な教えを掲げる教団である。そして、一般社会と距離をとり、できるだけ多くの時間を布教に費やす現世離脱的な生活を信徒に強いる。そのために信徒集団は、一般社会から隔離された内閉的な集団となる。この点では、統一教会やオウム真理教と近いところがある。[島薗2022b]

しかし隔離型という教団の類型と「現世否定」を結びつけて論じることには、少なくない問題が存在している。

■隔離型という教団類型の問題点①:素朴な「現世否定」観

厳密にいえば、新新宗教論では現世否定的な教えを掲げることと隔離型になることの関係について、はっきりと明言されることはない。明確な言及が避けられる理由のひとつは、信者たちが隔離された場所で共同生活をおくってはいるものの、農業を基盤とした生産・販売者の共同体であり、世俗主義に親和的なヤマギシ会が隔離型に分類されているからだろう。
それに典型的に見られる特徴とされつつも、新新宗教とくくられた運動の中で隔離型だけが現世離脱的な要素を持つとされるわけでもない。それは例えばこんな記述でも明らかとなる。

そして隔離型の内部はたいへん均質で、組織的にコントロールされており、個々人の自由は乏しい。外界との軋轢が生じやすい。ただし、中間型の場合はこれらと異なる。そこでは新新宗教に広く見られる現世離脱的な傾向が見える場合でも、世俗社会との安定したつながりが保たれており、外部との軋轢が生じにくい。[島薗2021(2001):92]

しかしながら、ひとつ前に引用した2022年の記事の「そのために」という接続詞にあらわれているように、最近の著作には現世否定的な教えの強さと、隔離された内閉的な集団となることとの間に、関係があるかのように書いてある箇所が散見される。
だがそもそも「近いところがある」とされるエホバの証人と統一教会とオウム真理教の現世否定的な教えやその行動様式は、本当に近いといっていいものなのだろうか。

『ポストモダンの新宗教』では本全体を通じて「現世否定」「現世離脱」「現世拒否」といった表現が新新宗教の特徴として使用されるものの、これらは全て「旧」新宗教の特徴である「現世肯定」または「現世志向」の対比として用いられている。
つまり、この世で幸福に暮らすことが救いに通じるとする「旧」新宗教的な「生命主義的救済観」と異なった要素として把握することが主眼であり、その中での差異に注意が払われることはほとんどない。だが歴史上存在した数多くの宗教はそれぞれの教えにもとづき、その時代の世俗社会と千差万別の関係を形成してきた。宗教団体が一般社会から距離を取る仕方はそれ自体が研究に値するものであり、一緒くたにはできない要素ではないだろうか。

例えば宗教的な現世拒否について、宗教学者の石井研士は「現世拒否とはなによりも積極性を志向しているのであって、次々に現れる誘惑に対する常なる積極的戦いであって、「現世逃避」とは異なる」という。[石井1991:31]
石井の指摘はマックス・ウェーバーを踏まえたもので、ウェーバーは『宗教社会学』で現世拒否的禁欲と現世内的禁欲の区別について論じたのちに、それらと現世逃避とを区別する必要についてこう述べている。

古代仏教をはじめ、程度の差こそあれアジアおよび西南アジアに見られる救済のほとんどすべての形態に固有なこうした観照的現世逃避は、禁欲的世界観に類似して見えるが、これとははっきり区別されるべきものである。[ウェーバー1976(1921-1922):215]

ウェーバーの仏教理解には時代的な制約も大きく、この区別をそのまま採用することはできないかもしれない。だが、宗教が世俗と距離をおくやり方を、ひと口に「現世否定」ととらえることを戒めるものであることは確かだろう。それに加えてなんでもかんでも同じ「現世否定」だとみなす方法がうまくいかないことを如実に示すのが、現在取り沙汰されている、いわゆる宗教2世問題だ。

米本和宏『カルトの子』は島薗がはじめに隔離型に分類したオウム真理教、エホバの証人、統一教会、ヤマギシ会の2世信者たちを取材した本だが、通読すればそれぞれの教団が世俗社会と距離をとる仕方によって、信者である親を持つ子どもたちの体験した苦労は全く違うものだったことがわかる。
例えばオウム真理教やヤマギシ会といった信者たちが集団生活をする団体では、子どもたちは親から引き離され、まとめてとり扱われる中で世話や教育の責任の所在が曖昧になり、いわゆる恒常的なネグレクト状態にあったと証言されている。
主に母親をつうじて厳格な道徳基準や教団の信者としての自覚をうながす宗教教育が、時に懲らしめのむちも振るわれつつ、それぞれの家庭で実施されたことへの怨嗟の声が中心となるエホバの証人とは全く対照的であることがわかるだろう。
これらの問題について、女性を対象に市場を通じて供給されるスピリチュアリティを研究している社会学者の橋迫瑞穂は、基本的には島薗の新新宗教論に準拠しながらも、新新宗教に仕分けられた教団の2世問題にあらわれる違いに注意を向け、こうした差異がそれぞれの教団における女性信者の位置付けや教団の宗教性と関連していると論じている。[橋迫2021:12-13(電子版)]

このように、具体的な宗教問題の中身に踏み込んで観察してみれば、隔離型に分類されるから現世否定の志向が強く、それによって家庭を脅かす亀裂力が生じるという風には一概にまとめられない様相があることが理解できる。
さらに「宗教2世問題」の文脈からいうならば、それぞれの教団の宗教性に由来する世俗との距離の具体的なあらわれこそが、親と子の双方の人権と自由の調整局面における重要な関心事のひとつであり、新宗教研究の専門的な知見が必要とされるところではないだろうか。

ここでは隔離型の教団に典型的に見られるとされる現世否定という特徴が、その中身の違いが吟味されることなく、一律に現世否定あるいは現世離脱とみなされているため、世俗社会からの距離の取り方の差異が見落とされている可能性を考慮した。
それと同じように、信者たちが集団生活を送っていることと、宗教実践によって世俗社会との間に厚い壁が築かれていることを一律に隔離とみなして同じ類型に仕分けすることも、そこに存在する差異を見落とすことになるのではないだろうか。

とはいえ、「隔離型とは道場やホームと呼ばれる場所で世俗社会から隔離された信徒だけの共同生活を送ること、もしくは隔離された共同生活の場を設けていなくとも頻繁な集会や厳しい生活規範や伝道活動の義務のために、世俗社会との間にかなり厚い壁があること」と類型の提唱者が定めるのならば、そのこと自体に異論をさし挟むことはできない。
なので、次に考えたいのはこの隔離型という概念が適切な用いられかたをしているかどうかという点である。

■隔離型という教団類型の問題点②:概念の混乱した使用法

寺田喜朗と塚田穂高は教団類型論の再考を試みた2007年の論文において、過去の日本の新宗教研究では次から次に新しい類型概念が提出されてきたものの、それらをお互いに参照しようという意識に乏しく、共同的継続的な研究の蓄積につながっていないと指摘している。[寺田・塚田2007:3]そしてそうなってしまう要因の一つとして「何のための類型かという目的意識が希薄だった」ことを挙げているのだが、これはいいかえると、その分類のための概念を用いればどのような説明が可能になるのか、という意識の共有に課題があったといえそうである。

この点について、カルナップに依拠して心理学でのパーソナリティ概念の用法を整理した、心理学者の渡邊芳之の論文が参考になる。[渡邊1995:81-86]渡邊によれば心理学で用いられる構成概念は、傾性概念(disposition concept)理論的構成概念(theoretical construct)という2つに分類される。
傾性概念は特定の状況下で観察された行動パターンを抽象的に記述しただけのものであり、その意味内容は観察に完全に還元され、しかも観察された状況に依存する。傾性概念はそれが観察された状況要因に変化がない場合には行動の規則性が維持されると期待できるが、先行条件が変化した場合はパターンどおりに行動するかどうかはわからない。
一方、後者の理論的構成概念は観察に還元できない剰余意味を持ち、それによって状況を越えた一貫性をもつ。なので新たな予測のために用いることができるし、原因論的な説明も可能となる。

重要なのは傾性概念は行動パターンの原因についての情報は持たないということと、実際にパターンどおりに行動するかは文脈や環境に左右されるということである。
そして傾性概念を剰余意味を持つ理論的構成概念と混同して用いると、さまざまな間違いの元となるのだ。

では渡邊による構成概念の整理を手がかりに、『ポストモダンの新宗教』の議論をみてみよう。
まず「隔離型」は傾性概念である。
島薗が1992年に新新宗教の一部の教団を「隔離型」に分類した基準とは、信徒共同体の緊密さの度合いであった。それは信徒たちの信仰生活を観察して得られたパターンを抽象的に記述したものであり、そのとき観察された行動とは以下のようなものである。すなわち、

  • 世俗社会から隔離された信徒だけの共同生活を送っていること

  • 厳格な道徳規範があり、生活の面でさまざまな制限があること

  • 信徒が多くの時間を布教活動や奉仕作業にあてていること

  • 頻繁な集会や厳しい生活規範や伝道活動の義務があること、などである。

特定の状況下で観察された信者たちの行動の規則性を抽象的に表現した傾性概念は、観察情報を縮約することで情報伝達を容易にし、観察者の認知を効率化するのにも役立つ。
前節の問題点①では隔離型に仕分けられた教団の信仰生活の内容について、それを一律に現世否定と取り扱っていいかどうか疑問をていしたが、行動パターンが同じものだとみなせる限りにおいて、分類のための概念としても用いることができる。
しかし当然ながら隔離型という概念に、どうしてこれらの教団の信徒が共同生活をしているかの情報は含まれない。

ところがオウム真理教による地下鉄サリン事件がおきた1995年以降、隔離型という類型の記述に変化が生じる。新たに宗教集団の内閉化という参照軸が登場し、それが社会への敵対ないし攻撃と関連して語られるようになるのである。
『ポストモダンの新宗教』第9章は、もとは「宗教集団の内閉化と近代自由主義」というタイトルで1995年10月発行の『宗教法』14号に掲載された論考だったが、内閉化という特徴を以下のように説明している。

一つは宗教集団の内閉化とよべるような特徴である。一般社会とのより明白な断絶、敵対ないし関係拒絶を志向する傾向が増えた。「自由」の語と結びつく、多元性や多様性、あるいは表現の自由や情報への無制限のアクセスといった価値に対して、集団を閉じ、メンバーと外界の間に厚い壁をもうけて内の統一性を守り、むしろ攻勢的に外部に打って出るといった姿勢をとるのである。[島薗2021(2001):276-277]

第9章では内閉化の際立つ宗教団体の代表例としてエホバの証人がとりあげられており、そこでは内閉性のあらわれを輸血拒否・格技拒否・国歌や校歌を歌わないこと・誕生日やクリスマスを祝わないこと・選挙に参加しないこと・伝道活動の義務や頻繁な集会への参加などといった宗教実践に見いだしている。[島薗2021:279-284]
これらの信者の行動は、1992年にエホバの証人を隔離型に分類する根拠となったものである。それが1995年の論考では宗教団体の内閉化の具体的な実例として挙げられているが、この時点では二つの概念の関係は自明ではない。この疑問に対し、第9章の続く記述では内閉性とは隔離型の教団に共通する特徴であることがはっきりと明示される。少し長くなるが言及されている箇所を引用しよう。

 このような隔離型の教団は、一般社会との接触を極小化しようとしているようだが、新しい信徒のリクルートや資金資源の獲得には熱心で、そうした拡充膨張から生じる対立をいとわないものもある。このためいくつかの教団は外界からも非難と敵意を浴びるようになり、ますます内にこもり、その頑なな姿勢を際だたせることになる。内にこもりながら集団の拡充のための行動には積極的で、時にはあたかも戦車のごとく鎧に身を固めひたすら前進を続けるマシンのように見える。 このように外界とのコミュニケーションを拒み、攻撃的な関わりを持続させるという特徴を第七章では内閉的という語で示した。
 内閉的な教団の特徴の一つは、内部での組織的な一致団結がたいへん強固で、きわめて効率的で軍隊的といってもよいような集団行動をとることができることである。命令系統が確立しており、一元的な指揮系統にそって自己拡充の行動が遂行され、いつの間にかその体系の中に織り込まれることに安堵を覚えるように仕向けられ、逸脱は静かに排除されていく。過去にあった宗教的隔離のパターンとは異なる、「組織の時代」「群衆(大衆)の時代」としての現代に特有の集団秩序のパターンである。こうした攻撃的な組織された群衆的集団の性格を内閉的という語の意味に含めたい。[島薗2021(2001):284-285]

注目すべきなのは、隔離型の教団には「外界とのコミュニケーションを拒み、攻撃的な関わりを持続させるという特徴」があり、これを内閉的という語で表現すること、さらに「攻撃的な組織された群衆的集団の性格を内閉的という語の意味に含めたい」と書かれていることである。
明らかにここでは内閉化という特徴を足がかりとして、隔離型という概念の意味が拡張されている。
もっといえば地下鉄サリン事件の少し後に発表されたこの論考を境に、もともとは信徒共同体の緊密さをあらわす意味だった隔離型という概念に、攻撃的な組織された群衆的集団という意味が含まれることになったのである。

だが第9章で宗教集団の内閉化のあらわれの代表例としてピックアップされたエホバの証人の宗教実践にはこれといって社会にたいして攻撃的と思われる要素がないため、全体的に首をかしげざるをえないような内容になっている。
さらには、隔離型の特徴として提示された内閉的=攻撃的という分析が、実際の観察にもとづいたものなのかどうか、2022年7月21日にWebに掲載された記事の次のような一節を読むと疑問は深まるだろう。

しかし、エホバの証人は一般社会に攻撃的に関わって、正体を隠して強引に信徒に引き入れたり、献金を強要したり、高額の物品を売りつけたり、信徒に過酷な活動をさせたりということで問題になることはあまりない。被害者として訴訟を起こすような人もさほど多くない。外部に対する攻撃的な関わりを通して拡張をとげようとするという点では、目立たない教団と言える。[島薗2022b]

ここでは1995年の論考では内閉化の際立った宗教団体の代表として扱われ、隔離型のいい例とまで言われたエホバの証人という教団の攻撃性について「目立たない」とする評価がくだされており、隔離型および内閉的な教団は「攻撃的な組織された群衆的集団の性格」を特徴として持つという分析が、実際の観察によって確認されたものではないことをうかがわせるものとなっている。

それに加えて、内側へひきこもるイメージの隔離・内閉性という言葉に、外部への攻撃性という齟齬のある意味をこめてしまったため、矛盾するような記述もでてきた。次に引用する『ポストモダンの新宗教』の第7章は1996年に書かれた論考であり、先ほど取りあげた第9章の後に書かれたものである。

しかし、一般社会との間に信頼関係を結ぶことを拒み、多数の部外者との間で長期にわたって敵対関係や関係断絶の姿勢をとり続ける教団はいくつかは存在する。いわば「内閉的」な態度をとろうとするのである。 第一章で行った新新宗教の共同体のあり方に基づく類別に即していうと、「隔離型」の教団の中にそうしたものが多い。
統一教会や法の華三法行、ライフスペースやエホバの証人は内閉的な宗教教団の代表的な例である。 創価学会は1970年前後の言論妨害事件以来、協調的な姿勢を次第に強めてきたが、今なお猛烈な選挙活動や批判者への過剰防衛的な反応など内閉性が目立つ機会がある。創価学会が急成長をとげた1950年代頃から、日本社会では「救済」を掲げて人々の団結を促す新宗教教団が内閉的になりやすく、事実、内閉的であり続ける方が勢力伸張に有利であるような環境が整い始めたと思われる。[島薗2021(2001):236-237]

このように、内閉化という言葉に一般社会との関係断絶と攻勢的に外部に打って出る姿勢という意味を同時に付与したため、創価学会の猛烈な選挙活動も、エホバの証人が国政選挙の投票に参加しないことも、どちらの行動も宗教団体の内閉性の発露だとみなすような矛盾が生じてしまうのである。
こうした矛盾した議論になってしまう原因は、まず相反する内容を同時に含めてしまうような意味の拡張が混乱を招き、その上いわば分類のためのラベルである隔離型と内閉性という傾性概念を、理論的構成概念のように用いるという逸脱した使いかたをしていることがその混迷を一層深めている。

問題なのはこうした錯綜した類型概念の使用法が2022年の安倍元首相の暗殺事件に端を発するさまざまな宗教問題をめぐる議論へと持ち込まれ、そこで過去の議論との整合性が問われることなく、分析の道具のように扱われてしまっていることである。

一例として、2023年の年頭に出版された『政治と宗教:統一教会問題と危機に直面する公共空間』という編著で島薗はオウム真理教と旧統一教会を対比させる議論を展開させている。そこでは、オウム真理教と旧統一教会はどちらも隔離型の教団であり、両教団とも攻撃的に社会と関わる現世離脱的な信徒集団であるのに、旧統一教会だけが存続しているのは政治的な庇護があったからかもしれないと論じている。[島薗進編2023:32-37]
オウム真理教が実行したのは死者も出ているテロであり、旧統一教会が批判されていることが高額献金や霊感商法であることを考えると、問題の大小も関わっているのではないかとも思えるが、ここで考えたいのはオウム真理教と旧統一教会の「攻撃性」をわざわざ対比して論じることの意味である。

そもそもオウム真理教と旧統一教会が隔離型という類型に仕分けられたのは、ホームや道場で信徒たちが厳格な道徳規範を守りながら一緒に暮らしているという、特定の状況下における行動の観察によるものだったことは何度でも立ち返るべき点だろう。
つまり隔離型という類型は信徒共同体の緊密さの度合いが強いことを示すための、信者の行動の観察に還元される傾性概念だという原点である。

オウム真理教は多くの人々を巻き込むテロへ至ったが、旧統一教会の場合は多くの殺人を犯すには至っておらずそこには大きな違いがあるだとか、現世離脱的で内閉的であっても攻撃的ではない(エホバの証人)だとか、隔離された場所で共同生活を送っているが世俗主義に親和的(ヤマギシ会)だとかの対比を論じてみたところで、それは傾性概念を理論的構成概念のように取り扱い、観察されたパターンを通状況的な一貫性があるかのように思うことから生じる疑似問題であって、特定の状況を離れたところでそれぞれの教団の行動に差異があるのは、類型に用いた概念が傾性概念であることを了解していれば当然のことなのである。

念のために付け加えておくが、これまで述べてきたことは、旧統一教会が関係した霊感商法や高額献金問題が被害者を生まなかったと主張するものではない。また、旧統一教会の関連団体が夫婦別姓や同性婚などに反対していた事実を、これらの政策に賛成する人々が自分たちへの攻撃だと捉えることを否定するものでもない。
だが、それらの諸々の社会との摩擦や軋轢の原因を特定の宗教団体の内側に実体的に存在する「社会への攻撃性」に投影するような説明はおそらくうまくいかないだろう。そもそも攻撃的な行動が文脈や環境と関係なく一貫して行われているとみるのは実際の観察に反しているし、攻撃的な行動とはみなせない振る舞いが理由でも宗教問題は発生するからである。

心理学の論文で警告される錯誤が宗教学の著作にあてはまる現象は興味深いが、これは『ポストモダンの新宗教』では宗教団体を擬人化したような表現が多用されていることともおそらく無関係ではないようにおもわれる。
擬人化を多用するような議論をできるだけ避けたほうがよい理由は、それが宗教問題の解決に取り組むにあたり悪影響を及ぼす可能性があるからである。

まず第一に、先ほど述べたように、特定の条件を離れても通状況的に一貫して教団の隔離性=内閉性=攻撃性が保持されていると考え、それが社会との摩擦の原因だと思う錯誤に陥いる危険性があげられる。この視点では、対象を宗教団体ではなく、なにやら単なる攻撃的な性格の集団としてしか捉えられなくなってしまう。
第二に宗教団体と一般社会との間に生じる軋轢の要因を、特定の教団の攻撃的な性格に帰する説明をしていると、解決策がその組織の性格を正すこと、いわば心を入れ替えさせることになってしまいがちだからである。こうなってくると教団の逸脱行動の再発防止策が先行条件を変化させる方向性で実施されても、批判者の目には「反省が足りていない」と映ってしまい、逆に問題の解決から遠のくこともしばしばだ。

ここまで教団類型概念の用法を批判的に検証してきた締め括りに、述べてきたような一連の錯誤が露骨にあらわれている箇所に触れておこう。最初の引用は1992年の岩波ブックレット『新新宗教と宗教ブーム』の記述で、次の引用はその箇所が『ポストモダンの新宗教』の第一章として収録されたときに加筆をほどこされた文章だ。

なお、エホバの証人は共同生活の場を設けているわけではありませんが、頻繁な集会や厳しい生活規範や伝道活動の義務のために、世俗社会との間にかなり厚い壁が築かれています。エホバの証人は隔離型の教団にふくめてよいでしょう。[島薗1992:21]

なお、エホバの証人は隔離された共同生活の場を設けているわけではないが、頻繁な集会や厳しい生活規範や伝道活動の義務のために、世俗社会との間にかなり厚い壁が築かれている。
「カルト教団」として批判されるものの多くは、この「隔離型」の教団である。このタイプの教団は部外者を敵として、あるいは良き配慮に値しない存在と見る傾向がないとはいえず、それが犯罪にまで及ぶことが少なくない理由の主要なものの一つであることは確かだろう。[島薗2021(2001):51]

付け加えられた部分は非常に婉曲的でもってまわった表現になっているが、その要旨は隔離型に分類される教団は外部の人間を敵視し、犯罪行為に至る可能性があるとほのめかすものである。
また、隔離型という類型には主な3つの事件だけで24人の死者と約6000人の負傷者を出したオウム真理教が含まれている。この事実は当該の記述がほのめかす犯罪が、外部の人間に直接的な危害を与えるようなものだと、読む人に連想させるのに十分だろう。

さらにここの加筆された文章は、2022年7月16日、2022年7月19日、2023年6月11日、2023年6月14日、2023年6月20日の計5回、SNSの島薗のアカウントから自著を引用する形で投稿されている。
しかしながらこれまで見てきたように、隔離型という教団類型は信徒共同体の緊密さの度合いを観察に基づいて抽象的に記述した傾性概念であって、先行条件を無視して行動の予測に用いることはできない。

ただし、このほのめかしが失当していると断言できるのは隔離型の教団が個別の状況と関係なく犯罪傾向があるとしているからである。
ゆえに類型とは全く関係なく、たとえばさまざまな事情を勘案してエホバの証人という宗教団体およびその信者が、外部の人間にたいしてなんらかの犯罪行為に及ぶ危険性があるという裏付けが存在する場合には必ずしも誤りとは決めつけられない。
さはさりながら根拠も明らかにせず特定の宗教団体が犯罪に及ぶ傾向があるかもしれないとほのめかすことが、社会的に非常に問題のある行為であることは論を俟たないであろう。もし具体的な懸念がなにかあるとすれば、そう主張する側はそれをきちんと説明する義務があるのではないだろうか。

おわりに

宗教学者の井上順孝は1995年の地下鉄サリン事件以後、宗教団体について 「オウム度」とでも呼ぶべき判断基準が社会に定着したようだと指摘している。[井上2009:103]いうなれば任意の宗教の“危なさ“をオウム真理教に似ているかどうかで測ろうとする姿勢のことだと換言できるだろう。

30年近くたって事件の記憶も風化してきたものの、普通の人がオウム真理教に似たところがある宗教に不安を感じるのは当たり前の話であり、それは一概に責められたものではない。
とはいえ、例えば新新宗教と「旧」新宗教の平準化の説明でも指摘されるように、メンバーに占める若者の比率が高くなることは、一般的に草創期の宗教運動に共通してみられる現象だという。その意味で、人口に膾炙した「オウム真理教は若者をひきつけた」という視点から、入信者に若者が多いからオウム真理教に似ていると結論してしまうようなことには問題がある。そんなときこそ新宗教研究の出番であり、意味のある類似点と、意味をなさない類似点について、専門家の交通整理が期待される場面であろう。
だが、もともとは信徒共同体の緊密さの度合いを示すだけだった概念に基づき、オウム真理教と同じ類型に属しているというだけの理由で、曖昧に特定教団の危険性をほのめかすような議論が学術の世界から発信されるようでは、社会はその悪影響を受けざるを得ない。これは非常に問題である。

以上が宗教問題に取り組むにあたり隔離型という類型を使用するべきではないと筆者が考える理由であり、同時にこれから宗教に関する議論をするときの、目指すべき姿についてのささやかな提言である。
この論考を書くきっかけを与えてくださった島薗進先生に、ここで再度お礼を申しあげたい。特に、筆名でSNS上で活動する筆者のようなアカウントに対して、質問へ寛大な対応をしていただいたことには改めて心からの感謝の意を表したい。

筆者のような非専門家が、付け焼き刃の勉強で宗教問題についての概要をつかむことができるのも、島薗先生をはじめとする宗教の専門家たちの精緻な研究の積み重ねがあってこそである。
この論考が日本の新宗教研究分野への、非専門家の立場からの些少ながら建設的な貢献となっていることを願いつつ、ここで筆を擱くこととする。


この記事は、公開前に海老さん、浅山太一さん、そしてゆでたまご屋さん各氏に草稿を読んでいただき、彼らの大変有益な助言によって改善することができました。各氏に深く感謝します。しかし、最終的な内容と結論については全ての責任を私が負うものです。

・注

【注1】島薗進のツイート。2023年6月11日(2023年6月18日確認:https://twitter.com/shimazono/status/1667810757856362496
https://twitter.com/shimazono/status/1667813090627551232
https://twitter.com/shimazono/status/1667816038573166593)

【注2】「王国宣教」1993年2月号、3−6頁。(2023年6月21日取得)エホバの証人は2010年代から急速にIT化を進め、ポータルサイトのjw.orgからは過去のものも含め膨大な出版物にアクセスできる。引用した王国宣教もWebに掲載されている。だが過去の出版物が完全に網羅的に掲載されているわけではないため、予言の失敗や教義の変遷があったことを隠蔽する狙いがあるとして、しばしば反教団の人々から非難の対象となる。

・参考文献

(Webで読めるものについては可能な限りリンクを貼った。)

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ウェーバー, M.、武藤一雄・薗田宗人・薗田担訳(1976)『宗教社会学』創文社。(原著1921-1922)
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島薗進(1997b)『現代宗教の可能性ーオウム真理教と暴力』岩波書店。
島薗進(2006)『現代救済宗教論』青弓社。(第一版1992年、本稿では復刊選書を使用)
島薗進(2020)『新宗教を問うー近代日本人と救いの信仰』筑摩書房。
島薗進(2021)『ポストモダンの新宗教ー現代日本の精神状況の底流』法藏館。(初版2001年、東京堂出版。本稿では文庫版を使用)
島薗進(2022a)“統一教会とオウム真理教を対比する【前編】”. Modern Times. 2022-07-20. https://www.moderntimes.tv/articles/20220720-01rel/, (参照2023-07-28)
島薗進(2022b)“統一教会とオウム真理教を対比する【後編】”. Modern Times. 2022-07-21. https://www.moderntimes.tv/articles/20220721-01rel/, (参照2023-07-28)
島薗進編(2023)『政治と宗教ー統一教会問題と危機に直面する公共空間』岩波書店。
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橋迫瑞穂(2021)『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』集英社。(本稿では電子版を使用)

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